めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年8月16日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
神の栄光の顕現に接すること、すなわち神との明確な出会いの体験は、人を立たせることができる


★旧約聖書 イザヤ書 49:3
   そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうち
   に、わたしの栄光を現わす。」
 
★旧約聖書(口語訳) 箴言 8:17
   わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 17:24
   父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょ
   におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに
   下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
 
旧約聖書エゼキエル書1章を読むと、奇怪な姿の四つの生き物が出てきたり、車輪が
出てきたりとなんとも言えない奇妙な様子が書かれている。 しかし、これらは、エゼキエルが
神から見せられた主なる神の栄光の顕現である。 エゼキエルは、「天が開け、私は神々しい
幻を見た。」と言っている。 このとき、神の召しを受けてその務めに入った。 そして、この後、
エゼキエルは、奇異な行動をとって イスラエルの民に訴えることを神から命じられている。(4
章、5章) @一枚の粘土板にエルサレムの町を彫りつけて、一枚の鉄の平なべを自分とこの
粘土板との間に立て、顔をしっかりとエルサレムに向けること。 A390日、左わきにして横た
わり、次に40日間、右わきを下にして横たわってイスラエルの家とユダの家の咎を自分の身に
負うこと。 B牛の糞で自分のパンを焼き食べること。 C鋭い剣で髪の毛とひげをそり、それ
を三等分して、それらの細かい指示を神から受けたことである。 主の働きに入って終わり頃
にも、新しい神殿の幻を見せられた。(エゼキエル40-48章)
 
預言者は、本来、「神からのことば」を語る者として召され、用いられるのだが、エゼキエルは、
言葉だけでなく、奇異な行動をとって、神のみこころを伝え、警告するよう命じられた。 しか
し、そこまでしてもイスラエルの民たちは、聞く耳を持たなかった。 人々は神に立ち返ることな
く反逆を続け、偶像を拝み続けた。 通常、言葉で伝えて、その「ことば」が人々の耳に痛い場
合、預言者は迫害されることもよくあることだが、耳に痛い(警告の)「ことば」だけでなく、奇異
な行動が伴うと、その「ことば」を受け入れてもらえないばかりか、バカにされたり、責められた
りと、涙を流すような体験をして、倒れそうになることがある。 しかし、不思議なことに倒れな
い。 エゼキエルは、最期まで神に忠実で「神への愛」を全うした。
 
エルサレム陥落とバビロン捕囚の数年後までの約40年余りにわたって活躍した預言者エレミ
もまた、神の顕現に接している。(エレミヤ31:3) 主がユダに災いをもたらすなどという預言
は、人々に受け入れられず、エレミヤの生涯は迫害の連続だった。 しかし、彼の心の表面は
ギブアップしていたが、エレミヤの霊主の霊に動かされ、倒れそうで倒れなかった。(エレミ
ヤ20:9) 最期は、エジプトに拉致されて石打の刑に処せられたが、「神への愛」を全うした。
 
最大の預言者といわれるイザヤにしても、「高くあげられた王座に座しておられる主を見た。
(イザヤ6:1)」主なる神の栄光の顕現に接している。(イザヤ6章) イザヤは、ユダの人々の
バビロン捕囚、バビロンの崩壊、ペルシャのクロス王によって捕囚になっていたイスラエルの
民の解放などを預言した。 しかし、預言するたび、イスラエルの人々は神が前もって言われ
た通り、聞かず、神に立ち返らず、語れば語るほど結果はその逆となっていった。 それでもイ
ザヤは、倒れそうで倒れなかった。 伝説によると最期は、ユダ国の王マナセによって、のこぎ
りで引かれて殉教したという。 しかし、イザヤは「神への愛」を全うした。 その他、主なる神の
栄光の顕現に接した聖書の登場人物は、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、ヨブ、使徒た
ち、マグダラのマリア、パウロ、・・・と多々いる。
 
主である神の栄光の顕現、不思議な神の啓示などを体験した彼らは、その後の生涯に大きな
影響が与えられているようである。 人間の力では乗り越えることのできないような困難、苦難
をも全く打ち伏せられることなく乗り越えている。 このような霊的体験、霊的経験すなわち、そ
の人が明確に生きておられる主、ご臨在されている神に接すること触れることは、とてつもなく
大きなことである。
 
神の顕現のほんの一部しか垣間見ることができなかった者でも、その後の人生に相当、大き
な影響を与える場合がある。 例えば、臨死体験をした人たちの中で、何らかの形で神の顕現
に触れた人は、現世に帰ってきたとき、臨死体験をする以前と考え方、生き方が変わったと言
われている。目に見えない方の存在を認めるからだと思われる。 神の栄光の顕現に接する
こと触れることは、神である主と明確に出会うことであるからだ。
 
また、主である神の栄光の顕現、不思議な神の啓示の接し方触れ方は、いろいろある。 一
人一人に、みな違いがある。  ヨブの場合。 苦しんで苦しんで、ヨブが見い出したことは、
いところで主に出会うことであった。 すなわち、それは、主の栄光の顕現に接したことである。 
ヨブのように、苦しんだ後に深みから主に出会う、すなわち主の栄光の顕現に接する人触れる
人があり、訓練試練の途中で主の栄光の顕現に接する人触れる人があり、訓練試練が始ま
る前に主の栄光の顕現に接する人触れる人がありと様々である。 いずれにしても、深みで主
に明確に出会った人、すなわち主の栄光の顕現に接した人触れた人は、倒れそうで倒れない
ものである。
 
神の栄光の顕現に接する触れるとき、その人の霊にその体験が刻み込まれている。 神であ
る主は、主イエス・キリストを信じる者たちが、「肉」の支配から解放され、「霊的」に生きること
を望まれている。 「霊的」に生きるということは、皆が皆、安易にできるものではない。 生ま
れながらの性質(肉)や自ら作り上げてきた性質が、「霊的」に生きること妨げる。 だから、
が砕かれ、(生まれつき持っている罪の性質、神に逆らう性質)が切り取られなければな
らないのである。(ローマ8:6、ガラテヤ5:19-21) 
 
主は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(U
ペテロ3:9)」から、神である主は、ご自身の栄光を啓示してこられ、人々を用い、聖霊によって
働いてこられた。(ローマ1:19,20) 今も尚、残りの者たちを捜し救おうと働いておられる。 そ
れは、着実にご自身のご計画を実現されるためである。 だから、多くの人は多かれ少なか
れ、神の栄光の顕現を体験している可能性がある。 神に出会う機会が、人によっては何度も
何度も与えられているかもしれない。 しかし、気づいていない人が多い。 気づかないのは、
もっぱら砕かれていないからだ。 「霊的」なことを、「肉」では気づきようがないからだTコリ
ント2:14) 
 
人が、せっかく神の顕現、神の啓示に接すること触れることなどを体験して、それがに刻み
込まれても、その人の自我が砕かれておらず、が旺盛で自分の考え、思い、願い最優先
し、自分を基準に生きているなら、神の顕現、神の啓示に触れた霊からのもの表面に
出てくることができない。 その人の心を占めている肉のもので、霊に刻み込まれた貴重な「神
の恵み」に蓋をして塞いでいるからだ。 神からの訓練試練を避けず、また自分中心、自力信
仰で生きず、主によりすがる者は、砕かれている者であり、肉が切り取られている者、またそ
の途中の者であるが、そのような者であるなら、霊からのもの、すなわち、その人が気づいて
いなかったかもしれない神の顕現に触れた体験、経験によって得るものが浮上してくる。 そし
て、そのとき、その人は、真に主と出会う時である。 心(霊)の深みから、真に主と出会う者
は、確実に変わる。 主の定められた道を歩む。 だから倒れそうになる時でも、決して倒れな
い。 主が支えられるからだ。(詩編37:23,24) 
 
とにかく、今はまだ神の方が、ながく忍耐しておられるのだから、我々は、あきらめずにしっか
りと、自分の内の「罪」「肉」「自我」に向かい合って、主が示してくださることを素直に認め
て、清めていただきたいものである。 すでに神の栄光の顕現不思議な神の啓示を体験し
ていて、気づいていないなら、気づかせてくださるために、主の御前にへりくだって、絶えず
っていくこと、神のことばである聖書を読み、主が語って下さろうとしているか細い御声を聞
こうと(霊)の耳、心を絶えず主イエス・キリストに向けていきたいものである。
 
★新約聖書 ユダ書 1:24,25
   あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもっ
   て栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神
   に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今
   も、また世々限りなくありますように。アーメン。
   



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