めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年3月27日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「サタンに引き渡される」ことについて思考:Tコリント5:5、Tテモテ1:20>


★旧約聖書 エレミヤ書 18:8
   もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思って
   いたわざわいを思い直す。
 
★旧約聖書  エゼキエル書 18:32 
   わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔
   い改めて、生きよ。
          
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 6:19
   あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あ
   なたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
 
新約聖書27巻のうち13の手紙が、パウロによって書かれたと言われている。(へブル人へ
の手紙は著者不明というのが有力なので含まず) パウロの書簡の中で、罪を犯した信者を
「サタンに引き渡した」と二度、書かれている。(Tコリント5:5、Tテモテ1:20) この「サタンに
引き渡した」ことについて、いろいろ思考してみる。
 
Tコリント人への手紙5章5節「このような者をサタンに引き渡した」と書かれている。 パウロ
が、このような厳しいことを言った理由は、コリントの教会の一人が、近親相姦という不品行を
行なっていたということ。(レビ記18:8、申命記22:30) にもかかわらず、教会と教会の人々
は、それを黙認していたことである。 その不品行は、当時のギリシャ、ローマの人々、すなわ
ち異邦人においても忌み嫌われていたことだった。 それなのに、教会は、それを問題にせ
ず、むしろ黙認している自分たちは寛容な者だと自負し高ぶっていた。 コリントにいなかった
パウロは、そのような罪を犯している人宛てというよりも、それを放置している教会と教会の
人々に指摘と命令の手紙を書いた。
 
そのような罪を犯していた人は悔い改めをしていなかったようである。 良心が麻痺していたの
か教会が黙認していたので、指摘する人がいなかったためなのか、悪いことではないと受け
取っていたようである。 また、教会も罪を犯していた人も、当時流行っていた「グノーシス主
義」という思想の影響を受けていたようである。 パウロが言っていることは、具体的には、
のような人を教会から追い出せ、教会の交わりから除外せよということである。 パウロは、
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちて
おられるところである(エペソ1:23)」、「あなたがたのからだはキリストのからだの一部である
(Tコリント6:15)」と言っている。 
 
すなわち、教会は、主イエス・キリストの支配の下にある。 だから、自分の考えがあって罪を
罪として認めず平気でいたり、罪を指摘されても悔い改めず神に立ち返らない者を教会に在
籍させて、教会を汚してはならないということ、分離をもたらす異端的な思想や間違った教理を
教会は排除し、キリストによって一つになるようにということをパウロは言っているのである。 
 
また、Tテモテの手紙1章20節にも「彼ら(ヒメナオとアレキサンデル)をサタンに引き渡しまし
た」と書かれている。 テモテは幼い時から、祖母ロイスと母ユニケから聖書を教わっていた。
(Uテモテ1章) やがてパウロの宣教旅行に参加するようになり、エペソの教会の指導者とさ
れていた。 それで長老を任命するときの条件や教会の管理の仕方など牧会の指針をテモテ
に教えるためにパウロは手紙を書いた。 また、エペソの教会では多くの偽教師が信者を惑わ
すという問題などで混乱していたので、テモテを励ますためにもパウロは手紙を書いた。 
 
エペソの教会で、ヒメナオとアレキサンデルは名が知られ、目立った存在だったようである。 
Uテモテの手紙2章17節〜18節によると、ヒメナオは、真理からはずれてしまい、復活がすで
に起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしていたという。 アレキサンデルは、Uテモテ
4章14節の銅細工人のアレキサンデルと同一人物と見る説と不明と見る説があるが、もし、銅
細工人のアレキサンデルと同一人物であるなら、パウロが語ることばに相当、激しく逆らって、
パウロを苦しめたようである。 彼らも、当時の異端と言われた「グノーシス主義」の影響を受
けていた。 
 
ちなみに「グノーシス主義」とは、プラトンなどの哲学者の影響を受けて、霊肉二元論、つまり、
霊は善であり、物質は悪であるという。 だから、結婚は肉体的なものだから悪とされ、結婚す
ることを禁じたりした。 救いは「知識」を得ることで、キリストの受肉も十字架のあがないも否
定した。 
 
さて、パウロが、そのように罪を犯し悔い改めない者たちを「サタンに引き渡した」のは、彼らが
悔い改めて、神に立ち返るようにという、パウロの愛ゆえの計らいであった。 悔い改めて正し
く神に立ち返るなら、受け入れるという「愛」が根底にある除名であった。 ローマ人への手紙1
章28節「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、その
ため彼らは、してはならないことをするようになりました。」と書かれているが、ある意味、神が
「良くない思いに引き渡され」たのは、パウロが「サタンに引き渡した」のと同じである。 
 
どちらも、真に神を知ろうとせず、自分の思いのまま生きていくことである。 サタンは、神のゆ
るしの中でのみ働くことをゆるされる。 神は全能であるからだ。 だから、サタンが働いても、
神はそれを益になさる場合がある、 Uコリント12:7に、パウロは自分が病になった時、それは
「自分が高ぶることのないように打つ、サタンの使いです」と言っている。 パウロが彼らをサタ
ンに渡すことにより、彼らは「世と世のもの」を存分に自分の思いや考えと一致させ、大いに自
分を最優先した歩みをするだろう。 サタンも巧妙かつ大いに手助けするであろう。 
 
そのような歩みをしていると、その人の「良心」が全く麻痺していないなら、自分が良い方向へ
と進んで行っていないことを痛感するようになる。 人との軋轢(あつれき)、様々な問題、災
難、痛み、・・・どのような方法、形かは、わからないが、神なき人生の空しさ、苦しさを本当に
自覚することができるようになる。 しかし、そのときこそ、苦しみの中で自分の罪に目覚めて
救いを求めて、神に立ち返ることができるチャンスのときでもある。 そのようにサタンが神か
ら離れた者たちをさばくことを通して、神はその人に悔い改めをうながされる。 神は、人がサ
タンにさばかれ、つけ込まれて痛みを負ったことさえ「益」にしてくださるお方である。 いずれ
にしても、「サタンに引き渡される」のは、放縦な行いの罪に陥っている人が、最終的に救われ
るためである。 ただ、最終的な結果は、神のみぞ知るである。
 
このように「教会から除名する」こと「教会から追い出す」、「教会の交わりから除外する」ことを
聖書から見てきたが、このことは今日の教会でも聞かれ、行われている。 パウロが取った判
断、言動は神が「良し」とされたものであったことは聖書からわかるが、現在、そのことがパウ
ロのように主が「良し」とされている者が、どれほどいるだろうか。 主が「良し」とされている教
会が、どれほどあるだろうか。 
 
神が立てられた指導者の多くは、主から人の心の中を見せられる。  それは 主がその人を清
め変えるため、整えるためである。(エペソ4:11-13)  だから主はパウロのような指導者を用
いて、人の内側のもの、砕かれなければならないところ、切り取られなければならないところを
指摘する。  しかし人は自分の心の奥底にあるもの指摘され、浮き彫りにされるのを嫌がる
ものである。 なぜなら、そうされることには、痛みと不快を感じるからである。  そうすると指摘
した者を人は避けようとする。  自分の心の奥底にあるもの触られるのが嫌だからである。 
見透かされるのが嫌だからである。 パウロは、非難されても攻撃されても語るべきことを語っ
た。 それは、主を愛していただけでなく、確かな聖霊の導きがあったからである。 
 
教会はキリストのからだであり 一人一人はみなキリストのからだの部分である、教会は建物で
はなく、この世の会社のような人間的な力の組織でもないと教会もクリスチャンたちも言う。(エ
ペソ1:23、5:30) その通りである。  しかし、実際は世の会社組織と似たような人間的な力の
組織運営になっている教会が多いのも事実である。  今までの教会形態であるなら、そのよう
な運営になるのは致し方ないのかもしれない。 パウロのように「人」を取り扱う時、主が「良し」
とされる取り扱いができることは、ある意味、現代においては至難のわざかもしれない。 そこ
が難しい。 
 
キリスト教会は歴史の中でいろいろな教団教派、神学校を設立してきた。 設立創立に尽力さ
れた方々は、当初、すばらしく主に対しての愛にあふれていた方が多かったと思われる。 し
かし、その心をそのまま引き継ぐのはなかなか難しい。 パウロが建てた教会も当初すばらし
かった。 しかし、パウロがいない間に次々問題が起きた。 最初の教会から、すでに問題は
起きた。 それほどサタンは人を神から引き離そうと企て成功してきたのである。  それでも長
年、教会もクリスチャンたちも教会の建て上げのために奮闘してきたが、結局、主が建てようと
される教会は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と仰せられたように、主ご自身
が建てられるということである。(マタイ16:18)  
 
ルカによる福音書10章では、イエスが弟子たちを宣教に遣わされるとき、財布も旅行袋も何も
持たずに行くように言われた。 弟子たちを受け入れてくれる者がいるということである。 人
と人とのかかわりが持てるということである。 ところが、ルカによる福音書22章では、「今は、
財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」
主は弟子たちに言われた。 暗やみの力が働き、弟子たちを受け入れてくれるとは限らない状
況になるから、そう指示されたと思われる。 要は、人と人とのかかわりではなく、 「主と自
分」の一対一のかかわりを最優先せよ、ということではないだろうか。 
 
そう考えると、教会の建て上げにおいても、時代が進んで終末に入ったかもしれない、もしくは
もうすぐ入るという現在は、「今は、財布のある者は財布を持ち」と言われたように、「主と自
分」の一対一のかかわりを最優先すること重要であり、必須になってきたと思われる。 終
末にあっては、「世」が入り込んでいる「教会から出て来なさい」ということだから、パウロと同じ
ように、教会に与えられている権威を行使したからと言って、皆が皆 正しいとは言えない。(U
コリント6:17,18、ルカ21:21) 教会の中にいてもサタンに渡されている状態の者もいないわけ
ではない。 教会の建て上げや教会のあり方を主の導きによって考えなければならない時代
になっているのではないだろうか。 いずれにしても、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自
分」という一対一の「かかわり」「交わり」が確固たるものとなるように真剣に取り組んでいきた
いものである。
 
★新約聖書 コロサイ人への手紙 1:13
   神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してください
   ました。




めんどり聖書研究会