めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年7月3日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
「主のことば」をいただくことは、一人一人にある神の計画の中の一部を知らされていることで幸いなことである


★旧約聖書(口語訳) 詩篇 12:6
   主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:4、5
   すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷の
   ない者にしようとされました。 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリスト
   によってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
 
●キリストを信じている自分が今、どのあたりにいるのかなど、今までに経験したことや現在、
体験していること、与えられている主からのことばビジョン、霊的感覚などを祈りつつ、いろ
いろ考えてみた。 キリストを知る前の罪深いこと、キリストに出会ってからの多くの失敗、傍か
ら見ると愚かと見えるような数々の事がら、数えきれないほど受けた主の助けとあわれみと恵
み、今まで経験してきた主からの訓練試練、今なお続いている主からの訓練試練・・・など思い
考えることは多々あるが、大小さまざまな出来事、事がらの一つ一つは、すべて神のご計画の
中にあり、主のあわれみがあったからこそ、許されて、それらの過程を通って今日まで来るこ
とができたのではないかとつくづく思い、主に感謝した。 
 
さて、「神はすべてをご存知である」ということで、それに関するみことばを幾つか書いてみる。
 
★旧約聖書 詩篇139:2-4 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思い
    を遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことご
    とく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをこ
    とごとく知っておられます。
 
★旧約聖書(新共同訳) 箴言5:21人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて
     計っておられる。
 
★旧約聖書 イザヤ書 46:9,10遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいな
    い。 わたしのような神はいない。 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされ
    ていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し
    遂げる。』と言う。
 
★旧約聖書 第一列王記8:39・・・あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからで
    す。(使徒1:24、15:8)
 
★新約聖書 Tヨハネ3:19 ・・・神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからで
    す。(すべてをご存じ:口語訳、新共同訳)
 
★新約聖書 へブル人への手紙4:3・・・みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
                  (口語訳:みわざは世の初めに、でき上がっていた。)
 
他多々ある。 我々が信じている神は「全知全能の神」であるが、『知らないことは一つもなく、
できないことは何もなく、すべてのことを知り尽くし、行える完全無欠の能力を持っておられる
神』であるということだ。 「知」は物事の本質を見通す力、「能」は物事を成し遂げる力である。 
要は、神は永遠から永遠までの時間、歴史のすべて、出来事や事がらのすべてを知っておら
れるということである。 また、神は永遠から永遠までのこと、すなわち過去から未来までを、
一度にすべてを見渡すことができる方である。 そして、神は、ご自身が決められたこと、ご自
身の計画、すなわち、ご自身が意志されたことは何でもできる方であり、必ず成就される方で
ある。(ヨブ記42:2) 
 
また、我々人間のすべてを知っておられる。 人の髪の毛までも一本残らず数えられていると
イエスは仰せられた。(マタイ10:30、ルカ12:7) 神は、我々の過去も現在も未来(将来)も、す
べて知っておられる。 我々の人生だけでなく、我々のすべて、それも心の奥底にある「思い、
考え、感情・・」なども知っておられる。 また、神は、我々を試される方でもある。 「神は、人
の心と思いとを調べられる」「思いと心をためされる方」と書かれている。(詩編7:9,11:4,5、T
歴代誌29:17、エレミヤ11:20,12:3) 
 
人は、神に試されることで、主の望まれているように変えられていく。 その神の試しにクリアし
たときには、自分の思い、自分の考え、自分の気分など「自分」より、「主なる神」が優先されて
いる。 それは、自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られるからである。(マタイ
16:24、マルコ8:34、ルカ9:23) 神の試しは、一度っきりというのではない。 繰り返される。 
言うなれば、それほど我々人の内側は簡単なものではないからだ。
 
また、神は、人にも計画を立ててくださっている。 「信仰の父」と呼ばれたアブラハム、その子
イサク、イサクの子ヤコブ、神を愛し神から愛されたダビデなど聖書の登場人物の生涯を見る
と、神のご計画の中を歩み、神に導かれて歩んでいることがわかる。 しかし、神によって計画
が立てられているのは、彼らだけではない。 我々一人一人にも神のご計画はある。 ただ、
どのような計画があるのかを前もって知ることは難しい。 本当は、まっすぐ主が定められた道
を歩むためには、前もって神が自分に立てておられるご計画を知りたいと思うが、なかなか知
ることは難しいと思われる。 
 
それでも、方法がないわけではない。 要は、「主からの語りかけ」、「主からのことば」をいた
だくのだ。 「主からのことば」は、主が直接に語られたり、夢や幻、霊的感覚、聖書を通して、
また、牧会者など人を通して語られ、出来事などを通しても主は語られることがある。
 
さて、人が「主からのことば」をいただくことは、神がその人に立ててくださっている緻密なご計
画の中のほんの一部を知らせてくださっているということである。 それは、とても すごいこと
であり幸いなことである。 「主のことば」の内容によっては、神からの一方的な神の恵みであ
る「主のことば」がある。 それは、アブラハムが神から与えられた「一方的な神の恵みの契
約」と同じで、「神の計画(神の定まったみこころ)」である。 だから、一旦語られた「主のこと
ば」は、主なる神のご責任において、必ずその通りになる。(イザヤ14:24) たとえ、邪魔や妨
げがあったとしても神は必ず、「ことば」通りになさる。 ただ、そのような「主のことば」を語られ
た者は、主からの訓練試練を受ける。 ことばの内容の大きさによっての訓練試練がある。
 
また、もう一方で、「主からのことば」であっても、「ことば」通りにならない場合がある。 ひとつ
には、人の応答(返答の言動)の如何によって、「ことば」通りにならないことがある。 そのよう
なときの「ことば」は、往往にして、主が人に望まれている「ことば」が語られている場合が多い
ようである。 聖書のことばでいうなら「互いに愛し合いなさい。(ヨハネ福13:34)」「主のみここ
ろは何であるかを、よく悟りなさい。(エペソ5:17)」などである。 そのような「ことば」は、人の
応答(返答の言動)の如何による、すなわち「その人の自由意志に任されている」のである。 
 
もうひとつは、「主のことば」の内容によって、「みこころ」の中でも「主のお気持ち」の場合は、
その「ことば」通りにならない場合がある。 「神の計画」「神のみこころ」ではあるが、「主の御
思い」「お気持ち」の部分の場合があり得る。 そのような場合は、その「ことば」通りになら
ないこともあり得る。 その場合は、人の自由意志に関係ない。 「神の定められたみこころ
(神の意志、神の計画)」「神の望まれるみこころ(主のお気持ち、主の御思い)」は区別され
るべきときがある。
 
「神のみこころ」とは、「神の計画」であり「神の意志」である。 「神のことば」「主のことば」こそ
が、「神のみこころ」「主のみこころ」である。 「みこころ」には、神の意志、意思、お気持ち、御
思い、・・すなわち「神ご自身」が介入されておられるから、我々は、「神のことば」「主のことば」
に意識して返ることが重要である。 もし個人的に与えられた「神のことば」「主のことば」があ
るなら、尚々、絶えず「ことば」に返り、「ことば」を尊ぶことが大切である。 それが、「神のみこ
ころのままに」「主のみこころのままに」とへりくだることである。 
 
とにかく、ますますキリストとの交わりを深くしっかりとしていき、いろいろなかたちで主が語って
下さろうとしているか細い御声を聞こうと(霊)の耳、心を絶えず主イエス・キリストに向けていき
たいものである。
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇37:23,24
   人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は倒れても
   まっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。
 
 
 
 



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