めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年9月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主に選ばれている者は見捨てられないが、神の取り扱いが必要である:ヨナから思考>


旧約聖書 申命記 8:5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。
 
●主の御顔から逃げても逃げられなかったばかりか、そのことで取り扱われ、砕かれて、「神
と共に歩む」者へと整えられた者、ヨナについて見てみる。 ヨナは北イスラエルの預言者であ
り、イスラエルのために預言を行なっていた。 そんなヨナに主は、異邦人のアッシリヤの首都
ニネベに行き、主のことば語ることを命じられた。 このことは、ヨナには耐えがたいことで
あった。 他の預言者もイスラエルに語り、異邦人に語る場合でも、イスラエルとユダを中心に
した上での、諸国や異邦人についての裁きについてを預言した。 しかし、今回のヨナの場合
は、ニネベが悔い改めるなら、救われるニュアンスのある預言を語ることであったからだ。 当
初、主は 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前
に上って来たからだ。」とだけ命じられたが、もしニネベが悔い改めたなら、主は情け深くあわ
れみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かな方であるので、ニネベは救われることをヨナ
は知っていたようである。 そのことを、その通りになった後、主に申し上げている。(ヨナ4:2)
 
ヨナは納得せず、主の御顔を避けてニネベと全く反対方向のスペイン南部にある町タルシシュ
へのがれようとヨッパに下り、タルシシュ行きの船に乗った。 当時、タルシシュはイスラエルか
ら見ると西の最果ての地であった。 ヨナは船に乗り込むと船底に降りて行って横になり、ぐっ
すり寝込んでいた。 その頃、船は主による大嵐で難破しそうだった。 一緒に乗船している人
たちは、各々自分の神に向かって助けを求めるべく叫んだり、船を沈めないために積み荷を
海に捨てたりしたが、危機を脱することができなかった。 皆が慌(あわ)てふためいていると
き、ヨナは船底で熟睡していた。 
 
それから、嵐の原因が、海と陸を造られた天の神、主の御顔を避けてのがれようとしていたヨ
ナであることが判明した。 すると、人々は非常に恐れ、ヨナにどうしたらいいのかを尋ねると、
ヨナが、「私を海にに投げ込みなさい」と言ったので、人々は主に願いの祈りをしつつ、ヨナを
海に投げ込んだ。 すると、嵐が止み、海は静かになった。 このことで、それまで真の神、イ
スラエルの神を知らなかった人々が、主に立ち返った。 海に投げ込まれたヨナに、主は大き
な魚を備えて、ヨナをのみこませた。 ヨナは三日三晩、魚の腹の中で悔い改め、祈った。(ヨ
ナ1、2章) 
 
ヨナの祈りを聞かれた主はヨナを魚の中から救い出された。 ヨナは、再び、主のことば与え
られ、ニネベの町へ行き、人々に「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。 する
と、ニネベの町の人々からはじまってニネベの王までが みな神を信じ、断食をし、荒布を着る
という、真剣な悔い改めをした。 神は、それをご覧になって、彼らに下すと言っておられたわ
ざわいを思い直し、そうされなかった。(ヨナ3章)
 
ところが、ヨナはニネベの人々の悔い改めとニネベの町の救済を喜べなかった。 ニネベは悔
い改めたとはいえ、神に選ばれたへブル人(イスラエル人)ヨナから見ると、異邦人の国であ
り、神が忌み嫌われる偶像礼拝の国であり、神の国を苦しめる暴虐の国であるのに何故、滅
ぼされないのかと納得がいかなかったようである。 ヨナの怒りは日増しに増して「私のいのち
を取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」という有り様。 
 
「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と
正義とを行ない、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに
従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。 彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義
と正義とを行なった彼は必ず生きる。」エゼキエル書33章14節-16節に書かれている。 これ
が、情け深くあわれみ深い神の御心である。 主なる神は、その通りをニネベに対して行われ
たのである。
 
そのことを、1本のとうごまによってヨナに教えられた。 ニネベが神の裁きから逃れた後、ヨナ
は町から出た東の方に仮小屋を作り、もしかしたら、ニネベの人々が罪に舞い戻るのではな
いかと思いながら、それを見きわめようとすわっていたようである。 主は強い日差しを避けさ
せるために1本のとうごまを、ヨナの上をおおうように生えさせられた。 ヨナは大いに喜んだ。 
ところが、翌日の夜明けに、一匹の虫により、とうごまを枯れさせた。 その上、神は焼けつく
ような東風を吹かせ、太陽をヨナの頭に照りつかせられた。 当然、ヨナは不機嫌になり、また
しても「私は生きているより死んだほうがましだ。」という有り様。 そのヨナに、主なる神は「あ
なたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでい
る。 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左も
わきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」と仰せられたことば
で、ヨナ書は終わっている。 
 
その後のヨナについて、聖書には書かれていないが、ニネベ(現在のモスル)には、「ヨナの墓」
があるという。 昨年、イスラム国(通称『ISIS』)により、この「ヨナの墓」が破壊されてしまった
という。 「ヨナの墓」の敷地に立つモスクは、かつてネストリウス派キリスト教会として使われて
いたモスルを代表する歴史建造物で、およそ1800年前に建てられたという。 これらのことか
ら、ヨナは、神のことばを悟って、ニネベで最期まで「主のことば」を伝え教えることを全うした
のかもしれない。
 
さて、ヨナ書から学べることの一つは、神は、神の選びのご計画の中に組み込まれている者
逃されることはないということである。 ヨナは、主とのやり取りから見て、それまでにも主との
親しい交わりをしていたように思われる。 だから、主が情け深くあわれみ深い方であるだけで
なく、天地万物を造られた神であることを重々知っていたと思われる。 それなのに、ニネベ行
きについては、反対方向へ逃げただけでなく、船に乗れば船底で熟睡する有り様。  熟睡して
いたのは、恐れからくるストレスの重さでへたばっていたのかもしれないが、どうも、それだけ
ではなく、むしろ幼い子どもが親に反抗しているのと同じような感じさえ受ける。 ヨナの「霊」
幼いという感じを受ける。 
 
このことは、ニネベの人々が神の裁きから逃れると、自分の願っている通りにならないので、
「死んだほうがましです。」と怒ったり、とうごまが一夜にして枯れて暑いと「死んだほうがまし
だ。」とすねるように言ったりして、なぜ、こういう事態になったのか、なぜ、一夜にして枯れた
のか、を考えず、ただ幼い子どものような言動からも伺える。 ヨナは、主なる神への信仰は、
しっかりあったとは思うが、「信仰」「霊」が共に成長していなければ、結局、肉(生まれながら
の性質)からの感情の赴(おもむ)くままに言動するようである。
 
また、ヨナの場合、「霊」が幼いというだけでなく、自分は神に選ばれている特別な民だという
「選民意識」「選民思想」が強かったため、ニネベと反対の方向に逃げたと思われる。 このイ
スラエル人の持つ「選民意識」「選民思想」には、異邦人に対する異常な優越感がある。 異邦
人は神に忌み嫌われている堕落した人々であると見ている。 この「選民意識」が特に強かっ
た者といえば、新約聖書に出てくる律法学者やパリサイ人たちである。 バプテスマのヨハネ
は、彼らの「選民思想」に反対し、「神は、石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがお
できになる」と叫んでいる。 イエスは、彼らに対して、「わざわいである」「忌わしいものだ」「偽
善者」と言われている。
 
新約に入って、パウロは、「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハ
ムの子孫である(ガラテヤ3:29)」と言っているが、イエス・キリストによって、新しいイスラエル、
新しい神の民となったキリスト者は、「主なる神が選ばれた者」「アブラハムの子孫」であるとい
うことだ。 このような神が選ばれた者、アブラハムの子孫である者が、へりくだったところの選
民意識を持つなら いいのだが、ヨナ書のヨナや律法学者やパリサイ人たちのような選民意識
は、人を見下して傲慢になる。 その傲慢が、神のみこころ知ることを妨げる。 時には律法
学者やパリサイ人たちのように主に敵対する。 また「信仰」「霊」の成長を妨げる。 ヨナ
を見てわかるように、神である主とのかかわりを持った後、いつまでも幼いままの状態は、
になりやすいのかもしれない。 
 
しかし、ヨナの場合、主なる神の選びのご計画の中にあったゆえ、ヨナが逃げようとしても逃げ
られないばかりか、そのことでヨナを取り扱われた。 そのことは、むしろ神のあわれみであ
る。 最初から完全な者はいないし、「信仰」「霊」において、大人の者はいない。 預言者であ
れ、王であれ、弟子であれ、主なる神を信じ受け入れる者は皆「信仰」「霊」は成長していくべ
きである。 その成長の過程で「神の子」としての主の訓練試練を受け、一人一人に応じて砕
かれ整えられる必要がある。 主からの訓練試練は、主の懲らしめである。 
 
ヨナは、神に対して不従順だったから、懲らしめを受けた、と一概には言えないのではないだ
ろうか。 ヨナの不忠実さを通して一緒に船に乗った人々が神に立ち返り、「ヨナの墓」がニネ
ベ(現在のモスル)にあったことから、ヨナの選民意識などの古きが取り除かれ、自我が砕か
れ、肉が切り取られて、信仰と霊が成長したと思われるからである。 ヨナは不従順だったが、
それを神は益にしてくださった、というより、そのような過程を通ることを「良し」とされていた、
神のご計画の中にあったこと、という方がピッタリではないだろうか。 人は、人にとって好まし
くない嫌な苦しい体験、経験を通ることにより、相当な自我の砕かれ、肉の切り取られがあるも
のだ。 
 
「神の賜物と召命は変わることはありません(ローマ11:29)」ということばがあるように、主が一
旦、召し出され選ばれた者は、その選びの度合いレベルに応じて、そういう体験経験を通る神
の懲らしめ、すなわち主からの訓練試練があるものと受け取っている。 また、召し出され選ば
れた者が最初から皆、大人のようではないことをヨナから見ることができる。 人は、救われた
時、神と出会った時、幼子のようである。 しかし、「信仰」「霊」が成長していくうちに考え方が
大人になり、「霊的な見方」が身についてくるものである。 このことをパウロは言っている(T
コリント14:20,2:14、エペソ4:13,5:14、コロサイ1:9)
 
今日、キリストを真に信じる者は、神が選ばれた者である。 しかし、我々主イエス・キリストを
信じる者は、間違った選民意識を持ってはならない。 神から選ばれたということは、神の御前
にへりくだれということであり、神との一対一の親しい交わりに入れ、神と共に歩む者になれ
ということである。 ヨナという名まえの意味は「鳩」だという。 ヨナが主なる神の御心を知っ
て、名まえの通り、柔和で謙遜な者となって、神と共に歩むためには、砕かれること、霊が成長
すること(もちろん信仰も)、選民意識、すなわち古きが取り除かれること必要があったという
ことだ。 そのために神は、ヨナを取り扱われたのだ。 我々も同様である。 我々一人一人
が、神の御前にへりくだり、神との親しい交わりを続け、柔和で謙遜な者となって神と共に歩ん
でいくためには、一人一人に応じての主なる神の取り扱い必要である。 とにかく、日々、絶
えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことを
していきたいものである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第二 1:10
   ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確
   かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
 
 
 
 



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