めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年7月20日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
ダビデは嘘をついたと人は判断しがちだが神はどう見ておられるのか:Tサムエル記21章1節〜10節で思考


★旧約聖書 詩篇 52:8,9
    しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神
   の恵みに拠り頼む。 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくだ
   さったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望
   みます。
 
聖書の登場人物の中で神を愛し神に愛された人は多いが、中でも最初に挙がる名まえが
「ダビデ」かもしれない。 ダビデの生涯から、我々は神の御前にどうあるべきか、どういう歩み
をしたらよいのか、など学ぶべきことは多い。 気づいた箇所、気になった箇所を祈りつつ思考
していきたい。 
 
気になったことの一つ。 Tサムエル記21章1節〜10節。 ダビデがサウルから「敵」と呼ば
れ、逃げることを余儀なくされた。それまでにもサウルから槍で壁に打ち付けられそうになった
ことが3回(1サムエル18:11、19:10) ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。 何
も持たず一人で来たダビデに、アヒメレクは戸惑いを感じたようだ。 ダビデは、王の一つの命
令を持って出かけて来たこと、命令の目的も内容も誰にも知らせてはいけないとサウル王か
ら言われていること、従者である若者とは、ある場所で落ち合うようになっていることをアヒメレ
クに言った。 そして、食べ物と護衛のための武器をくれるよう依頼した。 アヒメレクは、聖別
されたパンとダビデが以前、エラの谷で打ち殺したときのペリシテ人ゴリヤテの剣を渡した。
 
第一サムエル記21章7節に、「その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止め
られていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわもので
あった。」と書かれている。 ダビデは、パンと武器を得るとすぐにアヒメレクのところを出た。 
アヒメレクはこの後、サウルに殺されてしまう。 ドエグが、サウルの気を引こうとして、アヒメレ
クがダビデにパンや武器を渡したこと、祭司としてダビデのために主に伺ったことを密告した
からだ。 そのことを聞いたサウルは、アヒトブの子祭司アヒメレクと、ノブで祭司職にある彼の
父の家の者をすべて呼び出した。 ダビデは忠実で、王の婿、近衛の長、王の家で重んじられ
ている者であり、この事件については、自分はいっさい知らなかった、とのアヒメレクの言葉を
聞くと、サウルはアヒメレクと祭司たち85名を殺せと家来たちに命じた。 しかし、家来たちは
躊躇した。 それでドエグに命じると彼は、アヒメレクと85名の祭司たちを殺し、祭司の町ノブを
剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子までも、剣の刃で打ち、牛もろばも羊も、剣の刃で打っ
た。(Tサムエル22章)
 
このことを聞いたダビデの反応は、「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれが
きっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたの
だ。(1サムエル22:22)」である。 ダビデは、相当、心を痛めており、責任を感じているように
思われる。 しかし、嘘をついてしまったという「思い」はなく、嘘をついたことの悔い改めた様
子は伺えない。 それから「私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者
は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。(1サムエル22:2
3)」と、大虐殺の中からたった一人逃がれて来たアヒメレクの息子のエブヤタルに言った。 
このところから、ダビデはこの出来事を冷静に受け止めていることが伺える。
 
さて、このところで思考してみる。 まず、ダビデが嘘をついたことを重要視すべきかどうか。 
アヒメレクたちが殺されたのは、ダビデが嘘をついた結果であって、ダビデは悔い改めるべき
であるかどうか。 ドエグが「主の前に引き止められていた」ことは、嘘は必ず露見するという教
えなのかどうか。
 
確かにダビデがアヒメレクに言ったことは事実ではない。 しかし、単にダビデは嘘をついた。 
神はすべてをご存知だから、危急のときは尚更、主なる神に頼るべきだ、ということがこの箇
所での教えの中心ではないように思われる。 そもそもダビデがサウルから命を狙われること
は理不尽なこと。 アヒメレクにおいてもサウルに殺されるのは不条理なこと。 それでも言え
ることは、理不尽なこと、不条理な出来事さえ、神の御ゆるしのもとで行われているということ
である。 
 
詩篇52篇のタイトルに 「指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのも
とに来て、 彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」と書かれている。 
マスキールとは、「黙想の詩」のことであるという。 この箇所を読んでもダビデが悔い改めたと
いうようなことは書かれていない。むしろ、ドエグを厳しく批判している。 52篇に書かれている
偽り」とか「欺きの舌」とかはドエグのことである。 ドエグは「神を力とせず、おのれの豊かな
富にたより、おのれの悪に強がる」が、ダビデは「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」
言っている。 このところから見ると、サウルがアヒメレクや主の祭司たちを虐殺したことを
いたとき、ダビデは心を痛め、大きな責任を感じてこそいるが、悔い改めをしているわけではな
い。 虐殺が起こったのは、ダビデのせいではないからだ。
 
また、ダビデは神に祈っていなかったわけではない。 聖書に書かれているダビデが関係する
ところ、特に詩編から見るなら、ダビデは一つ一つ神に祈って行動していたように思われる。 
ちなみに、詩篇150篇の約5分の4は、ダビデが書いたもの、ダビデのために書いたものと言わ
れている。 当然ながらダビデの言動の一つ一つすべてが聖書に記されているわけではない
が、それでも聖書に記されているダビデの生涯を見ると、確かにダビデは主に祈りつつ、主に
頼りつつ行動したと考えられる。 
 
ダビデも我々も同様だが、一つ一つ祈ったことについて、すぐさま、神からの応答があるわけ
ではない。 祈ったあと、神からの応えを待ってから行動できる場合と、祈った後、神からの応
えがくる前に、すぐさま行動しなければならない場合がある。 どちらにしても、すぐさま的確に
主のみこころ通りに言動できることが一番望ましいが、なかなかうまくいかない場合が多い。 
ダビデは、祈りつつ、神からの明確な応えや導きを待てずに言動しなければならない切羽詰
まったときが多々あった。 サウルに命を狙われて逃亡を余儀無くされていた当時は尚更であ
った。 今日の我々も、そういう命がかかった戦いはないかもしれないが、切羽詰まるときは
ある。 そのときに、祈ってすぐさま主からの返答がなくても言わなければならない、行動しなけ
ればならない場合が日常生活の中にでも多々ある。 そのようなときのため、日頃から、どれ
ほど主なる神に祈っているか、交わっているかが鍵となる。
 
さて、21章7節、ドエグというエドム人が「主の前に引き止められていた」ことについて。 彼は、
サウルがエドムと戦いで勝利した後、サウルに召し抱えられたと思われる。(Tサムエル14:4
7) つわもののドエグが、偶然、そこに居合わせたわけではない。 わざわざ「主の前に引き
止められていた」と書かれている。 それは、神のご計画があったからに他ならない。 このド
エグによって、虐殺は起こった。 虐殺を告げたアヒメレクの息子のエブヤタル(アビヤタル、ア
ビアタルともいう)は、祭司エリのひ孫である。 サウル王の命令によりエリの一族がノブの地
で虐殺されたことは、祭司エリに語られていた「主のことば」である「あなたの家には年寄りが
いなくなる(Tサムエル2:30-32、3:13)」の一部成就である。 祭司エリの家系で生き残った
エブヤタル(アビヤタル、アビアタルともいう)は、その後、ダビデ王の時にエルサレムの祭司と
して務めるが、ダビデ王の晩年に起こった宮廷闘争のとき、祭司エブヤタルはダビデに反逆し
たアドニヤ側についた。 それで、ソロモンが王になった時、エブヤタル(アビヤタル)はソロモ
ン王の政敵として祭司職から追放された。(T列王記1:7、2:26,27) このときに、祭司エリの
家に語られた「主のことば」が実現した。 成就したのである。
 
主なる神は、一旦、ご自身が語られた「ことば」は必ず成就される。 実現される。 祭司エリの
家の裁きについて、ダビデはサムエルから聞いていたのかもしれない。 ただ、アヒメレクはエ
リの家系だったから、裁かれたというのでもない。 サウルに殺されたことは不条理な話であ
る。 サウルに問われたとき、ダビデを正しい評価の見方をきちんとサウルに言い、サウルと
ダビデの間のことを何も知らなかった事実を話した。 殺される要素は何もなかったが、殺され
た。 いわば殉教である。 たとえ、裁きを受けると宣告されている祭司エリの家系の者であっ
ても、神の御前に正しい者は、「殺された」というより「殉教」という言葉の方がふさわしいかもし
れない。 しかも、神のことばの一点でも違いはなく、年寄りにならないうちにアヒメレクは死ん
だ。 これが神のなさること、神のご計画である。 主なる神のご計画は正しく、深い。 
 
以上から、ダビデが嘘を言ったことについて神は指摘されておらず、ダビデを責めておられな
い理由を垣間見ることができる。 神は、人がそのように見て判断しても、神はそのように見て
おられないということがある。 クリスチャンは嘘をついてはいけない、と言う。 その通りであ
る。 クリスチャンでなくても一般的にもそうだ。 ただ、世において「嘘も方便」嘘は罪悪では
あるが、よい結果を得る手段として時には必要であるということ。)ということわざがある。 一
般的に「世」においても、律法に縛られないような教訓がある。 守らなければならないことは
守り、融通をきかせるべきことはきかせる。 クリスチャンは尚更、律法に縛られてはならな
い。 しかし、案外、無意識に「クリスチャンだから嘘をついてはいけない」「聖書にうそを言って
はならないと書かれているから絶対、嘘をついてはいけない」と、自分で自分を縛っていること
がある。 そうして、心の奥底では、律法の網にがんじがらめになっている場合がある。 
 
そして、そのことが、クリスチャンとして、解放された自由な意思で主に従って行くのを妨げてい
ることがある。 心の表面上では、パウロが言うように「律法的になってはいけない」と言いなが
ら、物差しは、相変わらず、律法的になっていることがある。 そういうとき、人によっては自分
自身が縛られているだけでなく、人を見下げたり、また、無意識に高飛車な物言いになってい
る可能性がある。 しかし、そういうことに案外、気づいていない場合が多い。 自分が判断し
て、自分を窮屈にしている。 通常、クリスチャンは、そのように考えることをしないので、自分
で「嘘は嘘」、「本当は本当」と、「白は白」、「黒は黒」と明確にふたつに区別しがちである。 
もちろん、そういうことが必要なこと、必須な時も多い。 しかし、重要なことは、「主なる神が嘘
とみなされているかどうか」である。 「主はどうなのか」、「神はどう見ておられるのか」、「キリ
ストは(自分に)何を望んでおられるのか」である。 
 
我々は表面上の出来事や表面上の行動、言葉だけで、軽率に良し悪しの判断をすべきでは
ないこと、安易に神のみこころだと思い込まないことを、この箇所から学ぶことができる。 「聖
書のことば」についても、文字、文章から人間的な解釈をするのではない。 要は、重要、かつ
大切なことは、すべてのことについて「主なる神に問うこと」、「主イエス・キリストに尋ねること」
である。 すべてが主の支配のもとで起こっているからである。 エドム人ドエグがあの時にア
ヒメレクのところにいたことも、ドエグがサウルの命令で虐殺したことなども、すべて主のご計
画の中にあり、そのために神は、彼を「主の前に引き止められていた」のである。 我々は
日々の小さな生活をも神の良きご計画の中にあるようにと心から願う。 そして、全く解放され
た歩みをしながら、主に従っていきたいものである。
 
★旧約聖書  詩編 100:5
   主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
 
 
 





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