めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年7月10日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<信仰にとどまり続ける者は、必ず、苦しみ苦難を通る>


★新約聖書 使徒行伝 14:22
   ・・・「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。
 
★新約聖書 使徒行伝 9:16
   彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつも
   りです。
 
★旧約聖書 イザヤ書 63:9
   彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわ
   れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
 
●イエスがパウロについて言われた「彼(パウロ)がわたしの名のために、どんなに苦しまなけ
ればならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」ということばについて、推考してみた。(使
徒9:16) このことばは、確かにパウロについて語られたものだが、イエスは、パウロ以外の
我々人が、この主のことば知るようになることをご存知だったと思われるので、我々にも語っ
ておられるのではないだろうか。 確かに、パウロはこの主のことば通り、その後のパウロの
生涯は苦難の連続だった。(Uコリント1:8、6:4、7:5、11:27、ピリピ3:10、Tテモテ3:7) 
しかし、イエスの名のために苦難を受けたのは、パウロだけではなく、パウロが建てた教会の
人たちもまた苦しみ苦難を通っている。 パウロが書いた手紙から そのことを窺(うかが)い知
ることができる。 
 
例えば、パウロは、コリントの教会の人たちには「・・あなたがたが私たちと苦しみをともにして
いるように・・(Uコリント1:7)」と書き、ピリピの教会の人たちにも「あなたがたは、よくわたしと
苦しみを共にしてくれました。(ピリピ4:14)」と書いている。 また、テモテには「あなたがたが
苦しみを受けているのは、この神の国のためです」と言っている。(Uテモテ1:5) 以上のこと
から、本当に、命がけで主イエス・キリストを信じている者は、イエス・キリストのゆえに苦しみを
通る、苦難を通っている思われる。 
 
当時、パレスチナ地方(ユダヤの地)やエジプトは、ローマの属州となり、ローマ人総督の厳し
い支配におかれ、地中海はローマが支配した。 また、ローマ皇帝は、キリスト教徒が皇帝を
神として崇拝する皇帝崇拝を拒否したため、キリスト教徒を危険な存在として、しばしば弾圧し
てきた。  しかし、それでも、単に、このような当時の世相のみが苦難の原因ではない。 むし
ろ、当時の世相さえ、彼らが苦難を通るための道具になっているような感じさえある。 歴史を
顧みれば、使徒時代だけでなく、使徒時代から現代に至るまでの間で、純粋にキリストのため
に困難苦難を通った人が多々いる。 そして、その多くの人々が、主が喜ばれる「信仰」を全う
したという事実がある。 キリストのために苦しむこと、苦難を受けることは、あえて神が、ご自
分の子たちに通されたことであると思われる。(へブル12:5-8) 「あなたがたは、キリストのた
めに、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ
1:29)」とパウロが言っている通りである。
 
ところで、旧約聖書、創世記5章「アダムの系図」がある。 ノアの大洪水以前は、人間の寿
命が長かった。 アダムが930歳、セツ912歳、エノシュ905歳、ケナン910歳、マハラルエル895
歳、エレデ962歳、エノク365歳、メトシェラ969歳、 レメク777歳、ノア950歳である。 ノアが600
歳のとき、大洪水が起きた。 この大洪水以降から徐々に人間の寿命は短くなっていったよう
だ。 長寿の時代の中でもエノクは365歳と短い。 エノクについて「エノクはメトシェラを生んで
後、三百年、神とともに歩んだ。」、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼は
いなくなった。」と書かれている。(創世記5:22、24) ノアも「神とともに歩んだ。(創世記6:9)」
と書かれてはいるが、エノクの場合、苦難を通ったとは考えられないだろうか。 長寿の中に一
人エノクだけが寿命が短い。 もちろん、ノアも箱舟造りで苦難を通った。 ただ、ノアは神のご
計画のゆえ、大洪水からの救いを通り、950歳まで生きた。
 
旧約時代、「死」を見ずして天に挙げられたのは、エノクとエリヤである。(創世記5:24、U列王
記6章) エノクとエリヤの時代は時間的に、ずいぶんと違うが、エリヤの地上での生涯は、異
教の神バアルとその預言者たちとの戦いであった。 すなわち苦難の連続だった。 エノクの
場合、神は悪がなくて心の良い人をまことに愛して、みもとに置きたいと思われたから、地上で
生きたのが、当時の寿命の3分の1ほどだったと言う方も多いが、著者は、そうとは思わない。 
エノクについての記述は少ないので推測ではあるが、「神とともに歩んだ」すなわち、エノク
は、神の喜ばれる「神への信仰」にとどまり続けた。(へブル11:5) それゆえ、何らかの苦難
困難を通ったのかもしれない。 
 
また、エノクが65歳のとき、息子メトシェラを生んだが、エノクは、そのことが契機となって300
年、神とともに歩んだ。 メトシェラの名まえの意味が、「彼の死がもたらす」「彼の死後に送ら
れる」「彼が死ぬとそれ(裁き)が送られてくる」という意味があるという。 エノクは、メトシェラが
生まれたとき、神から特別な啓示、すなわち「大洪水のさばきの啓示」を受けていたから、この
ような意味のある名まえをつけたのかもしれない。 エノクにとって、そのことが、それまでの歩
みとガラリと変わる大転換となったと思われる。 エノクは、300年の間、息子の名まえを呼ぶ
たびに、「大洪水のさばきの啓示」を思い出したことだろう。 そのことは、ある意味、エノクに
とって「苦しみ」だったかもしれない。 神の裁きがくだって滅びゆく者たちがいることを思い、心
を痛め、悲しみつつも、、自らは、神の御前にへりくだって「神とともに歩んだ」のではないだろ
うか。 エノクに啓示された通り、メトシェラの死後、神の裁きの大洪水が起こった。 メトシェラ
は969歳で死んだが、メトシェラが187歳の時、息子レメクが生まれ、レメクが182歳の時、息子
ノアが生まれた。(創世記5章) 187歳+182歳+600歳=969歳 メトシェラの出生は、洪水の裁
きに対する神の啓示、神のご計画であった。 
 
さて、パウロは、「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。(Uテ
モテ2:3)」と言っているが、まさに「イエスへの信仰」にとどまり続けることは、戦いである。 外
側の敵は、サタンであり悪霊である。 内側の敵は、生まれながらの自分(自己、自我、肉)で
あろう。 この戦いは、苦しみであり苦難が伴う。 しかし、この戦いなくして、主の望まれる信
仰に留まることはできない。 パウロは、「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難
をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
語っている。(ローマ6:17) 真剣に主イエス・キリストを信じ受け入れることと、苦しみ苦難は切
り離せないようである。 
 
今日、「イエス・キリストを信じることは容易く、信仰も容易い。 主にお願いすれば、万事うまく
いき、苦しみを回避でき、絶えず平安に満たされる。」と教えているキリスト教会も多いと聞く。 
しかし、パウロや実際、命がけで信仰してきた多くのキリスト者たちの生きざまを見る時、そん
なやわなものではない。 「イエスへの信仰」を、そんなやわなものに引き下げてはならないと
思う。 もちろん、キリストを受け入れて間もない者は、生まれたばかりの赤子と同じだから、信
仰も浅いし、レベルも低く、幼稚かもしれない。 
 
しかし、一旦、イエス・キリストを信じて神の子とされた者であるなら、「成長」する。 自分の努
力で成長するのではない。 主が育て成長させる。(Tコリント3:6) ただ、主が成長させようと
望まれているのに、生まれた乳飲み子が、純粋な、みことばの乳を求めないなら、または、主
が、ひとりひとりに応じての体験(出来事、事がらなど)を通して乳を与えようとしているのに、
主に頼ることをせず、むしろ拒否して自分の考え、思いを遂げようとしたりするなら、成長する
どころか、せっかく受け入れたキリストから遠ざかり、聖霊が働きたくても働けないようになって
しまう危険性がある。 
 
「成長する」ということは、「自分を捨てる」ということであり、それは「自我が砕かれる」こと、「肉
(生まれながらの性質)が切り取られる」ということである。 自我が砕かれ、肉が切り取られる
ことには、苦しみが伴い、痛みが伴う。 また、「信仰が成長する」ということは、「いのちに至る
門」までの道を苦労して、苦難を通って「狭い門」を見い出すことにつながっていく。 ちなみに、
狭いからはいりなさい。・・・いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者は
まれです。(マタイ7:13,14)」狭い門」「狭い」は、文字の意味の通りの「狭い」であるが、
「道が狭いというときの「狭い」原語は、「苦難が多い」「苦労する」という意味合いがあると
いう。 「狭くて小さい門」を見いだすとは「狭い門」までたどり着く道は、苦難が多く厳しいという
こと。 だから、その「狭くて小さい門」を見いだす者はまれなのである。
 
いずれにしても、主イエス・キリストを信じるということは、決して、軽いことではない。 岩のよう
にどっしりとした重みがあり、深みのある信仰へと成長していくなら、キリストを真に知る道を進
むことになる。 そして、それが「主とともに歩む」ことであり、「主への信仰にとどまる」ことであ
る。 成長させてくださる主を意識するしないにかかわらず拒まないように気を付けたいもので
ある。 
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 1:6
   もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たち
   が慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けて
   いる苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:18
   今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、
   取るに足りないものと私は考えます。
 
 



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