めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年10月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主の呼びかけにすぐに従う!:エリシャとルカ9章の3人の弟子候補から思考>


★新約聖書 ルカによる福音書 14:27
 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 20:12
   正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。・・・
 
★旧約聖書 サムエル記 第一 16:7
   ・・・人はうわべを見るが、主は心を見る。
 
主に仕えて行く」こと「主に従う」ことは、「主の弟子」になるということである。 旧約時代、
預言者エリヤの後継者として神はエリシャを選ばれた。 「エリヤについて行って、彼に仕え
た。(T列王記19:21)」と書かれているが、それは結局、主に仕えたことである。 ちなみに、
エリヤという名前には「主こそ神である」エリシャ「神は救い」という意味がある。 旧約時代
においても新約時代においても、人が「主に仕える」こと、「主に従う」ことは「神のみこころ」
あり、主を信じる人が当然なすべきことである。 主が望まれる「主に仕える」「主に従う」ことに
ついて、旧約時代、新約時代と今日に至るまで、根本的に弟子の条件は同じであると思われ
るので見ていきたいと思う。 列王記 第一 19章16節〜21節のエリシャの召命のときとルカに
よる福音書9章57節〜62節を見てみる。 
 
列王記 第一 19章16節〜21節は下記のように書かれている。 ・・・また、アベル・メホラの出
のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。 ・・・エリヤはそこを
立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。 エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、
その十二番目のくびきのそばで耕していた。 エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を
彼に掛けたので、エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。 
「私の父と母とに口づけさせてください。 それから、あなたに従って行きますから。」 エリヤは
彼に言った。 「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」 エリシャは引き返して来
て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそ
れを食べさせた。 それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。
 
ルカによる福音書9章57節〜62節は下記のように書かれている。 @さて、彼らが道を進んで
行くと、ある人がイエスに言った。 「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行き
ます。」 すると、イエスは彼に言われた。 「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の
子には枕する所もありません。」  Aイエスは別の人に、こう言われた。 「わたしについて来
なさい。」 しかしその人は言った。 「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」  する
と彼に言われた。 「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。 あなたは出て行って、
神の国を言い広めなさい。」  B別の人はこう言った。 「主よ。あなたに従います。ただその
前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」  するとイエスは彼に言われた。 「だれで
も、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
 
さて、エリシャは、十二くびきの牛、すなわち牛が24頭もいるということから、エリシャの家は当
時では裕福な農家だったようである。 エリシャは、エリヤについてのことを知っていたと思わ
れる。 だから、エリヤがひと言も発せず、ただ預言者を象徴する外套をエリシャに掛けたこと
だけで、「主に従って来なさい」「わたし(エリヤ)の後継者となりなさい」という主からの召命であ
るとわかったのではないだろうか。 だからエリシャが献身するのに何の迷いもなかったようで
ある。 エリヤは立ち止まらなかったので、エリシャは、牛をほうっておいて、エリヤのあとを追
いかけて行ったことから伺える。 
 
そして、エリシャはエリヤに「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って
行きますから。」と言うと、エリヤの答えは「行って来なさい。私があなたに何をしたというの
か。」であった。 そのことばを受けて、エリシャは急いで家に戻り、牛をほふって、調理して家
族の者たちに食べさせた。 家族のために仕える者となって、家族をもてなし、家族と別れ、エ
リヤのもとへ行き、エリヤに仕えた。 
 
上記のルカの福音書ではイエスの弟子入りについて3人の人のことが書かれている。 @の人
は、イエスの教えに感動して、自分からイエスの弟子になることを申し出た律法学者であった。
(マタイ8:19) イエスの答えから、この人は、自信満々で、肉の熱心があり、弟子になるため
の犠牲を考えていなかったようである。 Aの人は、イエスの方から「わたしについて来なさ
い。」と言われた。 すなわち、召命を受けたのである。 召命を拒絶しているわけではない
が、召命の時を自分の都合で決めようとした。 今すぐ父を葬るという状況ではなく、緊急性が
あるわけではなかったようだ。 もし、緊急性があったならイエスは「行って来なさい。」と言わ
れたかもしれないが、この人は、自分は長男として、しておかねばならない役割を果たしてか
ら、主に仕え、従って行くと決めていたようである。 しかし、召命の時は、自分が決めるもので
はない。 主が語られ、招かれた時「主の時」であり、最善の時である。 優先順位の一番
が自分の都合、自分の時では、主が望まれる「主に仕える」「主に従って行く」ことができない。 
 
Bの人は、自分から主に従って行くことを申し出ている。 この人には「主に従う」という気持ち
はあったようだ。 それまでにイエスがなさっていた奇跡や不思議を見たり聞いたりしていたで
あろう。 死人さえも生かされたのである。 「ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてく
ださい。」と条件を付けた。 ただ、この人と同じようなケースがエリシャの場合である。 エリ
シャの場合は、「行って来なさい。」と許された。 この人の場合は許されていない。 イエスの
答えから、この人の場合、この世への未練があったようだ。 うしろ(この世)に未練を残した
ら、明らかにこの世の王であるサタンの魅力に引きずられてしまうものである。 ロトの妻は、う
しろを振り返って、塩の柱になった。(創世記19:26) 優先順位がどこにあるかが大きな鍵とな
る。 優先順位の先頭が、この世であったり自分の思い、考えであったり人(自分を含めて)で
あったり、物であったり・・とイエス以外であるならば神の国にはふさわしくないということであ
る。 我々人は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないことが重要であ
る。(へブル12:2)
 
エリシャの場合は、エリシャ自身の心の優先順位の先頭が決して家族になっているわけではな
かった。 そのことをエリヤはわかっていたと推測できる。 何よりもエリヤが「行って来なさ
い。」と言ったからだ。 一つ一つの場合において、一つ一つに理由が書かれているときは、そ
れによって理解できる。 聖書聖書によって解釈し、全体の流れの中で見ていくことが必要
と言われているゆえ、そこから様々な推測、解釈もできる。 しかし、そのような理由、推測に
よる解釈以上に注目すべきことは、聖書に書かれている、エリヤはその言動にどう答えている
のか、イエスはどう答えられているのか、である。 主がこう語られたのは、こういう理由があっ
たからだ、主がこのように行なわれたのは、ああいう原因があったからだ、というような解釈も
必要なときがある。 しかし、もっと大事なことは、主が語られた理由、行われた原因、根拠、
訳などをすべて理解できなくても、ただ、主がこのように言われた、主があのように行われた
という事実である。 そのところに注目し、そこを中心に見ていき、聖霊に悟らせていただくこと
が重要である。 
 
なぜなら、主は我々人の心の奥にある思いも考えも、自分たちが気づいていないような思いさ
え、すべてご存知であるからだ。 その上で、その人が自分の意志(意思)を正しく働かせたな
ら、ついて来られる、と思われる時に、主はその人に呼びかけをなさり、答えられる。 また、
自我が砕かれなければならない、肉(生まれながらの神に従うことのできない性質)が切り取ら
れなければならないところを多々持っているのに、自信満々で、肉の熱心などで主に従おうと
する人には、その人の自我が砕かれるため、肉が切り落とされる、すなわち変えられるための
「ことば」を語られる。 その「ことば」をへりくだって受け入れた者は、砕かれ、変えられて、主
の方から召命の呼びかけがあるであろう。 
 
その時には、エリシャのようにペテロやヨハネなど使徒たちのように素直に応答し、訓練を受
けつつ従って行くことができるようになる。 確かに召命にも、人から見たら大小のレベルはあ
る。 しかし、いずれのレベルの召命であっても、みな重要なものである(Tコリント12:20〜2
4、15:38〜41) いかに主の御前に素直であるか、へりくだっているか、純粋であるかが問わ
れる。 ルカによる福音書の三人やエリシャのケースに似た場面に出くわしたとき、結局、ひと
りひとり、その時の状況によって取るべき応答の仕方、言動はみな違う可能性がある。 だか
ら、その時の聖霊の導き素直に乗れるようになっておくことが大切である。 どのような場合
でも変わらないことは、優先順位が主イエス・キリストであるということだ。
 
とにかく、我々は、いついかなる時であろうと、主の呼びかけ主の語りかけがあったときに
は、素直に応答して主に従っていきたいものである。 主は直接、語られる場合と、牧会者な
ど人を通して語られる場合、出来事を通して語られる場合、聖書のことば通して語られる場
合、・・・と様々なかたちで語られる。 その「主のことば」を聞き取っていくことは、人が砕かれ、
清められ、変えられていくにおいて、(霊が)成長していくにおいて重要なことである。 だから、
今置かれているところで、すべての道、すべてのことで、主を認め、ますます「主のみこころ」
知ることに取り組んでいきたいものである。 そして、様々なかたちで主が語られる「ことば」
素直に心の奥に受け取っていくべきである。 そのためにも個人的な主との交わりの中に留ま
ることに取り組んでいきたいものである。 
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 3:4
   むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを
   飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
 
★新約聖書  ローマ人への手紙 14:18
   このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです
 




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