めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年6月7日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「お金持ち」「お金を持つこと」についての思考>



★旧約聖書 箴言 8:21
   わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・
 
●旧約時代の多くの登場人物の生涯から 我々神を信じる者たちが、日々どのように歩んだ
らよいのかを学ぶことができる。 新約時代の12弟子、使徒パウロやその他多く 登場人物か
らは、彼らがキリストを信じつながってから どのように主に仕えていったかを学ぶことができ
る。 旧約の登場人物と新約の登場人物の主立った人の経済事情を比べてみると、旧約の登
場人物は豊かな人が多いように思われる。 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ヨブ、ダビデ
など他多くの登場人物が経済的に祝福されている創世記13:2、24:35,36、ヨブ42:12) 
 
ただ、経済的にも祝福された旧約時代の彼らの多くは、何も持たない、すなわち貧しさ、乏しさ
も体験し、いろいろな形でそのような時を過ごすことにより主から訓練された。 パウロが「・・
私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知って
おり、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏
しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)」と言ったように、旧
約時代の彼らもまた、一人一人に応じた神からの様々な訓練試練によって彼らは、乏しくて
も、豊かになっても、どのような境遇、状況であっても、日々の生活の中で「神を第一にする」
と、「主と主のみこころを最優先にする」こと「神を拠り所にする」秘訣を身に付けていった。
 
申命記28章には、神が定めた戒めと命令、神のことばに対する態度によって、神に祝福され
るか、呪われるかが明確に書かれているが、ユダヤ人にとって、(経済的な)豊かさは神の祝
福と考えられてきた。 ただ、初期のユダヤ教の時代になると、国の支配階級や特権階級など
 豊かな者たちに「わざわい」と「呪い」の言葉が向けられるようになったという。(ちなみに、アブ
ラハムなど古代イスラエルの歴史とユダヤ教とは多少違いがあり、ユダヤ教は もっと後にで
きた宗教。 初期のユダヤ教は、パレスチナ帰還後6世紀頃。 ただ、今日のユダヤ教の元は
西暦200年以降成立した「ラビ・ユダヤ教」だという) 
 
さて、イエスが来られて「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっと
やさしい。(マタイ19:24)」、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊か
な人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(ルカ12:15)」と言われたり、金
の好きなパリサイ人たちに金持ちとラザロの話しをされたこと(ルカ16:14.16:19-31) また
「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有
害な多くの欲とに陥ります。(Tテモテ6:9)」「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に
迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。(ヤコブ5:1)」のことばなどから、主を信じる者が財
産をたくさん持つこと、お金持ちになること、お金持ちであることが いけないような風潮になっ
ていた。 
 
キリスト教会では当初、迫害や圧迫された時代があった。 そのとき多くのキリスト者は謙遜と
清貧の中で祈り求めるという状況であったようだ。 その後、教会は成長していったが、ローマ
カトリック教会の権威、権力の最盛期には、教会に権力とお金が集まってきた。 お金で教皇
の位を手に入れたり、教会の財源増収のため、免罪符(罪が赦されるための証明書)が乱発
され、お金でそれを買うキリスト者が多く、教会は堕落していった。 そうしてルターの宗教改革
が起こり、プロテスタントが誕生したが、宗教改革や教会の分裂については、このことやこの時
だけではなく、長い時間で考えるべきことが多いようだ。 
 
その後、プロテスタントの中には、聖書の強調点の違いによって 幾つもの教派や教団に分か
れている。 著者が、実際、様々な形で いろいろな教会を見たり関わった体験から感じた範
囲ではあるが、キリスト教会は 「清貧に甘んずる」と清貧を奨励していたように思われる。 実
際、戦前、戦後は、「教会の牧師は清貧の模範になるべきだ」と言われていたようだ。 聖書の
みことばを その通りに守ろうとするところから、そのように言われたのかもしれない。 しか
し、その一方で、いつまでも清貧というわけではなく、「繁栄は神の祝福である」との教えがアメ
リカから入ってきたようである。 ユダヤ人が、その昔、(経済的な)豊かさは神の祝福と考えて
いたのと似ている。 今日、全般的に、「教会は 清貧に甘んずるべき」という考え方が主流か
もしれない。
 
それでは、主は我々クリスチャンに どのように望まれているのだろうか。 マタイ19章ルカ18
に書かれているが、「永遠のいのち」を求めていた人がイエスのところに来て質問した。 イ
エスは彼に「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。・・そのうえで、わたしに
ついて来なさい。」と言われた。 すると、彼はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。 な
ぜなら、彼はたいへんな金持ちだったからである、と書かれている。 この後に弟子たちに「金
持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(マタイ19:24)」
言われたのである。
 
イエスは、この人が ただお金をたくさん持っていたから、このように言われたのではない。 
「永遠のいのち」を求めていたはずなのに、この青年の最優先は、「永遠のいのち」ではなく、
「お金」「財産」だったからである。 むしろ、イエスはそのことを青年にわからせてご自身に
頼ってくること、ご自身を受け入れることを待っておられたのではないだろうか。 
 
そのためには、青年の心の奥底にあるもの、最優先にしているものを彼が知る必要があった
と思われる。 青年の日頃の行ないは、律法を行なっていたようである。 たとえ完璧に律法
行なっていなかったとしても、律法が日々の生活の中で青年の心に絶えず浮上していたであろ
う。 ちなみに「律法」を人間が自分の力で完璧に行なうことはできない。 しかし、青年は行な
おうと取り組んでいたことは確かなようだ。 外側から見れば、敬虔な歩み方をしていたと思わ
れる。 しかし、「永遠のいのち」、すなわち「救い」は、人の行ないで得られるものではない。 
「神の恵み」として与えられるものである。 
 
イエスを「主」として信じ受け入れることによって、主イエス・キリストが人の内で働いてくださる。 
そして、自分では到底できないことをできるように してくださるのだ。 この青年は、自分の
の奥底には「永遠のいのち」より「お金」「財産」を優先し、神を愛することができない自分があ
ることを知って愕然としたと思われる。 しかし、そこで へりくだってイエスを「主」として受け入
たなら、イエスのところから悲しみながら立ち去って行くことはなかったであろう。
 
また、表面的には敬虔そうに振る舞い、自分たちでも神に仕えていると思い込んでおり、イスラ
エルの民たちからも尊敬されていたパリサイ人たちの心の奥底には「お金が好き」「お金第一」
という思いがしっかりあったから、イエスは金持ちとラザロの話しをされたと思われる。 「人は
うわべを見るが、主は心を見る」からだ(Tサムエル16:7、口語訳 黙示録2:23、新共同訳
T歴28:9) 外側にあらわれる言動だけで判断すべきではないということであろう。
 
このようにしてみると、心の奥底に、どのような思い、どのような考えがあるのかということが、
結構、重要である。 そして、尚尚、重要なことは、「主につながり続けている」かどうか、「主を
第一にしている」かどうかである。 事業が成功して多くのお金を得ようが、仕事で多くのお金
を得ようが、 倹約して貯蓄した結果、多くのお金を持とうが それらが問題ではない。    お金を
持つことが悪いわけでもない。 それに捕らわれていること、意識するしないにかかわらず、そ
れを心の奥底に仕舞い込んで いざという時に、第一にしていること、それが問題なのであ
る。 
 
アブラハムもヨセフもダビデもその他、豊かであった多くの旧約時代の登場人物は、「神を第
」にしていた。 「神である主に対する愛」があり、それが最優先だった。 失敗したり、罪を
犯してしまったり、・・とあったが、その度、主の御前にへりくだり、砕かれた。 だから神が「良
し」とされた。 しかし、中には旧約のバラムのように、口では神の御心を第一と言いながらも
心の奥底「お金」「金銀」が第一ということを離さない者もいた。(民数記22章-24章) 
 
また、今日、多くのクリスチャンは、お金を多く持つ者は、また持った者は、イエスがなさったよ
うに 神に仕えるために使うべきだ、神が望まれているのは 人が救われることだから宣教の
ため、世のために人のために使うべきだという考えが多いかもしれない。 正論かもしれない。
 
しかし、主が 主を信じた者一人一人に、どのように語られているかの方が大事なことではな
いかと思う。 お金を持っている者は、人の救いのために使わなければならない、神に仕える
ために、すなわち教会に捧げて神のために使わなければならない、と主が言われたか、もしく
は、主のみこころを悟ったのならば、その通りにすべきである。 しかし、クリスチャンが教会
が、そのように言うから、聖書に書いてあるからと言っても、神がその時、そのようにすることを
望まれていないこともあり得る。 主なる神に祈り尋ねてみなければわからないことである。 
主のみこころ人が判断するのではなく、あくまで 主に祈り尋ね続けることが必要な場合の
方が結構、多いのではないだろうか。 お金を多く持つ者も持たない者も、主のみこころ
ろうと、主に尋ね求め続けることを、主の方が望まれているのではないだろうか。
 
神は、真に主を信じてご自身の子としてくださった一人一人に、神のご計画を持ってくださって
おられる。 だから、お金を持つこと、使うことについて、またその他、いろいろなことについて、
主にみこころを尋ねていくことが大切なのである。 かと言って、一つ一つ、細々と尋ねていく
必要があるかと言えば、必要な場合と、そうでない場合がある。 いずれにしてもその主のみ
こころ知っていくため、主を最優先するために、最も重要なことは、「キリストにしっかりつな
がっている」かどうか、「キリストにとどまり続けている」かどうかである。 結局、心の奥底に潜
んでいる「主のみこころに従い得ない」思いや考え取り除かれる、すなわち自我が砕かれる
必要があるということだ。 
 
とにかく、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって絶えず祈
り、主の語られることば正しい(霊の)耳で聞き、正しく受け取ること出来るようにしていた
だきたいものである。
 
★旧約聖書 第一サムエル記 15:22
  主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだ
     ろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
 
★新約聖書 ヤコブの手紙 4:15
   むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このこ
   とを、または、あのことをしよう。」
 
 





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