めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年3月6日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「良心」について:一万タラントの負債を負った人のたとえから思考>


★新約聖書 使徒行伝 24:16
   そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つよう
   に、と最善を尽くしています。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 9:14
   まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその
   血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕え
   る者とすることでしょう
 
★新約聖書 へブル人への手紙 10:22
   そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだを
   きよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませ
   んか。
 
マタイによる福音書18章23節〜35節で神を地上の王にたとえて、神の赦しについてイエスが
語られたたとえを見てみる。 王が、僕(しもべ)たちに貸した金の清算をしようとした。 清算が
始まると、王の前に一万タラントの借金のあるしもべが呼ばれて全部返すように要求された。 
しかし、彼は返せなかったので妻子も持ち物全部も売って返済するように命ぜられた。 このし
もべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』
と哀願した。 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
 
ところが、そのしもべが王の下を離れると、百デナリ貸している同じしもべ仲間に出会った。 
彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。 その彼の仲間は、その僕が
王にしたと同様ひれ伏して『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と哀願したが、その僕
は彼を赦さず、借金を返すまで牢に投げ入れた。 
 
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話したと
ころ、主人は、その僕を呼びつけ、怒って彼が借金を返すまで、彼を獄吏に引き渡した。 彼
は牢屋に入れられてしまったということである。 ちなみに一万タラントとは、現在の日本円で
言うなら約6千億円だという。(1タラント=6千デナリ) 百デナリは百万円である。 負債は、罪
をあらわす。 人は、どのような人も「罪人」であり、神に対して、自分では払いきれないほどの
負債を抱えているということである。
 
この箇所は、教会でよく語られるメッセージでは、「心から兄弟(すべての人)を赦さなければ自
分も(神に)赦されない」とか、「人は自分では払いきれないほどの負債を負っている者である
ことを知るべき」とか、「神はご自身のひとり子キリストの犠牲によって、払いきれない負債を
払ってくださった」などと語られている。 まさに その通りである。 著者は、最近またこの箇所
を読んで、いろいろ思考していた。 
 
一万タラント(約6千億円)の負債額に対して、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するよう
に命じられたことは、主人のあわれみではないだろうか。 自分も含めて全部を売ったとしても
到底、負債額全額には至らないであろう。 それを承知で王は命じておられる。 このしもべ
が、王の御前に「わかりました。 自分も妻子も持ち物全部を王にお渡しします。 それでもま
だまだ足りないと思いますので、どうぞお赦しください。」とへりくだって言うのを待っておられた
のではないだろうか。
 
もし、そのしもべが、そのように言うなら、「良心」が正しく機能していたと言えるのではないだろ
うか。 しかし、一万タラント(約6千億円)を完済することなど不可能であるにもかかわらず、
「猶予をください。そうすれば全部お支払いいたします。」と答えているのは、自分の借金の大
きさをわかっていない。 だから、借金、負債(罪)を安易に考えている。 それは、「良心」が麻
痺しているからではないだろうか。
 
また、一万タラント(約6千億円)もの借金を赦してもらった後すぐに、同じしもべ仲間に出会っ
て貸していた百デナリ(百万円)を厳しく取り立てするのは、通常、とても考えられないことだ。 
一万タラント(約6千億円)と違って、その60万分の1である百デナリ(百万円)であるなら、返せ
ない金額ではない。 それなのに、彼の仲間の、ひれ伏して嘆願する姿を見ても、あわれに感
ぜず、自分が赦してもらったことは関係ないものとしていた彼の「良心」は麻痺していたのでは
ないだろうか。 彼が、すぐに返済できない仲間を、借金を返すまで牢に投げ入れたのは、明
らかに彼は仲間を裁いている。 それも神のように最終のような裁きを与えている。 
 
本当に借金を返してもらうつもりなら、牢に入れたりしないのではないだろうか。 牢に入れら
れたら仲間は借金を返すことができなくなる。 それほど、この人は神のようになっている、す
なわち「傲慢」になっているのではないだろうか。 「良心」が麻痺するとは、「傲慢」になること
でもあるようだ。
 
さて、「良心」とは、我々は通常、文字通り「良い心」を意味するものとしている。 ところが、聖
書が語る「良心」とは、新約聖書の言葉であるギリシャ語では「共に」という言葉と「知る」という
言葉が組み合わさって出来ている、すなわち「共に知る」という意味を持っているという。 「共
に知る」というのは、自分自身ともう一人の他者の存在を示唆している。 そして、そのもう
人の他者とは、人を創造された神であり、自分自身と神が共に、善悪の判断がなされることを
差している語であるという。 まだ真の神を知らない人でも、この「良心」によってしばしば善悪
を見分けることができる。 神が、真の神を知らないその人に働きかけているその働きを、そ
の人が素直に受けている場合、その人の「良心」は正しく機能する。 主の時が来たら、そのよ
うな人は、神に出会うことができるであろう。 
 
ただ、「良心」は鈍感になることがある。 「良心」が鈍感になり麻痺してくるとサタンが働きや
すくなったり、悪しき霊と結託するようになって、結局、その人自身も苦しめられることになる。 
「良心」が麻痺しているということは、「良心」が正しく機能されないので、自分自身と神との共
同作業での善悪の判断がなされないということである。 自分が神から遠ざかっているからで
ある。 「良心」が正しく機能するためには、自分が神に近づき、神と共にいなければならない
ということである。 
 
イエスは、人々をかわいそうに思われ、病をいやされたり、奇跡を起こされ食物を与えられたり
したが、イエスの「かわいそうに」あるいは「深くあわれんで」は、内臓・はらわたを指す「スプラ
ンクナ」ということばから派生した動詞で、「内臓が揺り動かされる」、「はらわたわななく」という
激しい痛みのニュアンスを持つ言葉だという。 イエス・キリストの心の動きに対してだけ用いら
れている言葉だという。 一万タラントの負債を負った人に対しても、この「かわいそうに」という
言葉を語られている。 イエスは、内臓が揺り動かされるほど「同情」されたのだ。
 
ところが、この「同情」は、我々人の場合、正しく機能している「良心」とともに働くのでなけれ
ば、その「同情」の裏には、人によく思われたいとか自分は、これほど良いことをしているという
自己主張、自己顕示欲とか自分を優位に立たせて上えから見て満足している「思い」が潜んで
いることがある。 人は下になって虐(しいた)げられているなら、そのストレスと苦しみは半端
ないが、上に立って見下げているときには、満足心で満たされるということがあり得る。 パリ
サイ人たちや律法学者たちがいい例である。ルカ18:9) だから主は、「人の先に立ちたいと
思う者は、みなのしもべになりなさい。」と言われたのだと思う。 「同情」が、自分の思いを遂
げる巧妙な道具になっている場合がある。 心の底から純粋にイエスのように「かわいそうに」
同情するためには、やはり「良心」が正しく機能する必要がある。 
 
「良心」が正しく機能するためには、「自分自身と神が共に知る」、すなわち自分が主と共にい
る」こと、「自分が主につながり続ける」ことである。 「良心」が正しく機能する者は、一生涯牢
屋で過ごさなくてはならないという宣言とは無縁である。 しかし、「良心」が正しく機能しなくなっ
て、「良心」が麻痺してしまうなら、「獄吏に引き渡される」すなわちこの地上の人生いおいて
も、常に何らかの問題に悩まされたりして、「束縛された状態、圧迫された状態、捕らわれた状
態」になる危険性がある。 とにかく「良心」が正しく機能するために、絶えず主の方に目を向け
ておくことが重要である。 誠実に純粋に主に尋ねること、絶えず祈ること、神に依り頼むこと
をしていき、キリストにしっかりつながることに取り組んでいきたいものである。 日々の生活の
中で正しい「良心」を保って、いつも「良心」が正しく機能できるようにしておきたいものである。
 
★旧約聖書 マラキ書 3:3
   この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金
   のように、銀のように純粋にする。
 




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