めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年7月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<悪しき霊の攻撃を受けることについての思考>



★新約聖書  ヨハネの黙示録 2:10
   あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをため
   すために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは
   十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなた
   にいのちの冠を与えよう。
 
★旧約聖書  詩篇 119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
 
聖書の多くの登場人物の生涯から、その人に応じての方法で「主のことば」「主の示し」
主から与えられ、実際、その通りに成るまでに、一人一人に応じて様々な過程を通っているの
を見ることができる。 アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ、ペテロ、パウロ、・・など多くいる。 
そして、彼らに共通していることは、その過程が訓練試練となって、彼らの「信仰」「霊」が成
長して強くなっていることである。 特に霊的成長霊的前進は著しいもので、起きた出来事、
今ある現状、人のいろいろな言動を人間的常識的な見方ではなく、それらから、主のみここ
背後で働いている霊の存在人の心の奥に潜んでいる思いや考えなどを的確に見て感じ
ることができるようになっていること。 いわば、霊的な見方が、的確にできるようになってきて
いることである。 もう一つ共通することは、語られ示されている「主のことば」「主の示し」とは、
まるで「正反対のような状態の過程」を通るということである。 「正反対のような状態」になるの
は、主があえて そのようにさせているというより、悪しき霊の攻撃を受けているというニュアン
スの方が強いように思われる。
 
「主のことば」「主の示し」と、まるで「正反対のような状態」は、人によって、その内容も期間の
長さにも違いはある。 そのような「主のことばや示しと正反対のような過程」を通っている間
は、「主のことば」を握ろうとしても なかなか難しいものである。 目に見える状況があまりにも
「主のことばや示し」と正反対なので、本当に「ことば」通りになるのだろうかと不安になりがち
だからである。 悪しき霊は、人の弱いところを よく知っている。 いろいろなもの、出来事、人
などを使って、様々な誘惑を持ちかけてきて、不安な思いや本当だろうかという疑問に更なる
疑問を抱かせるような「思い」を上乗せして「信仰」を揺るがせ、「主と主のことば」から引き離
そうとする。
 
しかし、そんなとき、必死に そのような「思い」を振り払うように主に頼っていくならば、主は人
の内にあるを切り取り、自我を砕きながら、「信仰」「霊」を成長させてくださる。 そうして、
霊的な見方が与えられ、悪しき霊のしわざを見破り、勝利して前進する。 また、それらのこと
によって自分の自我が砕かれたことを知って感謝することがある。 いずれにしても、そういう
ことを繰り返しながら強くなる。 すると、人によっては、更に人の弱みに付け込むような巧妙な
攻撃を、悪しき霊から仕掛けられる者もいる。 その時の苦しみは相当なものであるようだ。 
自分の叫びは、主に届いていないのか、主は聞いてくださっておられないのか、主に見放され
たのではないのか、と感じられるほど苦しくて、顔を上げることすらできないという体験をする者
もいる。 一概には言えないが、往往にして その人の その後の主の働きの度合いが大きい
ほど、悪しき霊からの攻撃や邪魔も大きいようである。
 
そのような苦しいところを乗り越えて進んで行くと、「主のことばや示し」が実際、その通りに
なっていく。 「主のことばや示し」が実現したとき、その人の「信仰」は鍛えられ、「霊」は強く
なって、悪霊の風が吹いても、誘惑がきても倒れない者に変えられている。 もはや、主を信
頼しきって露ほどの疑問も抱かない。 そして、ますます、神の御前にへりくだり、主との深
い愛の交わりをすることとなる。 「主がともにいてくださる」ことが、通常の状態のようになる。 
それでも、まだまだ完全ではない。 更に、聖霊の導き前進しながら、ますます主の喜ばれ
る者へと変えられていき、その生涯を全うするであろう。 そのことは、ヤコブやヨセフ、モー
セ、ダビデなど「主に愛され主を愛した」聖書の登場人物たちで見ることができる。
 
「主のことば」「主の示し」と、まるで「正反対のような状態」に至らせるのを、何故、主は黙って
おられるのか、と思うかもしれないが、主のなさることに何一つ間違いはなく、主は無駄なこと
を決してされない。 神である主のなさることには、すべて意味があると著者は考えている。 
ただ、神の知恵と知識の富は、底知れず深いので、人が、そのすべてを知ることができない
のかもしれない。 いずれにしても主は、ご自身に頼り切ることを続ける者にとって無駄なこと
はされない。(Tコリント1:25) その「主のことばと示し」の実際、事実をまだ見ていなかったと
しても、それでも必ず、「正反対のような状態」になったことさえ 主が益にしくださる時が来
る!(ローマ11:33、8:28)
 
さて、悪霊の攻撃は基本的には 神が許した範囲でしか働くことができない。 すべてのことは
神のみ許しがなければ起こり得ないからだ。  悪しき霊は、霊的な存在なので、普通は人の
肉眼で見ることはできない。 しかし、存在していることは事実であって、病を引き起こしたり、
人を罪へと誘ったり、人(未信者や時にはクリスチャン)を使って、まっすぐ「主のみこころ」
道を歩もうとしている者を主キリストから引き離そうとするため、様々な方法で働く。 
 
ただ、@神が、あえて悪しき霊やサタンが人に働くことを許されることがある。 それは、その
人を正しく神に立ち返らせ、正しく主との交わりができるようにされるためである。 「キリストを
信じている」と思い告白する者の中には、意識しているのか、無意識なのかは分からないが、
「主みのこころ」とは違う歩みをしている者も多い。 ガラテヤ人への手紙5章に「肉(生まれつ
きの性質)の働き、行ないについて書かれている。 「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじな
い、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐ
いである。」と。 ペテロの手紙Tの2章にも「悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねた
み、すべての悪口」と書かれている。 このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
 
キリストを信じ受け入れた者が、これらの肉の働きから「罪」へと足早に進み、サタンや悪しき
霊どもが心の中に住み着くための入口を作っていることがある。 主は、何とかそのことに気
づくようにと何らかの方法(牧会者など人、出来事、心の苦しさ、聖書のみことば、・・・など)で
教えようとされる。 心からの悔い改めに導き、入口をシャットアウトさせるためである。 まだ
主イエス・キリストを信じていない者に対しても主は、人の心の中に悪しき霊が入ってこないよ
うにと「良心」を通して教えておられることがある。 
 
その主のあわれみ深い忠告、警告、教えを受け入れず罪」にどっぷり陥って、そこから離れ
ようとせず、自分の「思い」すなわち「我」を通そうとするなら、忍耐の神が、改めてサタンや悪
しき霊が働くことを許されることがある。 その人を「救う」ためである。 しかし、その人にとっ
ては、それは神の裁きであり患難となる。 旧約時代、悪の道に入って行った北イスラエルと
南ユダに、正しく神に立ち返るよう主は、預言者たちを通して警告されたが、イスラエルは、
聞き入れず、自分たちの「我」を押し通した。 そのことで主の怒りを引き起こし、神はイスラエ
ルをアッシリヤに引いて行かれた。 すなわち、祝福の地から取り除かれたのである。(U列王
記17:13〜23) 旧約聖書には、神の祝福を失うことによって、暗闇に支配され、平安を失い、
様々な問題が起きた事例が多く書かれている。 
 
また、A神が改めて、サタンや悪霊が人に働くことを許していないが、悪しき霊の横暴によっ
て人に攻撃を仕掛けてくることがある。 神の裁きにあっているのではないかと@の人と同
じように苦しむことも多い。 しかし、@の場合とは違う。 Aの場合は、このメッセージの前
半に書いたことを体験するであろう。 神から選ばれ、神から愛され神を愛し従っていた登場
人物ノア、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ、エリヤ、エレミヤ、エゼキエル、イザヤ、12使徒、パウロ、
・・など多くいる。 いずれにしても、@Aの両方の場合も、「神のみ許しの下にある」ことが根
本にある。(ヨブ記、マタイ10:29) 我々はAの場合でありたいものだ。
 
いずれにしても、悪霊の攻撃があって苦しくても、立ち上がりたい、主のことば通りになってほ
しい、主にそのようにしていただきたいという「願い」「思い」をしっかり持っているなら、必ず 主
は、ことば示し通りにしてくださる。 ある意味、一つの区切りであるゴールに到達することが
できる。 そして、ゴールに到達したなら、すなわち、主のことば通り示し通りになったなら、そこ
から 新たなスタートがある。 その道は、たとえ訓練があったとしても それまでのような苦しみ
はないであろう。 訓練には苦しみはある程度、伴い、苦しみがないわけではないが 今までの
ようではないであろう。 何しろ、主が共にいてくださることを実感しながら主と深く交わりをしな
がら進むことができるのだから。
 
とにかく、主と深く交わることができるためにも、また、主が共におられることを実感しつつ歩ん
で行くことができるためにも「キリストにとどまり続ける」ことに取り組んでいきたいものである。
 
★旧約聖書  詩篇 105:19
   彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
 
★旧約聖書 イザヤ書 48:17
   あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主で
   ある。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
 
 
 
 





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