めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年1月31日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
「主と自分」という一対一の「交わり」が確固たるものとなっていることが足場、基本としてあることの重要性について:ヨナ、ダビデ、サウル、イスカリオテのユダから思考


★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:6
   そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たち
   の心に遣わしてくださいました。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 9:6〜8
   ・・・なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出
   たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ば
   れる。」のだからです。 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子
   どもが子孫とみなされるのです。
   
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 1:9
   神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・
   キリストとの交わりに入れられました。
 
●神はわれわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられて、人をご
自身のかたち(神のかたち)、すなわち、人を男と女とに創造された。(創世記1:26,27) 聖書
の中では常に「わたし」と単数形で語っておられる神が、ここで「われわれ」と複数形で語ってお
られるのは、このことで「交わり」ということを示しておられるからだと思われる。 ヨハネによる
福音書1章1,2節には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であっ
た。この方は、初めに神とともにおられた。」と書かれているが、ここの「ことば」は、イエス・キリ
ストのことである。 そして、「ことばは神とともにあった」ということは、イエス・キリスト、すなわ
子なる神と父なる神は、交わりの中にある、対等に向き合える、対話できる親しい関係にあ
り、また一つであるということだ。 このことについては、主イエスも、「父よ、あなたがわたしに
おられ、わたしがあなたにいる」、「わたしたち(父とイエス)が一つである」と言われている。(ヨ
ハネ福17:21,22) 「父と子」の親しい関係とは、父が子を愛し、子が父を愛しという「愛の関
係」でもある。 
 
だから、人(アダム)についても、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と男のふさわしい助け手
として女を造られたのは、やはり、「親しい交わり」を持たせるためであると思われる。 「ふさ
わしい助け手」とは、原語では、「顔と顔を向け合っている相手」、「彼と向き合う者としての助
け手」といった意味だという。 また、「助け手」というのは、原語のヘブル語では、何ら従属の
意味は含まれず、むしろ神を形容する高貴な言葉であるという。 男アダムと女エバは、共に
語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」であったということであり、ふたりは一
体である。 すなわち、一つであるということだ。 互いに愛し合うという「愛の関係」である。 
そして、それが、神のかたちである。 
 
また、エペソ書によるなら、夫婦の関係はキリストと教会の関係を予表するものである。 そし
て、キリストは教会のかしらであって、教会はキリストのからだであり、救われている者たちは
キリストのからだの部分(一部、肢体、各器官)である。(エペソ1:23、5:23,30、Tコリント12:2
7) それで、主を信じる者一人一人がキリストと個人的な交わり、つながりが大切であるという
ことだ。 一人一人が「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が確
固たるものとなっていることが足場、基本としてあることが重要である。 それは「愛の関係」
しっかり あるということでもある。 そのような者たちの集まり、主ご自身の建てられる教会
のかたちであろう。(マタイ16:18) そのことが基本にあってこそ、主の望まれるかたちの兄弟
姉妹との交わりができるのではないかと思う。
 
そして、そのような者たちが、本当に神に選ばれている人であると言えるだろう。 神に選ばれ
ていることについては、人が最期を迎えて神の御前に立った時、鮮明になる。 だからこそ、神
に選ばれ救われていると確信している者も、絶えず 主の御前にへりくだることを意識しておく
必要がある。 意識していなくても 神から へりくだっていると見なされているのなら幸いなの
だが、それは、なかなか難しい。 人から完璧なクリスチャンと見受けられるような人でも、成
長(信仰と霊)の余地はあり、神から見られて どうなのかということが大切であるからだ。 「キ
リストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が確固たるものとなっている
ことが足場、基本としてある、このことについて聖書の登場人物から見てみる。 
 
ヨナの場合。 ヨナについては、先週めんどり通信/2016年1月24日で簡単なあらすじは書い
たので参照してほしい。 その中で、思考すべきことをまとめてみる。 ヨナは、@「立って、ニ
ネベへ行き、主のことばを伝えよ」という「主の命令」に従うことは絶対的であるべきと重々わ
かっているはずであったが、主のことば不満を持ち、ニネベと反対方向へ逃げた。 A「
の腹の胎の中」で、覚醒して再び、主の任務に戻され、ニネベで主のことば伝え、ニネベの
人たちが悔い改めて災いが下らないと、神に怒った。 Bニネベの町が見える所に仮小屋を
作り、町の中で何が起こるか物見を決め込んだ。 C神によって備えられた一本のとうごまに
よって暑さをしのぐことができて喜んだが、翌日に枯れて、焼けつくような東風による暑さで、
「死んだほうがましだ」と神に怒りをぶつけた。
 
これらのことを見ると、ひと言でまとめるならヨナは、事の深刻さ重大さを認識せず、自分の思
うまま感じるまま言動するという、しつけられていない子どものように駄々をこねたということで
ある。 悪しき霊どもや悪しき者たちのように、神に反逆した、謀反を起こしたというような感じ
は受けない。 神に駄々をこねることができるのは、ある意味、ヨナは神と、「父と子」という親し
い関係であるからだと思える。 ヨナは、全能の神の偉大さ、すばらしさ、御力、あわれみ深
さ、恐ろしさなどを知っているはずである。 いわば、それほど、「神とヨナ」、「主とヨナ」という
一対一の「交わり」が確固たるものとなっていることが足場、基本としてあったのではないだろ
うか。 しかしだからと言って、そのままでいいわけではない。 砕かれ、成長する必要がある。 
 
ダビデの場合。 ダビデの生涯は波乱万丈だった。 密かに、イスラエルの王としての油注ぎ
を預言者サムエルから受けた。 神がダビデをイスラエルの王として選ばれたとき、サムエル
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰せられた。(Tサムエル16:7) その「心」とは、
神を愛する心、もしくは神を愛することができる心かどうかである。 主なる神は、すべての人
の心を知っておられる。(使徒1:24) 人の心の奥を見ておられ、そこに「神を愛する愛」がある
のかどうか、もし、たとえその時にはなかったとしても、「神を愛する愛を受け取る」ことができ
る「心」かどうか見ておられる。
 
主の霊が油注ぎを受けたその日以来、ダビデの上に激しく下り、石投げで巨人ゴリヤテをやっ
つけて華々しく登場したものの、サウルに妬まれ、命を狙われ、苦しい逃亡の日々を過ごし
た。 しかし、その期間は、ダビデにとって神からの訓練試練、試しの時となり、ダビデを大きく
成長させた。 ますますダビデは神を愛するようになった。 サウル王から追われ命を狙われ
ていたとき、二度もサウル王を殺すチャンスがあるも、手を出さず、「神の権威」に徹底的に
従った。 
 
ダビデは公に王として立った後、罪を犯した。(Uサムエル11章) しかし、罪を犯した時のダビ
デの悔い改めは、真実で深いものだったので、神は許された。 また、ダビデは父親として子
どもをちゃんと躾(しつ)けていなかったから、子どものことで、いろいろな問題が起きたのだと
か、理不尽なことが起きても何も対処しない、潔(いさぎよ)さがないなどと言われることも多
い。 しかし、それでも、神はそれらに対してダビデを責めておられない。 むしろ、ダビデがす
ることを、すべて「良し」とまではいかなくても、敢えて赦されて(許されて)いたように思える。
(T列王記15:5 )  それは、「神とダビデ」、「主とダビデ」という一対一の「交わり」が確固たる
ものになっていることが足場、基本としてあったからではないだろうか。 実にダビデは、神に愛
され、神を愛した人だった。
 
サウルの場合。 イスラエルの初代の王で、最初は主のみこころ通りに歩んでいたが、預言者
サムエルにギルガルで7日間待つように言われていたにも関わらず、遅れたサムエルを待ちき
れず、与えられていない認職、祭司の務めを行なってしまった。(Tサムエル10:8、13:9) ま
た、アマレクとの戦いで、そのすべてのものを聖絶せよと命じられていたのに、値打ちのないも
のだけを聖絶し、良い家畜を生かしておくという罪を犯した。 預言者サムエルを通して、罪を
指摘されても、罪に背を向け、自分の罪と向き合おうとせず、言い訳けと弁明を繰り返した。 
要は、真に悔い改めることをしなかった。 神からの試しによって、心が砕かれ、打ちひしがれ
ることがなかった。 それは、「神とサウル」、「主とサウル」という一対一の「交わり」が確固た
るものとなっていることが足場、基本としてなかったからではないだろうか。 サウルが神から
の試しによって、心が砕かれ、打ちひしがれることを拒否したから、「主とサウル」という一対一
のかかわりができなかったのではないかと思われる。 その後、サウルは神に捨てられ、最期
は悲惨な死を遂げた(Tサムエル記31章、T歴代誌10章) 
 
イスカリオテのユダの場合。 12弟子として主イエスに選ばれた者。 主は、12弟子を整えるた
め、直接、訓練され、教えられ、様々な経験をさせられた。 イスカリオテのユダもその中の一
人であった。 にもかかわらず、主の教えを素直に受けることをしないばかりか、彼の考えを固
持していった。 それは、「神とイスカリオテのユダ」、「主とイスカリオテのユダ」という一対一の
「交わり」が確固たるものとなっていることが足場、基本としてなかったからではないだろうか。 
自分の考え、思いと違うことに対して、改めることもせず、反感と不満を内に蓄積していったか
ら、「主とイスカリオテのユダ」という一対一のかかわりができなかったのではないかと思われ
る。 その後、イスカリオテのユダは、キリストを売った銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去
り、首をつって死んだ。 
 
このように見てみると、いかに「主と一対一の親しい交わりを持つこと」、「主の中にとどまり続
けること」が足場、基本としてあること重要であるかがわかる。 親しくなるためには、「共に
住む」ことである。 そして「共に住む」ということは、共に生活していることであり、「主を愛す
る」ことである。 箴言8:17には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」と書かれている。 と
にかく、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が確固たるものと
なっていることが足場、基本となるように取り組んで行きたいものである。 そして、ますます主
と親しくなって、主のことを知っていき、「あなたはわたし(主)と一つである」とダビデのように言
われたいものである。(T列王記11:4)
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
   イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そ
   うすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人ととも
   に住みます。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:9
   父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどま
   りなさい。
 
 



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