めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年7月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
親の責任、子の責任から神の計画を知ることについての思考:サムエルから


★新約聖書  ローマ人への手紙 11:36
   というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、こ
   の神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
 
★旧約聖書 イザヤ書 25:1
   主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは
   遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
 
●親になった者は、子に対しての責任がある。 中には子どものいない人もいるだろうが、そ
れでも人は皆、子の位置、子の立場に立っているか、もしくは、立ったことがあるものだ。 子
どもがいないという理由で、「親の責任」を果たすということには無関係であったとしても、「子の
責任」を果たすことについては、すべての者が該当する。 親が子に対して責任を果たすとき、
生まれながらの聖められていない肉の「情」が厄介だといういうことは先週の「めんどり通信」
書いたが、子の親に対しての肉の「情」も厄介である。 子の場合、自分の考え通り、思い通り
になってほしいという「肉の感情」が特に厄介である。
 
子の親に対しての責任をひと言で言うなら、「あなたの父と母を敬え。(出エジプト29:12)」であ
る。 自分を生んでくれた父なる神に感謝し、両親に感謝することである。 たとえ、とても敬う
ことなどできないような親であったとしても、生んでくれた(産んでくれた)ことは事実であり、こ
の親がいたから、自分は存在しているのだ。 そのことを感謝するのである。 しかし、現実に
は、なかなか難しいものである。 「親の責任」、「子の責任」は、それぞれが正しくその責任を
果たすためには、主なる神の介入が必須であるが、どれほど、人が、主なる神に介入してい
ただく」ように求めているか、「主のところにとどまって」生活しているかが、鍵となる。 
 
さて、主なる神は、「親の責任」、「子の責任」について、単にそれぞれがうまく責任を果たして
いるか果たしていないかという以上に、人が、「主のところにとどまって」、「親の責任」「子の責
任」を果たしているかという、「主のところにとどまって」というところを見ていると思われる。 こ
のことは、「親の責任」、「子の責任」を果たす場合だけではなく、何事をするにおいても「主の
ところにとどまって」が要(かなめ)となる。 通常、「主のところにとどまって」、その人なりに「親
の責任」を果たした結果、子どもは、正しく成長する場合が多いと思われるが、そうではない場
合もある。 もちろん、「主のところにとどまって」、その人なりに「親の責任」を果たしたと言って
も、完璧にできる者など、ほとんどいないであろう。 何かしらの落ち度はあるものだ。 また、
親の方に重大な落ち度がなくても子が正しく成長していない場合もある。 子の方に問題が
あったり、悪しき霊が関係している場合もあり、・・と様々なケースがある。 いずれにしても、子
が正しく成長していないという外側の結果で、親が子に対しての責任を果たせていない、と人
は見ても神はそのように見ておられないことがある。 旧約聖書に登場してくるのサムエルの
場合を見てみる。
 
サムエル(その名は神という意味)は、母アンナの身を切られるような深い心の痛みを抱えたと
ころからの祈りに神が応えてくださった結果、誕生した。 サムエルは生まれる前から、すでに
母アンナによって神に捧げられていた。 乳離れしたとき、祭司エリに預けられたが、エリに育
てられたというより、神に育てられたと言えよう。 「主のみもとで成長し、主にも、人にも愛され
た。」と記されている。(Tサムエル2:21、26)  当時、主のことばはまれにしかなかったが、
はサムエルに語られた。 サムエルは直接的に主の召し受けた。 また、サムエルの祈りは
聞かれたので、イスラエル人たちも、早くからサムエルを預言者として認めたようである。 サ
ムエルは預言者として、士師(さばきつかさ)として、「主のことば」に従いながら、一生の間、イ
スラエルをさばいた。 ペリシテ人との戦いにおいても、サムエルが主に祈ることにより、主が
直接、働いてくださりイスラエルは勝利した。 「ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領
内に、 はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。
(Tサムエル7:13)」と書かれている。  神が立てられたサムエルが存在していることが、イスラ
エルをペリシテ人から守った、とも言える。 このことを通しても、サムエルは主が「良し」とされ
る歩みができていたということである。
 
サムエルは、幼いときから祭司エリと息子たちを見てきた。 まして、エリの家の裁きについて
神はサムエルに語られた。 だから、サムエルは、自分自身が神を畏れ、「主と主のことば」
従うだけでなく、二人の息子の名まえをヨエル(ヤハウェは神であるという意味)とアビヤ(ヤハ
ウェは我が父という意味)とつけた。 自分と同様、神を畏れ、神に従う者になってほしいとの
願いからであろう。 主の働きのために忙しくても、子どもたちが神の御前にへりくだり正しく育
つようにと願い、「主のところにとどまって」サムエルなりに親の責任を果たしたのではないだろ
うか。 もちろん、完璧ではなかったであろうし、落ち度も多々あったであろう。 事実、息子た
ちは、さばきつかさでありながら正しい信仰を持っていない。 「父の道に歩まず、利得を追い
求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」と書かれている。 しかし、神はこのことで、サムエ
ルを責めておられない。 むしろ、息子たちは「父の道に歩まず」と、サムエルの歩みは神が
「良し」とされている。 息子たちは、わいろなどその人の性質の悪さから出てくる罪を犯し、さ
ばきつかさという神に仕える務め、権威にあずかっているにも関わらず、神を知らない世の人
と同じように振舞っている。 そのようになったのは、親の責任というより、子の責任の方が大
きいと思われる。
 
祭司エリの息子たちの罪、悪については、「彼らを殺すことが主のみこころであった」と記され
ている。(Tサムエル2:25) エリの息子たちの罪は、祭司でありながら神を畏れず、神を侮る
罪で、主の前で非常に大きかった。 エリも神よりも自分の息子たちを重んじて息子たちを
めなかったので、エリの家を永遠にさばくとい宣告を受けた。 エリたちは、親も子も神から
責められた。 エリの歩みを、神は「良し」とされなかったということである。 そして、これらのこ
とも、神の計画の中にあったことである。 
 
親が正しい「信仰」を持っているから、子も正しい「信仰」を持つことができるとは限らない。 
また親子であっても一人一人、「信仰」の持ち方、「信仰」の確立の仕方、働きなど、みな違う。 
サムエルは確かに神に召された。 だからと言って、子も同じレベルでの「召し」があるかと言
えば、そうではない。 一人一人、みな違う。 一人一人、それぞれに応じて神が決められてい
「召し」がある。 夫婦の場合は「一体」と言われているので、「一体」としての召しがあるが、
夫、妻、それぞれ別個に、それぞれに応じての神からの「召し」を受ける場合もある。 だか
ら、一人一人の「信仰」が成長する過程は、一人ひとりに応じて、神が望まれる過程がある。 
「神のご計画」があるからだ。
 
神は、サムエルの歩みを「良し」と見られ「神ご自身のご計画」、「神のみこころ」を優先してお
られたからこそ、エリのようにサムエルを責めておられないのではないだろうか。 サムエルの
息子たちが、さばきつかさとして不適格だということがきっかけとなって、イスラエルの長老たち
や民は、ほかのすべての国民のように「人間の王」を求めて、王制が導入されることになった。 
王制になることは、イスラエルにとっては通らなければならない過程であると神はご計画してお
られたのではないだろうか。 なぜなら、イスラエル人たちの心の底には、ペリシテ人の脅威か
ら解放されるために、ほかの国々のように目に見える強力なリーダーシップを持って、自分た
ちを導いてくれる「王」が欲しいという固い「思い」、「願い」があったからである。 
 
イスラエル人たちの心の奥底に潜ませていた、いつでも神に逆う可能性のある「思い」、「願
い」を、浮き彫りにしておかなければ、神に対して表面的な従いしかできないことを神はご存知
だったのではないだろうか。 表面的な従順は、何かの拍子でいつでも裏切る。 それだから
こそ、彼らの心の底にある膿をすべて出させて、神の完全なるご計画へと向かわせるというこ
とが、神にとっては最優先のことであるように思われるのだが。 このように聖書を、特に旧約
聖書を読んで、イスラエルの歴史を見るとき、神は壮大、かつ緻密で、しかも、あわれみ深く
「神のご計画」を今まで進めて来られたのだと深い感動を覚える。 そして、今も、これからも進
めていかれる主なる神を心から褒め称える。 「神のご計画」は、ひと言で言えば、「永遠に人
を救うため」である。 なんと、神はすばらしいお方、すごいお方であろうか。 パウロが「ああ、
神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがた
く、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ11:33)」と言ったがその通りである。 
のご計画は、我々人には理解できるような単純なものではないが、確かに人は神の恩恵を受
けている。 
 
我々人は、日々の生活に追われ、目先のことだけに囚われてしまいがちであるが、神のご計
は、着実に躊躇なく進められている。 「親の責任」「子の責任」を果たすことやその他、もろ
もろの事など、どれをとっても大きな神のご計画という目には見えないが巨大で深いうねりのよ
うな中の小さな一つのことに過ぎない。 しかし、その一つ一つのことを通して、確実に神はご
自身のみこころを我々に示してくださっている。 神は何かの影響を受けているようで受けてい
ない。 すべては神のみこころのままになってきたし、今後も、神のご計画の通りになっていく。 
我々は、過去の出来事について、あの時、こうだったら、ああしていたら、神のご計画の筋書
きは変わっていたのかもしれない、などと考えてみたりするが、そういうことも、すべて神はご存
の上で、ご自身のご計画を進めておられる。 「親の責任」「子の責任」を果たすことを通して
も、まず「神のご計画」があることを知り、我々がすべきことは、「主のところにとどまって」日々
の生活を歩んでいくことである。 日々の生活の中で、「神に介入していただき」、「主イエス・キ
リスト」を実際的、体験的に知っていくことである。 神はすべてのことでご計画を持っておられ
るが、「幸いな神の計画」に入れられるようにと願う。 そのために日々、信仰の創始者であ
り、完成者であるイエスから目を離さないで、主に尋ね求めていきたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。
 






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