めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年1月17日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主からのことばを与えられた者が失敗しても真に悔い改めるなら必ず導きのためのことばを与えられる:ヨセフとペテロから思考


★旧約聖書 箴言 4:20
   わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
  
★旧約聖書 詩篇 105:18、19
   彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。 彼のことば
   がそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
 
主からの「ことば」をいただいている者は、必ず神からの「試し」「訓練試練」がある。 アブラ
ハム、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ…なども神からの「試し」があり、神からの「訓練試練」があった。 
「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。(詩編105:19)」と、ヨセフ
に関して詩篇のことばがある。 このことは、ヨセフだけでなく、主から「主のことば」が与えられ
た者すべてに言えることであろう。 
 
このことについて旧約聖書に登場するヨセフを見てみる。 ヨセフは、主から直接、約束の「こ
とば」を与えられたアブラハムの子孫。(創世記12:2、12:7、12:3) アブラハムの子はイサク、
イサクの子はヤコブ、ヤコブの12人の息子たちの中でヨセフは11番目の息子。 ヨセフは、17
歳の時、父と母、兄弟たちが、ヨセフの周りに来て、お辞儀をするという意味の夢を見た。(創
世記37章) 夢の話しを兄弟たちに話して兄妹たちから憎まれ、父ヤコブに話して、しかられ
た。 しかし、ヨセフは、夢の内容を、軽はずみに話したのでもなく自慢したのでもない。 それ
らの夢を、主から与えられた「神のことば」として受け取っていたと思われる。 夢を与えられた
ときヨセフは17歳であり、父ヤコブが、ヨセフをしかりはしたものの、「このことを心に留めてい
た」からだ。 だから、夢、すなわち「神のことば」にかかわる人たちに話したのではないかと思
う。 「神のことば」にかかわるとは、「神のご計画」の中にあるということである。
 
通常の生活の中でヨセフだけでなく、他の兄弟たちも父ヤコブから神のことを聞いていたと推
測できる。 ヤコブは、アブラハム契約の継承者であり、いろいろな体験を通して神と出会い、
直接、神からの語りかけも聞いている。 約束された祝福の一つに、子孫の祝福があるが、11
人の息子も寄留の地パダン・アラムで生まれ育ち、その後も父ヤコブが体験したことを見たり
聞いたりしたであろう。 約束の地では12番目のベニヤミンが生まれ、後に12人の息子たち
は、イスラエルの12部族になった。 
 
ヨセフが兄たちに奴隷としてエジプトに売られた当時の兄たちの「信仰」は、神を畏れていな
かったように思える。 ヨセフは十七歳のとき、羊を飼うには、まだまだ兄たちの手伝いをする
半人前だったが、兄たちの悪いうわさ(bad report:状況や実情)を父に告げたことは、意地悪
でも、高慢でもなく、むしろ神への愛と父ヤコブへの愛のためではなかったかと思われる。 だ
から、その後、エジプトでの理不尽な苦難や困難においても、とにかく、へりくだって「神の時」
をじっと待つことができたのではないかと思われる。 どのような時にも、ヨセフは、一旦、与え
られた「神のことば」に返ることができた。 それは、ヨセフを支えていたものが、夢で示され、
語られた「神のことば」であり、「主がともにおられる」ことであったからだ。(創世記39:3,21,23) 
 
我々は、ヨセフのような「信仰」を持てるなら幸いであるが、実際なかなか難しいものである。 
我々は、よく失敗をする。 それでも幸いな神のご計画の中にあり、最終的に「主が良し」とさ
れるなら結果オーライである。 結果オーライになるため、失敗をも「益」に変えられていかなけ
ればならない。 どのようにしたらよいのか、ペテロの「信仰」の歩みを見てみる。                   
 
ペテロは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに住む漁師。 使徒行伝4章13節「無学な普通の人
である」と書かれているが、律法について専門的な教育は受けていなかったということであり、
決して教養がないというのではない。 ペテロはイスラエル人(ユダヤ人)なので、神のことば
(当時は旧約聖書)を知っており、他のユダヤ人と同じくメシヤ(キリスト)を待っていた。 それ
でも、主から直接、約束の「主のことば」を語られて、「主がともにおられた」旧約時代の父ヤコ
ブから、話しを聞き教えられたヨセフとは違うのではないかと推測できる。 「神のことば」「主
のこと、主のみこころ」を、誰から教わるのか、誰から聞いて受けるのかということは案外、重
要なことであるということだ。 もちろん、聞いても教えられても、聞く側、受ける側の心の態度
も重要である。(マルコ4:9)
 
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟ペテロとアンデレに「わたしに
ついて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。(マルコ1:17)」と言われた。 だから、ペテロ
はその通りになった。 しかし、この「ことば」がペテロの上に、主が「良し」とされる通りになるま
で、神からの試し、訓練試練があった。 ペテロは、それらの一つ一つに最初からすべてクリア
したわけではない。 多くの失敗があった。 中には、土壇場で主を知らないと、主を裏切り、
立ち直れないほど自分に失望して落ち込み激しく泣いたこともあった。 にもかかわらず、ペテ
ロは立ち直ることができた。 それは、主が「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あな
たのために祈った。 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」「主
のことば」があったからだ。(ルカ22:32) その「主のことば」があったから、ペテロは立ち直る
ことができた。
 
その「主のことば」が語られたときは、まだペテロの「信仰」や「霊」の弱い時であったが、主イエ
スは、ペテロの心の奥底を見ておられたから、前もって語られたのではないだろうか。 ペテロ
のように表面的に、仕出かすことが、愚かで軽はずみなことが多くても、また、ザアカイのよう
に強欲な者と見られるような者であったとしても、その「人の心の奥、霊」が、「神のことば」が
臨んだ時、素直になれる者なのか、また神がいろいろな形で「主のみこころ」を提示した時、へ
りくだることができる者なのか、…そういところを神は見ておられるのではないかと思われる。
(ルカ19章、Tサムエル16:7) 主なる神は、表面的なこと外側のことではなく、内側、それも
「人の心の深いところ、霊」を見ておられる。
 
さて、ペテロが「人間をとる漁師にしてあげよう。」と語られた後も幾つか詳細に主から「ことば」
を語られたように、歩みの過程において幾つか直接、または聖書を通して、牧会者など人を通
して主から「ことば」を語られる場合がある。 ヨセフとペテロそれぞれに対する神のご計画の
内容の違いもあるだろうが、ペテロの場合、神からの試し失敗することを主がご存知だった
ので、前もって語ってくださっておられたのではないかと思われる。 例えば、@「 シモン、シモ
ン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられま
した。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だか
ら、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31,32)」 それに対してペ
テロは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ2
2:33)」 しかし、主は「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わ
たしを知らないと言います。」と言われ、事実その通り、ペテロはイエスを誓ってまで知らないと
言った。 それでも、@ことば通り、主はペテロを立ち直らせ、兄弟たちを力づける者にして
くださった。  
 
これほどの失敗ではなくてもペテロは他にも多くの失敗をした。 主はその都度、もしくは前
もって「ことば」を語られ、ペテロを砕きながら導かれた。 ペテロは失敗しても失敗しても、腹
の底から悔い改め、砕かれることから逃げなかった。 なぜなら、ペテロは心の底から主を愛
していたからである
 
人はみな、アダムとエバ以来の罪の性質を受け継いでいる。 一人一人に応じて、どのくらい
罪の性質を受け継いでいるのかは わからないが、聖書は罪について重い罪、軽い罪と別け
隔てをしておらず、人が犯す罪が多い少ないにかかわらず、すべての人は「罪人」であると書
かれている。(ローマ3:23) だから、アダムとエバが罪を犯した後、主なる神の歩まれる音を
聞いたとき、隠れたように、人は、生まれながらの性質から出て来る主に喜ばれないような「思
い、考え、願い、感じ(感情)」などを意識するしないにかかわらず、心の奥にしまい込み隠す傾
向があると思われる。(創世記3:8) 
 
心の奥にしまい込んだ場合、主から「ことば」を与えられていて、その「ことば」にいつも返って
いても、生まれながらの性質から出て来る自分の「考えや思い」を主の導きだと勘違いするこ
とがある。 また、主の導きに耳を傾けず(本人は、傾けていると思い込んでいるかもしれない
が)、やはり自分の「考えや思い」で歩む者がいる。 そういうとき、主がその人を、その「こと
ば」通りにしようと働きかけても、その人が意識してか無意識かはわからないが、主の働き掛
け、語りかけを拒否していることがある。 もし、そうであるなら、せっかく「主のことば」を頂いて
いても主が定められた道から逸れる恐れがある。 
 
ヨセフのように夢を通して示され語られた「主のことば」に常に返り、その「ことば」を純粋に支
えとし基盤として進んで行くことができるならよいのだが、一つ一つの神の試しに対する応答の
言動が、主から見られてクリアできることは本当に難しい。 しかし、ペテロのように失敗するた
び、心の奥にしまい込んでいたものが暴露されたとき、痛くて苦しくても環境や状況、また誰の
せいにもせず、それを直視して逃げず、腹の底から主によりすがるなら、主は失敗さえも「益」
にしてくださるであろう。 
 
主から「ことば」をいただくことについて、ヨセフのように本題となる一つの「ことば」が与えられ
るパターン、ペテロのように、幾つか語られるパターンがある。 みながみな このパターンにな
るのではなく、一人一人に違いはあるが、ペテロとヨセフのパターンを知っておくことは信仰の
歩みをするにおいて参考になるのではないかと思う。 主イエス・キリストを信じる者にとって
は、ヨセフやペテロのように具体的、かつ直接的ではなくても聖書を通して、また牧会者など人
を通して語られる「主のことば」は、主に従って歩んで行くにおいて、大きな指針となる。 傍か
ら見れば、小さなことば、些細なことばのように受け取られがちな「ことば」であったとしても、
からの「ことば」なら、与えられた者が、その「ことば」にへりくだり従うなら、その人を変える力
がある。 
 
だから、今日でも、主はご自身の「ことば」を一人一人に応じて与えたいと望んでおられる。 
いずれにしてもヨセフとペテロに共通していたことは、「主が共におられた」こと、「主の導きが
明確にあった」こと、「その導きに従っていた」ことであり、彼らが「主を愛していた」ことである。 
そのためには、やはり神が見られている心の奥底に、もし主が喜ばれないものがあるなら、そ
れをさらけ出していただきたいものである。 そして、主が喜ばれないものから目をそむけない
で、真に悔い改めて、主に変えてくださるよう、清めていただけるように祈り求めていきたいも
のである。
 
★旧約聖書 詩篇  119:147
   私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。
 
 
 



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