めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年6月21日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<幾度となく差し出されている神の救いの手を払い除けることがないように!>



★旧約聖書 イザヤ書 65:2
   わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの
   手を差し伸べた。
 
★旧約聖書 詩篇 9:10
   御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨
   てになりませんでした。
 
●一旦、キリストを信じ受け入れたなら その救いを失うことはないというキリスト教会もある。 
しかし、聖書には明らかに、教会も裁きにあい、キリストを信じた者であったとしても、それがた
とえ牧師などの指導者でも裁かれる者がいることが書かれている。(Tペテロ4:17、マタイ13
章) なぜ、裁かれるのだろうか? 「主イエス・キリストを信じている」と告白していても裁かれ
たりするのだろうか? そういうことを思考してみる。
 
エジプトで奴隷として苦しんだイスラエル人たちは、奴隷から解放され、約束の地カナンを目指
して、進んで行った。 彼らは、荒野を通ることによって「神からの試し」を受けた。 「試し」、そ
れは「神からの訓練試練」である。 「荒野」は、「神の試しの場所」「神の訓練の場所」である。 
父なる神は、ご自身の子とされた者には、一人一人に応じて、この「荒野」を通される。 それ
は、神の子の自我を砕き、肉(生まれながらの性質)を切り取り、「信仰」「霊」を成長させて、
深く「主と交わり」ができるようにさせ、「主のみこころ」に従うことができるようにされるためであ
る。(ガラテヤ3,26,4:6、Tヨハネ3:1、へブル12:6)  
 
荒野の訓練試練に出エジプトしたイスラエル人たちは耐えられず、ギブアップして神に頼るどこ
ろか、神に反抗した。 なぜなら、彼らは、自分の願望、思いを遂げようとしたので、自我が砕
かれること、肉が切り取られることを嫌がったからである。 それで出エジプトした時、20歳以
上の者たちの中では、カレブとヨシュアだけが、約束の地カナンに入ることができた。 出エジ
プトした他の20歳以上の者たちは、荒野で死んだ(滅んだ)。 このことで、カレブとヨシュアが
「残りの者」であることを象徴している。 我々も同様、キリストを信じた者だから すべての者が
「救いの冠」「永遠のいのち」をいただけるというのではない。 言いかえるなら、「残りの者」
 「キリストを信じた、信じ続けた」ということであろう。 忍耐の神は、一人一人に応じて試され
る。その「試し」の時、へりくだって主を求め砕かれる者が「残りの者」としての道を歩んで行く。
 
さて、主は「招かれる者は多いが選ばれる者が少ない(マタイ22:14)」と言われた。 「招かれ
る者」とは、「キリストを信じ受け入れた者」 「選ばれる者」とは、「キリストを信じ続けたと神
に見なされる者」と言えよう。 「キリストを信じている」と言う者が多くても、本当に神に選ばれ
ている者は少ないということであろう。 今や、程度や種類は様々であるが、一応、キリスト教
のクリスチャン人口は、世界人口の約3分の1である。 しかし、主のことば照らし合わせるな
ら、本当に神が選ばれた者は、相当、少ないということである。 
 
ルカによる福音書13章に、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人の質問に対して、
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はい
れなくなる人が多いのですから。」とイエスは答えられたことが書かれている。 この「努力して」
原語(ギリシャ語)での意味には、「苦悩する」「困難や危険と格闘する」があるという。 荒
野の訓練試練を受けて、砕かれた者が「狭い門」にたどり着くということである。(狭い門につい
て、めんどり通信/2015年5月24日参照) 「狭い門」をキリストを信じることと受け取ることが多
いが、先ほど見たように「キリストを信じる」というレベルが、人から見た判断、基準と、神から
見られた判断、基準に違いがありそうである。 人が、人の腹の底(心の奥底)から「キリストを
信じる」と言うことを、主は望まれていると思われる。 腹の底(心の奥底)から「キリストを信じ
る」と言う者は、自分の愚かさ、弱さを知って、自分は主に頼らなくてはならない者であることを
認め、自我が砕かれること、肉が切り取られることによる「痛み」にも耐えることができるので
あろう。
 
確かに人の内側は、なかなか砕かれにくい。 人は、「痛み」、特に「心の痛み」「心の奥にまで
響く痛み」からは逃れたいと思うものである。 このことは、出エジプトしたイスラエル人たちを
見てもわかる。 神は、ご自身の民として、イスラエル人たちを選ばれた。 神が何故イスラエ
ル人たちを選ばれたのか。 申命記7:7「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ば
れたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべ
ての国々の民のうちで最も数が少なかった。」と書かれている。 数が少ないというのは、弱々
しいものである。 飢饉のため食べることに事欠いたヤコブたちは、神が先に遣わされていた
ヨセフによって当時、富裕国であったエジプトに下って行けたのである。 その時、ヤコブの家
族は七十人しかいなかった。 人数の少なさが弱さをも表わしていた。 そのようなイスラエル
人たちを神は愛され守られた。 我々においても同様である。 第一コリント1章27,28節「こ
の世の愚かな者を選び、この世の弱い者、この世の取るに足りない者や見下されている者、
無に等しいものを選ばれた。」と書かれている
 
神は「反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し
伸べた」と言われている。(イザヤ65:2、ローマ10:21) 荒野で彼らが反逆しても、神は忍耐を
もって何度も何度も、彼らに手を差し伸べられた。 荒野を旅するという試練は、彼らに本当の
自分を知らせたが、イスラエル人たちはそれを認めず、むしろ不平不満を神にぶつけた。 神
は、そのようなイスラエル人たちを助け、必要なものを与え、守られた。 彼らは、助けられても
守られても与えられても、苦境が去り、問題が解決するとすぐに神を忘れ、自分勝手、自己中
心になって、砕かれるどころか、ますます かたくなになった。 彼らは、一日中、差し伸べられ
た主の御手を払い除けたのである。 だから、約束の地に入れなかったのだ。
 
同様に、主イエス・キリストを真に信じて神の子とされた我々に起きる様々な苦境や問題、逆
境などは、主が、あえて起こさせていることがある。 すべての事がらが「主の御手」からでは
ないのかもしれないが、それでも主が許されているから起きると思われる。 主は、ご自身の
子とされた者たちが、何とかして、砕かれ、「信仰」「霊」が成長して、いつでも全く主により頼
むことを望んでおられる。 様々な苦境や問題、困難な事、苦しいことが起きる時、主に叫び求
めるならば、主は必ず応えてくださるお方である。 しかし、ともすれば人は、出エジプトしたイ
スラエル人たちと同様、本当の自分を知らされても、それを認めようとせず、かえって腹の底
心の奥底)あったものが噴き出るように、不平を鳴らして つぶやく者も多い。
 
しかし、これではいけないと、主に叫び求めるも、表面上だけの叫びとなり、主に届いていない
ということがあり得る。 心の表面上で、叫び求めても、心の奥底では、しっかり肉の「自分の
思い、考え、願い」などを握って離しておらず、それが差し伸べられている「主の御手」を見えな
くしている。 訓練試練のときに起きる困難、苦難の事がら、いろいろな問題などの解決を、世
の者たちや世の常識に求めるなら、知ってか知らでか、それは、差し伸べられている「主の御
手」を払い除けているということである。(詩篇78:40) 我々人は、神のあわれみ恵みを無にし
てはならない。 主は、我々の日々の生活の詳細に至るまでご存知である。(詩編139:2)
我々人の心の奥に潜む思いさえご存知である。 「主の御手」を見失わないように、とにかく、
主に対して素直になり、正直でありたいものである。(T歴代29:17、箴言16:13)
 
★旧約聖書 箴言 3:11
   わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。





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