めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年8月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
幸いな神のご計画に入っていても、主のところにとどまり続けるかどうかは、その人の(意思)責任によるところが多い



★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5、6
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその
   人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あな
   たがたは何もすることができないからです。 だれでも、もしわたしにとどまっていなけれ
   ば、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むの
   で、それは燃えてしまいます。
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば
   におののく者だ。

 
マタイによる福音書には、アブラハムからイエスまでの系図が書かれており、ルカによる福
音書には、イエスから始まってアダムまで遡(さかのぼ)った系図が書かれている。 これらの
系図に出ててくる人物は、神の計画に確実に入っている。 イエスまで続いている、またイエス
から始まった系図の中に入っていることは、通常的に考えれば「幸いな神のご計画」に入って
いると言えるであろう。 しかし、「幸いな神のご計画」の中に入っているからと言って、その中
の人物がみな、神が「良し」とされていたわけではないようだ。 ちなみに、マタイの系図は、
セフの系図であり、ルカの系図イエスの母方マリヤの系図である。
 
これらの系図の中の人たちには、約束のことばがあり、預言者が与えられたりしている。 神
はアブラハムに約束のことばを語られた。 @あなたを大いなる国民とする、子孫繁栄。(創世
記12:2、13:16)、A地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12:3)、万民祝
Bあなたの子孫にこの地を与える(創世記12:7)、土地獲得である。 イサク、ヤコブ、ヤコ
ブの家族へとアブラハムの祝福は受け継がれていったが、エジプトでイスラエル人たちは、神
の約束の地でないエジプトで奴隷になってしまった。 その時、「モーセの契約」が与えられ、出
エジプト(奴隷からの解放)をした。 
 
長い年月が経ち、人々が神を捨てて、近隣諸国、異邦人と同じように人間の王を求めた。 そ
のようなとき、@の子孫が祝福されることについて、さらに詳しく「ダビデ契約」が与えられた。 
また時を経て、イスラエル(ユダ)が、神に背き続けてバビロンへ捕え移されようとした頃、神
は、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を与えられた。(エレミヤ31:33) Aが発展したもの
である。 このように、イエスにたどり着くまで、神は、ご自身の民をまっすぐに進ませようとされ
たが、イスラエルは失敗の連続、背きの連続であった。 
 
それでも、神のご計画は、だれにも阻止することはできない。 約束の神の子イエスがこの地
上に生まれてくださった。 このようにイエスの系図を見ていると、「神のご計画の中に入ってい
ても、まして幸いなご計画に入っていても、主のところにとどまり続けるかどうかは、その人の
(意思)責任によるところが多い」と痛感した。 分かりやすい例で見てみる。 系図の中でイス
ラエルの王制時代のユダ王国の王たちのほとんどの名まえが書かれているマタイの系図を見
てみる。
 
南ユダ王国は、20代の王が統治したが、「善王」といわれる王が8人いる。 しかし、「善王」
位置付けられても、最期のとき、神への信仰から離れた者もいる。 3代目アサ王は、王に即
位したときからずっと主によりすがり、主の目に良しと見え、また正しと見えることを行ったが、
途中で人に頼り、神に頼らなくなった。 最期は、病気の最中でも医者に頼り、主に頼ることな
く死んだ。(U歴代誌14章〜16章)  4代目ヨシャパテ王。 ダビデの道に従い、戒めを守って
いたが、息子を政略結婚させてアハブ王と縁を結び、アハブの子アハズヤとも同盟を結ぶとい
う主にみこころを尋ねず、自分の考え、計画を押し通し、恐ろしい結果を招くことになった。(U
歴代誌21:4) 
 
8代目ヨアシュ。 祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行なったが、エホヤ
ダが死んだ後、ユダのつかさたちの中で、偶像礼拝をしたいと願っていた人たちが王を伏し拝
んでお願いすると、ヨアシュはそれを聞き入れた。(U歴代誌24:17 ) 主はヨアシュを立ち返ら
せようと預言者たちを遣わし戒めたが、ユダの高官たちもヨアシュ王も預言者たちを殺してし
まった。 最期、ヨアシュは重病に陥り、さらに謀反によって殺された。
 
9代目アマツヤ。 アマツヤは主の目にかなうことを行なったが全き心をもってではなかったと
いう。(U歴代誌25:2) セイル、エドムに勝利するも、セイルの神々を持ち込んだ。 主は、預
言者を遣わして戒めたが、受け入れず。 最期は、謀反によって殺され、王たちの墓にさえ葬
られなかった。
 
10代目ウジヤ。 霊的教育者ゼカリヤの存命中は、主に従っていたが、ゼカリヤの死後は、高
ぶり、「香をたく」という祭司職の越権行為をした。 祭司アザルヤたちに注意されても、激しく
怒って香をたこうとしたとき、突然、彼の額にらい病が現われた。 最期までらい病に冒されて
いたので、らいを病む者として隔離された家に住んだ。(U歴代誌26:21) 
 
11代目ヨタム。 治世期間16年。 暑くもなく冷たくもなく、生温かった。 ヨタムは神に従って生
きていたが、41才の若さにしてこの世を去った。 他、「善王」と言われた13代目ヒデキヤ、16
代目ヨシヤがいるが、特に上記に記した6人に共通していることは、主が喜ばれるような「信仰
を全うした」とはいえないこと。 彼らは最初は「主のために」王としての務めを果たしていたと
いうこと。 しかし、最期は高慢になり、自分中心になって罪を犯したり、神の怒りを買ったり・・
と主の恵みから落ちたことだ。 ただ、彼らが、死後、神はどうなさったのかは神の領域であ
り、わからないが、例外なく神の裁きを受けるべく主なる神の御前に立つことだけは確かであ
る。 すでに立ったのかもしれないが・・・?(へブル9:27) いずれにしても、系図の中に入って
いる人がすべて救われているのかどうかは わからない。
 
彼らは、マタイによる福音書イエスの系図の中に名まえが書かれている者たちであり、まし
「善王」と言われていた者たちであった。 驚くことに「悪王」と言われている王たちの名まえ
も書かれている。 レハベアム、アビヤ、ヨラム、アハズ、マナセ、アモン、エコニヤ(エホヤキ
ン)。 幸いな神のご計画の中に組み込まれていた者たちである。 「善王」と言われている者
たちであっても、「悪王」と言われている者たちであっても、幸いな神のご計画の中に入ってい
ることは、確かにすごいことである。 ただ、幸いな神のご計画の中に入っていること以上に、
重要なのは、一人一人が主に とどまり続けることができるかどうかである。 イエスの系図
は、「神の目的の遂行」が第一になっているからだ。 とにかく、主とつながり続けること、主に
とどまり続けること、このことが肝要である。 神の目的が、「人がご自分のいのちに結ばれる」
こと、すなわち「神と人との親しい交わり」であるからだ。
 
今日の我々は、「主イエスを信じる者は救われる」と使徒、キリストの弟子たちから伝えられ、
神のことばである聖書がある。 また、教会へ行けば、神である主のことを教えられる。 そし
て、主イエスキリストを信じる。 主イエスを信じた者は、ある意味、幸いな神のご計画の中に
入っていると言えよう。 ただ、マタイのイエスの系図から見てきてわかるように、「幸いな神の
ご計画の中に入った」から「主にとどまり続ける」ことができるとは言えない。 また、「主イエス
を信じている」から「主にとどまり続けている」とも言えない。 「主を信じている」と言っても、神
から見たら、そのように見ておられないということもあり得る。 本当に「主を信じている」と言う
なら「主にとどまり続ける」はずである。 
 
「主にとどまり続ける」ということは、何事においても主に寄りすがり、主なる神イエス・キリスト
を日々、基準(規準)にして生きていくということである。 主のみこころ知るために絶えず、
主に求め、主に従おうとすることである。 そのように取り組んでいる者に対して、主の方が責
任を持って、細いが まっすぐな道を前進するために導いてくださるのである。 
 
「主イエスを信じ続ける」こと、「主にとどまり続ける」ことを真剣に願い、取り組むかどうかは、
人が自分の自由意志(意思)で決めることである。 まず、人が真に取り組もうとするのかどう
かを決めるのは、人の側のことである。 人の側の責任である。 このことに取り組むとき、
痛みを伴うかもしれないし、苦しみ悲しみ、嫌な思いをすることがあるかもしれない。 なぜな
ら、それらを妨げるのが、「自我」であり「肉」であり、肉から出る「思い」であるからだ。 「自我」
が砕かれ、「肉」が切り取られることは、いわば、「自分を捨てる」ということにつながるからだ。 
 
上記でみた6人の王たちは、この「自分(肉からの思い、考え、願い)を捨てる」ことを拒んだ。 
王たちが主のみこころとは違ったことをしていたとき、神から遣わされて指摘した者たちがい
た。 預言者や祭司たちである。 アサ王には予見者ハナニが遣わされた。 ヨシャパテ王
は、マレシャの出のドダワの子エリエゼルが、アマツヤにも預言者が遣わされた。 しかし、王
たちは、預言者たちの「ことば」を受け入れず、拒んだ。(U歴代誌16章、20章、25章) また、
ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間、ウジヤ霊的教育者ゼカリヤの存命中に、エホヤ
ダやゼカリヤを通して語られた「主のことば」「主の教え」心の奥に受け入れず、「神と自分と
いう一対一の関係、かかわり」が しっかり持てていなかったと推測できる。 この6人の王たち
が、預言者たちが語る「主からのことば」に、へりくだって心の底から受け入れていたなら、彼
らの「最期」は、変わっていただろう。 
 
今日の我々にも、主が定められた道から逸れたり、まっすぐに前へ向かって進んで行くため
に、主が立てられた人を通して、語られることがある。 また、ほかの方法で語られることもあ
ろう。 その「主からのことば」を拒んだり、自分の都合のいいように(肉で)解釈したりすること
がないように気を付けなければならない。 せっかく、幸いな神のご計画の中に入れられて
も、6人の「善王」たちのような「最期」になる可能性があるからだ。 我々は、「主イエスを信じ
続ける」「主にとどまり続ける」ために「自我」が砕かれることを拒んだり、「肉」が切り取られる
ことを避けないように勇気をもって、主の御前に素直になりたいものである。 そして、もし、自
分に語られている指摘や忠告、推奨など他いろいろな「主からのことば」があるのなら、その
「ことば」を軽く受け取らないようにしなければならない。 パウロが「信仰」があるかどうか、自
分自身をためし、吟味しなさいと言ったが、信仰だけでなく、「自分」すなわち自分の深いところ
にある「自分の思い、考え、願い、行ない」なども祈りつつ静かにじっくりと吟味してみることが
必要かもしれない。(Uコリント13:5、Tコリント11:28、ガラテヤ6:4) たましいをへりくだりさ
せて、絶えず祈り、「主にとどまり続けること、つながり続けること」に本気で取り組んでいきた
いものである。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
   イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
   て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。





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