めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年4月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<なぜ詩篇に自分に敵対する者への呪いのことばが多いのか?:ダビデから思考>



★新約聖書  ヨハネの手紙 第一 2:28
   そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1:3
   (イエス・キリストについて)私たちの見たこと聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、
   あなたがたも交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子
   イエス・キリストとの交わりです
 
★旧約聖書  エレミヤ書 12:3
        主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。
 
詩編を読んでいてふと思った。 詩篇は、ダビデが書いたり、ダビデに関するものを合わせ
ると5分の4がダビデの関係の歌であると言われているが、読んでいると結構、に対しての
「呪いの言葉」が書かれているのは何故かと。 自分のに対して「卑しめられますように」「落
ち込みますように」「滅びますように」などと、「呪いの言葉」が多い。 もちろん全体的には、
「感謝」「ほめたたえ」「あがめる」という「祝福の言葉」が多い。 本来、詩編「賛美の書」と言
われるのだが、「呪いの言葉」が結構、目につく。 
 
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)」とか、「自分の敵を
愛しなさい(ルカ6:35)」と主は言われているから、クリスチャンなら、いくら自分のであったと
しても「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますよう
に。またたくまに。(詩編6:10)」とか、「滅びの中に彼が落ち込みますように(詩編35:8)」などと
言わないし、思わないのではないだろうか、と考えたりした。 たとえ、そういう「思い」「願い」
出てきたとしても、クリスチャンであるなら、そのような「思い」「願い」やその「感情」を隠すこと
なく主に申し上げて清められるよう祈るのではないかと思ったり考えたりした。 神ご自身のみ
こころは、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対
してながく忍耐しておられるのである。(Uペテロ3:9)」と書かれている。 だから、神に愛され
神を愛したダビデが、なぜ、自分の敵である「彼」とか「彼ら」呪う言葉を多く詩編に残したの
かと祈りつつ考えた。
 
ダビデが「敵」として書かれているのは、確かにダビデと同じ時代に存在していた人物である。 
ダビデを攻めたり、裏切ったりしてダビデを苦しめた人物は、サウル王であったり、自分の息
子アブシャロム、自分の議官であったアヒトフェル、ジフ人ドエグ、ナバル・・・他多々いる。 ダ
ビデは、彼らの「人物像」だけを見て、人間的な肉の感情で呪いの言葉を書いたとは思えな
い。 もし、人間的な肉の感情だけで言動していたのなら、サウルを殺すチャンスが2回あった
が、すでに1回目のチャンスのときに殺していただろう。 しかし、ダビデはに対して、自分で
仕返しや復讐をしていない。 全面的に神にゆだねている。 また、もし彼らの「人物像」だけを
見て、人間的な肉の感情だけで呪いの言葉を神に申し上げたのなら、神はダビデを愛さな
かっただろう。 しかし、神がダビデを愛しておられたことは事実である。 聖書の登場人物の
中で神に愛された人は誰か、という質問の答えには、ほとんどの者が、ダビデを筆頭に挙げる
のではないだろうか。 こうしてみると、ダビデは人間的な見方をしていなかったと思われる。
 
ダビデは、自分の人生すべてを主にゆだねきっていた。 自分のこの地上の歩みは、神が定
めておられることを認めていた。(詩編37:23) いつも心を、神である主に向けていた。 だか
ら、ダビデは、「霊的な見方」をしていたと思われる。 霊的なこと関しての洞察力、すなわち
主観的な自我の思いを介入させず、直観的に見抜く力、物事や人物を深く鋭く観察する能力
が神から与えられ、しかも神からの訓練試練によって鍛えられていった。 そうしてダビデは、
「敵」である「彼」「彼ら」「人物像」とともに、その人物の背後にいる「悪しき霊」とそれと結
託している「人物の本心、本音」、すなわち心の深いところを見て、感じていたと思われる。 
 
このように、「敵」とは、人物というより、その背後にいる「悪しき霊」と、その「悪しき霊」と結託
する肉の「思い」「考え」「願い」である。 その肉の「思い」「考え」「願い」は、心の奥深くに潜ん
でいることが多いので、本人が気づいていない場合がある。 しかし、あわれみの主は、何らか
の形で、それらに気づかせようと働いてくださっていることも多いが、残念なことに多くの人
が、気づかせてくださっても なかなか手離そうとしないのも事実である。 
 
ダビデの呪いの言葉(呪いの詩編)の箇所では、「霊的なこと」「霊的な世界」があるということ、
すなわち「霊的なレベル」で捉えるようにと、神は我々に教えておられると思われる。 「霊的な
見方」をしなければ、自分の好き嫌いで感情をあらわにしたというだけで終わってしまう。 確
かに自分の心の奥にある「思い」「考え」「感情」を主の前にさらけ出すことは必要である。 し
かし、それだけで終わるのは、おかしいこと。 何のために主の前にさらけだすのか。 それは
自分自身が変わるためであり、神とのかかわり、つながりが深くなるためなのである。 だか
ら、自分自身を主の前にさらけ出した後は、主の望まれる通りに従いますという、その真のへ
りくだりが必要である。 ストレス解消、うっぷんを晴らすだけで終わってはならない。 
 
神である主は、ダビデの「信仰」「神への愛」だけでなく、「霊的な見方」ができることを「良し」
とされ、ダビデを愛されたのではないだろうか。 ダビデは、「霊的な見方」で、「悪しき霊」「悪
しき霊」と結託している人の心深くにある「思い」を見て、呪いの言葉を叫んだから、呪いの言
であっても、神は「良し」とされたのであろう。 むしろ、「悪しき霊」「悪しき霊」と結託する心
の奥に潜む肉の「思い」を、主は憎まれ、のろわれる。(箴言3:33) ダビデは神との親しい交
わりによって、喜びを見い出しながら、波乱万丈の生涯ではあったが、神と共に歩んだ。 波
乱万丈の生涯であっても神が共におられたから、「主は私の味方。私は恐れない。人は、私
何ができよう。(詩編118:6)」と言えたのであろう。 そのようなダビデを、神である主は、ます
ます愛された。
 
神である主が我々人に望まれていることは、神と人との愛ある親しい交わりをすることである。 
そのためには、人が真に主を信じること、すなわち「信仰」が必要であり、絶えず主につなが
り、留まり続けること、すなわち「神への愛」が必要である。 また、人を惑わすのに巧妙に策
略を仕掛けてくる悪しき霊どもやサタンの働きを見破り、奴らの策略を見抜くことも必要であ
る。 「人」を表面の「人物像」だけ見るのではなく、その人の奥にあるもの、そこから漂ってくる
ものを見抜いていくことも必要であろう。 ただ、このことは、本当に難しいものである。 我々
クリスチャンが、いきなり的確な「霊的な見方」はできないからだ。 一人一人に応じて神から
訓練試練を受けながら「信仰」「霊」が成長していき、「霊的な見方」「霊の見破り」ができる
ようになってくるものである。 
 
多くの主を信じた者たちが、知らず知らずのうちに、悪しき霊どもの策略に引っ掛かって、主が
定められた命の道、すなわち神である主イエス・キリストから離れて行っている者が多いのも
悲しいことだが、事実である。 しかし、心から主につながり続けようと取り組んでいる者を主は
忘れない。 見ておられる。(イザヤ66:2) そして、命の道から引き離される危機が来たとき、
見破ることができる者を備えていてくださっている。 自分の危機のとき、主はその人を通して
教えてくださるであろう。 
 
とにかく、我々は、網目のように張られているサタンの策略の網に引っ掛からないためにも、
日々、キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、 主に尋ねること、いつも祈るこ
とをして主にとどまり続けたいものである。 そうして、「人」「物事」も表面的に見るのではな
く、「霊的な見方」があることを認めて、少しずつその見方を知っていき、主の定められた命の
をまっすぐに進みたいものである。
 
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:16、5:25
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
   なことはありません。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もう
   ではありませんか。
 





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