めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年12月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
肉の感情に振り回されず、主のみこころを行なうこと、主の御声に聞き従うことの重要性について:ダビデの将軍ヨアブから思考


★新約聖書 ローマ人への手紙 8:5
   肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひた
   すら考えます。
 
★旧約聖書 詩篇 104:34
   私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
 
★旧約聖書 詩篇 40:8
   わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあり
   ます。」
 
●主イエス・キリストを信じる者の多くは、主のみこころ行ないたいと願い、そのことに取り組
んでいる者も多い。 聖書のみことばに照らし合わせて、自分は主のみこころ行なっている、
行なえていると思っている者も多い。 ただ、傍から見たり、クリスチャンから見ると、主のみこ
ころ行なっていると見える者でも、案外、主なる神から見られると「否」とされていることが多
いのも事実である。 主のために良い働きをしていると思われたり、人間的に良い人であった
としても、だからと言って主が「良し」とされているわけではないこともある。 主が、どう見られ
ているのか、主が喜ばれているのか、それが重要だということを知っておく必要がある。 主の
ことを第一に気に掛ける、最優先することは、主を信じる者にとって当然のことだからである。
 
そのことについてダビデの将軍ヨアブから思考してみる。 ヨアブについて、簡単にまとめてみ
る。 ヨアブはダビデの甥である。(T歴代誌2:15,16) ヨアブ、アビシャイ、アサエルの三人兄
弟の長男。 この三兄弟はダビデがサウルに追われて逃げていた時からダビデの下で共に
戦っていた。 サウル王とその子ヨナタンが戦死し、ユダの人々はダビデを王として油を注い
だ。 イスラエルの人々はサウルの子イシュ・ボシェテを王として、しばらくの間、南北対立の時
代があり、ギブオンの戦いでヨアブが登場する。 この戦いのとき、ヨアブの兄弟アサエルが敵
のサウルの将軍アブネルに殺される。(Uサムエル2章) ただ、アサエルはアブネルが何度、
警告しても無視して深追いしてきたので、アブネルが、アサエルを制止しようと、やりの石突
(刃の方ではない)でつついてアサエルを倒そうとするも、アサエルが猛スピードゆえ石突きさ
えも刺さるという死に方だった。 
 
その後、サウルの将軍アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテ王に罪を責められたことが
きっかけで、ダビデ側に寝返り、イスラエルの長老たちや サウル王の出身部族のベニヤミン
人と話し合った上で、契約、調停のためダビデのもとにやって来た。 アブネルは政治的な意
図もあったと思うが、ダビデの王座をイスラエルとユダの上に 堅く立てることを主がダビデに誓
われたことを知っていたので、ダビデはアブネルを歓迎したということも考えられる。 ダビデ
は、アブネルが自分の側に寝返ったのを単に喜ぶ者ではない。 主のみこころ、主のことば
行なわれることを喜ぶ者であるから歓迎したのではないだろうか。(Uサムエル3:9,10)
 
ところが、このことを聞いたヨアブは、アブネルを信用できず、アブネルは謀略をめぐらすため
動静を探りに来たと考え、使者たちにアブネルを密かに追わせ連れ戻させて、門のとびらの内
側に連れ込み、そこで、暗殺してしまった。 兄弟アサエルがアブネルに殺されたことへの恨み
が心の深みにあり、アブネルに対して、それを足場にした見方しかできなかったようである。
(Uサムエル3:27) ヨアブは自分の感情を最優先し、感情の赴くまま行動したと言えよう。
 
ヨアブはダビデ軍全体の司令官として、ペリシテとの闘い、ギブオンにおけるサウル軍、アラム
軍、アモン軍などあらゆる戦いで指揮し、多くの勝利をダビデ軍にもたらし、大きな功績を残し
ているが、ヨアブはダビデと心を通わせてはいなかった。 ダビデ自身が、ヨアブについて「ツェ
ルヤの子(ヨアブ)らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。」と言っている。(Uサ
ムエル3:39)
 
ダビデの家での事件、すなわち、ダビデの長男アムノンが異母妹タマルをはずかしめ、タマル
と同じ母親の子アブシャロムがアムノンを殺し、ゲシュムに逃げるということがあった。 そのと
き、ヨアブはダビデとアブシャロムが和解できるように尽力した。 その後、アブシャロムの謀
反が起き、ダビデは戦いを避けるためにエルサレムを離れたが、ヨアブはダビデについて行っ
た。 ダビデがアブシャロムに追われていたとき、ダビデが明確に「私に免じて、若者アブシャ
ロムをゆるやかに扱ってくれ」と命じていたにもかかわらず、ヨアブは、それを無視して、ある意
味、冷静に「まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通し
た。」(Uサムエル18:14) 
 
ヨアブは、自分の感情を足場に考え、自分を最優先したところで物事の判断をしている。 決し
て、人の言葉に左右されない。 たとえ、主人ダビデの命令にも左右されないほど、「自分の感
情」「自分」を押し通す者だった。 砕かれていない証拠である。 しかし、巧妙に表面上は、ダ
ビデを優位に持ち上げ、主人ダビデのみこころ(計画)を的確に行なっている。
 
ヨアブは、ダビデが罪を犯した時、すなわち、ヨアブに 「ウリヤを激戦の真正面に出し、 彼を残
してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」(Uサムエル11:15) と指示したとき、
そのような命令には従う冷淡さがあった。 こうしてみると、和解に尽力したことも命令に従った
こともヨアブに計算があり、「自分」特に「自分の感情」を足場にして行動したと思われる。
 
ダビデの息子アブシャロムの死後、ダビデはヨアブを退け、代わりにアブシャロムの将軍だっ
たアマサを将軍に任命した。 その後に、よこしまな男シェバによる反乱が起き、将軍アマサが
軍を召集するのに手間取っていた隙にヨアブは挨拶をすると見せかけてアマサを殺害し、再び
イスラエル全軍の長に返り咲いた。(Uサムエル20章) しかし、やがて王位継承が問題となっ
たとき、アドニヤを王位につけようとたくらみ、最期はソロモンの護衛隊長ベナヤに殺された。
(T列王記2章) 
 
ソロモンは、ヨアブについて「主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返されるであろう。彼は自分
よりも正しく善良なふたりの者に撃ちかかり、剣で彼らを虐殺したからだ。彼は私の父ダビデ
が知らないうちに、ネルの子、イスラエルの将軍アブネルと、エテルの子、ユダの将軍アマサを
虐殺した。(T列王記2:32)」と言っているが、彼は自分の地位が脅かされないため、自分より
も出来る人を排除したかった、すなわち、妬みという感情がヨアブの心の奥にあったということ
であろう。 結局、自分の感情に支配され、肉の感情を足場にして計算し、判断して言動してい
たということである。 
 
ダビデの勇士たち37人の名の中には、ヨアブの兄弟アビシャイと アサエルの名があり、さらに
はヨアブの道具持ちまで名前が挙げられているが、ヨアブの名はない。 傍から見ても実際も
ダビデ軍に貢献したと思われるが、ダビデの勇士として数えられていない。(Uサムエル23章) 
 
このようにしてみると、砕かれ清められていない者の感情が心の底に自分の足場として、しっ
かり根付いている者は、自分の頭(考え)で自分のためになる方向で物事を判断しているとい
うことである。 そのような者は、聖書のみことばや主に関することさえ 、自分の頭で解釈し
時には世の常識やキリスト教会の常識まで持ち込んだ自分の判断を主のみこころと思い込ん
で言動している。 祈ったとしても、肉の感情を心の奥底に足場として据え付けているので、
祈ったことを主にゆだね切れておらず、結局、自分の思う通りに言動する。 結果、自分の感
情を害することがあれば、相手が主のみこころに沿っていないと判定を下し、決して自分が砕
かれていないことを認めようとしない。 厄介である。 
 
表面上では、主のみこころ行なうことができているように見え、主の御声に聞き従っているよ
うに見えるということがある。 しかし、主なる神は「否」とされているばかりか、そのような者
は、ヨアブと同じように、道を逸れていく危険性があるということだ。 そうならないためには、肉
の感情に振り回されないこと、支配されないことである。 そのためには、結局、「自我が砕か
れ」、「肉」(生まれながらの神に従うことができない性質)が切り取られる」すなわち「自分自
身が終わること」である。 そうして、しっかりキリストとつながり続けて、「一対一の関係」を確
固たるものにしていくことである。 いずれにしても、本当の意味で自分自身が終わるため、言
動が出てくる内側、心の奥底に注目していくためにも信仰の創始者であり、完成者であるイエ
スから目を離さないで、そのことに取り組んでいきたいものである。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 42:6
   私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。
   私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」
 
 
 



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