めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年6月26日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
神は人間ひとりひとりに個性を与え、キリストと共に躍動することを望まれている


★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3,4,5
   私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与
       えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
   一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じよう
   に、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官
   なのです。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:3
   何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた
   者と思いなさい。
 
使徒行伝15章39節にパウロとバルナバが、マルコとも呼ばれるヨハネを、第二次伝道旅行
に一緒に連れて行くか行かないかで意見が激しく衝突したと書かれている。 第一次伝道旅行
のとき、このマルコは、途中で離脱し、エルサレムに戻ってしまったからだ。 第一次伝道旅行
はアンテオケにある教会の預言者や教師たちが、主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言わ
れたことから始まった。(使徒13:2) しかし、第二次伝道旅行は、パウロがバルナバに、「先
に主のことばを伝えた町々の兄弟たちを訪問して来よう」と言ったことから始まった。(使徒1
5:36) それで、祈りや断食がなかったから、主のみこころを求めておらず、パウロの願いで
あったことで、激しく衝突してしまったという見方もあるようだが、そうではないと思われる。 
 
確かに、第二次伝道旅行はパウロの提案によって始められたが、第一次伝道旅行で主の兄
弟となった人たちを力づけようというのが、パウロの動機だった。 だから、ギリシャまで足を伸
ばそうとは考えていなかったようだが、主の方がパウロをご自身のご計画の中に導いたと思わ
れる。 主はパウロたちの決めた進路(アジヤ)を拒否され、マケドニヤ (現在のギリシャ)に行
くことを指示された。 「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった(使徒16:7)」「それを」
は、原文では複数形になっているという。 要は、パウロは、自分の計画を何度か試みようとし
たが、イエスの御霊がそれを許可しなかったということである。 パウロとバルナバという二つ
の伝道チ−ムによって、かえってより広い地域に伝道できる結果となった。 それはバルナバ
とサウロ(パウロ)を世界宣教に派遣するという主のみこころ通りになった。
 
また、第三次伝道旅行のときも祈りや断食をして主のみこころを求めたとは、あえて書かれて
いない。 それでも、第三次伝道旅行でも聖霊は大いに働かれている。 「神はパウロの手に
よって驚くべき奇蹟を行なわれた。(使徒19:11)」と書かれている。 確かに何か行動するとき
には、祈りや断食が必要なことも多い。 しかし、パウロのように人間の発案、提案のように見
えても、実は、まず神のご計画があって、主の導きで動いているということがある。 このこと
は、パウロで見るなら、パウロは、神に選ばれており、(パウロ本人が気づいているいないに関
わらず)神の御手の下にとどまっていたということが、神が「良し」とされた大きな要因である。
 
バルナバの最初の登場は、初代教会が経済的に困窮したときであった。 教会を迫害してき
た暴力的なパウロが突然回心。 パウロは、なんとかしてエルサレムにいるクリスチャンとの
交わりの中に入ろうとするも、エルサレム教会の人たちは誰もパウロを信用することができな
かった。 そのとき、バルナバだけがパウロを信用し、使徒たちへの仲介を果たした。 バルナ
バは、ユダヤ人の中でも、最も保守的なレビ族の出身。 パウロは、バルナバのゆえにエルサ
レム教会の人たちに受け入れられたと言っても過言ではない。
 
また、推測ではあるが、バルナバはマルコを育てながら、自分自身も砕かれ変えられることも
多かったのではないだろうか。 かなり前にすでに、ユダヤ人の食物規定を捨てていたペテロ
が、アンテオケの教会に来たとき、ちょうどエルサレム教会のヤコブのところから来ている割礼
派の者たちを見たとき、異邦人とともにしていた食事の席から人に気づかれないようにして離
れてしまった。 明らかに偽善である。 バルナバまでもが、その行動に引き込まれてしまうと
いうことがあった。 ペテロは、パウロから、みなの面前で厳しく指摘された。 そのことは、バ
ルナバにとっても砕かれる要因になったと推測できる。 このように、バルナバは、名まえの意
「慰めの子、励ましの子」にふさわしい者として整えられながら生涯、主イエス・キリストにつ
いていった。
 
さて、マルコと呼ばれていたヨハネについて。 「マルコ」ギリシャ名であり「ヨハネ」はヘブ
ル名である。 「マルコによる福音書」の著者である。 最後の晩餐が、このマルコの母の家で
行われ、イエスの話を聞いていたマルコは、イエス一行について行った。 しかし、祭司長、律
法学者、長老たちから差し向けられた群衆が、イエスを捕らえたとき、亜麻布を捨てて、裸で
逃げて行った。(マルコ14:50-52) エルサレムにある実家は裕福だった。(使徒12:12-14) 
マルコはバルナバのいとこである。(コロサイ4:10) 
 
第一次伝道旅行のときは、若く、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさ
い。(マルコ8:34)」という主のことばのようには整えられておらず失敗したが、主は、バルナバ
を用いて、また、直接主ご自身で、主の働き人として成長させた。(Tコリント3:6,7) パウロと
バルナバが、マルコのことで激論して別行動をとったことは、むしろマルコにとっては、パウロ
の厳しさとバルナバの寛容さということで大きな体験的な学びになったと思われる。 それこ
そ、主のご計画である。
 
聖書には書かれていないが、マルコは、いろいろな訓練試練を通って鍛えられたと思われる。 
マルコはパウロの信頼を取り戻したからである。 マルコは、失敗から約10年後、ローマ皇帝
による裁判を待って監禁中のパウロと共にいた。(コロサイ4:10) パウロは「彼(マルコ)は私
の務めのために役に立つ」と言っている。(Uテモテ4:11) また、ペテロは「私の子マルコ」
言い、晩年のペテロと共にマルコはローマにいた。(Tペテロ5:12-14) マルコにも、終生イエ
スの御力が働き続け、マルコ自身もキリストに出会ってからの生涯、主イエス・キリストについ
ていったことがうかがえる。
 
このようにしてみると、パウロとバルナバが激しい反目となったことは、パウロが正しい、バル
ナバが間違っている、また、その反対というのでもない、すなわち正しい間違っているという問
題ではないということだ。 神は人間ひとりひとりに個性を与え、それぞれの仕方で成長するこ
とを望んでおられる。 ひとりひとり、成長過程、成長するための時間には違いがある。 
 
主は人間ひとりひとりの個性を尊重しているように思われる。 もちろん、自我は砕かれ、肉は
切り取られるという作り変えられの必要はあるが、主は、上手く個性をいかされる方であると思
う。 主は、ひとりひとりの個性に応じて、それぞれ異なった賜物を与えられておられる。 だか
ら、ひとりひとり働きが違う。 キリストが、パウロのうちでもバルナバのうちでも生きておられ
た。 しかし、パウロの個性もバルナバの個性も失われたわけではない。 キリストがパウロと
バルナバのうちで生きることにより、むしろパウロやバルナバそれぞれの生命と個性は、いき
いきと活動し、充実し、輝きを放ったのである。 
 
マルコにおいても訓練試練を通るうち整えられて、マルコのうちにもキリストが生きられ、マル
コは、パウロやバルナバとは違ったかたちで、いきいきとパウロやペテロに仕え、充実し、輝き
を放ったのである。 ビジョンにあった網の中の魚たちは、一匹一匹、大きさも形も色も違って
いた。 いわば魚一匹一匹に個性があるということだ。(めんどり通信/2016年6月12日/2016
 
とにかく、主は一人一人に個性があることを、良しとされている。 もちろん、個性は、清められ
なければならない部分がある。 パウロは、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞ
れ異なった賜物を持っています(ローマ12:6)」と言っている。 パウロ、バルナバ、マルコに与
えられている賜物は違う。 たとえば、同じ「牧会者」の賜物であっても、与えられているひとり
ひとりの個性に応じて表われ方、使われ方は違う。 だから、互いに人を自分よりもすぐれた
者と思うことが大事なのかもしれない。(ピリピ2:3) また、「一つのからだには多くの器官が
あって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあっ
て一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:4,5)」「それどころか、か
らだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(一コリ
ント12:22)」と言ったパウロは、マルコのことから学んだと思われる。 我々も互いに「個性」
認め合い、キリストが我々一人一人のうちに生きることによって、我々の生命と個性が、躍動
して輝きを放てるようになりたいものである。
 
★旧約聖書 伝道者の書 10:14
   ・・人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができ
   よう。
 
 



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