めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年11月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られて変えられることについて:金持ちと貧乏人ラザロから思考


★旧約聖書 詩篇 119:20
   私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
 
★旧約聖書 詩篇 147:3
   主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
 
ルカによる福音書16章19節〜31節。 お金持ちと貧乏人ラザロについては、たとえ話と受け
取られがちであるが、昨今これは実話であるとの見方が多くなっている。 全くその通りであ
る。 この箇所から、お金や富、地上の宝(子ども、地位、名誉、健康、安定した生活、・・・な
ど)に執着し、それらを第一に信頼するなら神の救いから遠ざかるばかりか金持ちのようにな
るという訓戒と警告であるなどと言われている。 いろいろ学ぶことが多い箇所でもある。 さ
て、「めんどり通信」で多く取り上げてきた「自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取
られて変えられる」ことに関して この箇所から思考してみる。 
 
まず この箇所のあらすじは、こうである。 ある金持ちが、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 
金持ちの門前に、全身おできの貧乏人ラザロが横たわり、その病のせいなのか働くこともでき
ず、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。 その上、犬が来て彼のでき
物をなめていた。 あるとき、貧乏人も金持ちも死んだ。 貧乏人は、御使いたちによってアブ
ラハムのふところに連れて行かれ平安を得ていたが、金持ちは、灼熱の炎の中でもだえ苦し
んでいた。 金持ちが、ふと見上げると、はるかかなたに「神の友」であり、「信仰の父」である
アブラハムと、そのふところにラザロが見えた。 金持ちは、アブラハムに、ラザロをそこから
遣わして、自分の舌を水で冷やさせてください、と頼み叫んだ。 
 
しかし、答えは、「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受
けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」と言わ
れ、そればかりか、両者がいるところの間には、互いに渡ることができない大きな淵があり不
可能なのだと言われた。 それなら せめて地上で生きている自分の5人の兄弟が、こんな苦
しみの場所に来ることのないように、ラザロを生き返らせて彼らに厳しく警告してほしいと頼ん
だ。 しかし、地上にはモーセと預言者の教えがある。 その教えに真剣に耳を傾けないなら、
たとえ死人から生き返った者が語っても聞き入れないだろうというものだった。
 
さて、お金を持っている者、富んでいる者と言っても、この箇所のいう「金持ち」ではない。 ア
ブラム(アブラハム)は家畜と銀と金とに非常に富んでいた。(創世記13:2) ダビデもサウルに
追われ、逃亡生活をした時もあったが、イスラエルの王として富んでいた。 ザアカイも金持ち
であったが救われた。(ルカ19章) アブラハムやダビデ、ソロモンほどでなくても、現在におい
て一応、このくらいから金持ちという線引きはあったとしても、金持ちという基準は、人によって
様々である。 ただ、この箇所の言う金持ちは、原語の言葉の意味合いからすると単にお金や
財産を持っているというのではない。
 
この箇所の「金持ち(原語:プルーシオス)」とは、「富んでいる者」であるが、単にお金や富、ま
たは、才能や賜物を持っているということよりも、お金に執着している者、貪欲な者(ルカ12:1
5)、苦痛を避け快楽的な生き方をして心がふさがれている者(ルカ8:14)のことを言っている。 
言うなれば、口ではきれいごとを言っても、実際は自分の思うまま、自分(考え、思い、感情)を
基準にして生きている者のことを言う。 
 
また、お金を持っていない、目立った才能や賜物を何も持っていない者が、この箇所のいう「貧
乏人」ではない。 実際にお金を持っていない貧しい人でもお金に執着している者もいる。 貪
欲な者、快楽を追求する者もいる。 この箇所やマタイなどの「貧乏人」「貧しい人、貧しい(原
語:プトーコス)」は、うずくまる、ちぢこまるという意味があり、ヘブライ語まで遡(さかのぼ)ると
神に対して謙遜な、敬虔なという意だという。 そうすると、単にお金や富、または、才能や
賜物を持っていないということよりも、原語の意味の通り、神に対して謙遜な者、敬虔な者のこ
とを言っている。 おまけに全身おできということで、働くこともできず生きる糧が自分では得ら
れない者のことを言っている。 言うなれば、自分では何もすることができず、神に頼るしか生
きるすべがないほど弱い者、神の前にへりくだった者のことを言う。
 
一生に一度の人生、最低限人間としてのルールを守って この地上生活をエンジョイすること
がなぜ、死後、この箇所の「金持ち」と同じ運命をたどることになるのか、納得がいかないとい
う者も多いであろう。 また、そのようなことは信じることができないという者も多い。 しかし、
人間の意志を超越しているところで、見えない力が働いていることは事実である。 神は創造
主、我々人間は被造物である。 聖書では、この関係を陶器師と陶器の関係で書かれてい
る。 陶器師は陶器に対して、どのように造るのかの権限を持っているのは当然である。(イザ
ヤ29:16,45:9、ローマ9:20、21) 「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、
自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。(ローマ9:15)」と書かれているが、神が主
権を持たれているのである。 そして神が見ておられるのは人の心の奥底、霊である。 表面
的な失敗や言動や気が利かないなどではなく、心の奥底から出てくる言動を見ておられる。 
その見方、判断は神と人間に大きな違いがある。(Tサムエル16:7)
 
また、この箇所のメッセージからよく引き出されるみことば「人間には、一度死ぬことと死後に
さばきを受けることが定まっている(へブル9:27)」は、事実である。 神である主は、神は愛で
あり、あわれみ深く、情け深い。 怒るのにおそく、恵み豊かである。(詩編103:8) そのような
方だから、あえて裁きを語っておられると思われる。 「すべての人が救われて、真理を知るよ
うになる(Tテモテ2:4)」こと、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進む
こと(Uペテロ3:9)」。 これが主の御心であり、望みであられる。(Uペテロ3:9) そして、神
は人間を愛し、尊んでおられるゆえ、人間に自由に選択できる自由意志を与えられた。 人間
が、何も知らずにではなく、きちんと裁きのことなどを知った上で、自分の意志で主なる神と主
のみこころ選んで、本当に救われるよう、真の悔い改めができるようにと、前もって「裁き」
語っておられるのだと思う。 人は、選択をするのであって、救いも力もすべてのことに関する
解決は、神にある。(ダニエル2:20、Uコリント4:7)
 
また、「選択」というとき、我々人間は、人生の大きな節目だけでなく、日々の生活の中でも多く
の選択をしながら生きている。 それらの一つ一つの選択が、主の喜ばれる方を選ぶことがで
きるなら幸いであろうが、なかなか難しい。 それでも、主との交わりが深くなっていき、主とと
もに歩んでいるなら、聖霊が導いてくださるであろう。 ただ、邪魔をするのが、砕かれていな
い「自我」であり、変えられていない(切り取られていない)「肉(生まれながらの性質)」である。
 
この箇所の「金持ち」が生きる中で、いつも「選択」すべき基準は、「自分」であった。 「いつも
紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」ことから、自分の心の奥底には、何
が潜んでいるのか、どんなものがあるのかについて無頓着であったと思われる。 当然、主の
御心を知ろうとはしない。 たとえ、誰かに聞いて頭で知ったとしても、自分が納得いかないこと
は受け入れずに、自分の思いや考えを押し通していたようである。 時には反発したのかもし
れない。 
 
その人に与えられる「主のみこころ」「主のことば」は、最初、肉の耳で聞く。 聞いたら頭に入
る。 しかし、多くの人はそこで止まってしまう。 「主のみこころ」は、腹の底、心の奥底にまで
受け入れて、その人の血となり肉となるまで祈りつつ反芻(はんすう:繰り返し考え、よく味わう
こと)する必要がある。 そのとき、自分の「心の奥底にあったもの」と「主のみこころ」「主のこ
とば」がぶつかることがある。 そのとき、どちらを選択するかであるが、「心の奥底にあったも
の」すなわち「自分(思い、願い、考えなど)」を選択し、「主のみこころ」の方を選択できない人
が結構、多い。 
 
それは、この箇所の「金持ち」のように、それまでに自分の心(の思い、考え、感情など)をじっ
くり見て取り組むチャンスが幾度となくあったはずなのに、それらを無下にして自分の内面を顧
みず、自分の思うままに言動しているからである。 そうして、いつの間にか かろうじて心の
奥底を見る目安になっていた「良心」さえ麻痺してしまい、ますます神から遠ざかっているから
だ。 ラザロが金持ちの門前で横たわっていたことは、この金持ちにとっては、自分の心の奥
底にあったものを知るチャンスであった。 しかし、金持にとってラザロは眼中に無かった。 
 
どのような人にも、その人が心の奥底にあるもの気づくようにと主は、一人一人に応じて配
慮してくださっている。 自我が砕かれ、肉が切り取られるチャンスを与えてくださっている。 し
かし、いつまでも自分を基準に生きていくなら、主のあわれみに気づかなくなるであろう。 当
然、自分の心の奥底にあるもの気づくはずはなく、一旦、一度は気づかせてもらっていた者
も、「自我の砕き」「肉の切り取り」に取り組まないなら、ますます「自我」は硬くなり、神から遠
ざかる距離が早まっていくことになる。 神から遠ざかれば遠ざかるほど、サタンや悪しき霊は
見逃さない。 そうすると、心の奥底にあったものを悪しき霊どもが足場とすることがある。 そ
のようになれば、足場にされた者は、次々と心配事が起きてきたりと平安が失われていく。
 
すべての人は、この地上にいる時から神の前では裸の状態である。 そして、すべての人は、
死後、神の前に出て、裁きを受ける。(へブル9:27) 裁きの結果、ラザロのようになぐさめの
場所に行く人々と金持ちのように 火の苦しみに会う人々に分かれる。 人は、神の前に立った
時、生前の時以上に、自分の心の奥底までさらけ出され、生前、気づかなかった自分の本心、
本音を知ることになる。 神の次元の違う、あまりにも神々しさ、光り輝く御前では、否が応でも
自分の心の奥底にあったもの認めざるを得ない状態になるようだ。 金持ちも、苦しみの場
所に来たことは理不尽だなどと訴えたりはしていない。 むしろ、なぜ、自分はこんなに苦しい
ところに来たのか、その理由を知り、ある意味、当然だと認めているかのようである。 炎の中
にいることを納得せざるを得ないほど、心の奥底隅々まで知らされるということであろう。
 
「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました」
アブラハムは言ったが、案外、これは自分の思い通りに生きてきたことが、肉の人間にとって
「良い物」と言われ、神からの訓練試練によって苦しんだことが、やはり肉の人間にとって
「悪い物」であるのかもしれない。 だから死後、地上で砕かれたラザロは、慰められ、金持ち
は苦しみもだえるという逆転が起きたのであろう。  「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たし
たいと思っていた」という心境は、詩篇73篇のアサフの心境と似ている。
 
いずれにしても、永遠の中の一瞬とも思えるこの地上での歩みの中で、心の奥底にあるもの
に気づくようにと神が与えてくださっている「主のあわれみ」、「主の配慮」に気づいていきたい
ものである。 ラザロの名まえの意味は神により頼むもの、神を助けとする者」であるが、
我々も神により頼むもの、神を助けとする者となって、確かに「天の御国」に入る者になりた
いものである。
 
★旧約聖書 詩篇 62:8
   民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、わ
   れらの避け所である。
 
★めんどり通信/2014年5月18日。<イエスが言われる「良い物」「悪い物」について、
神のあわれみを受けることについての思考:金持ちと貧乏人ラザロから学ぶ>参照
 



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