めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年6月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<イエスがトマスに言われた「見ずに信じる者は幸いです」の「幸い」についての思考>


★旧約聖書  詩篇 27:4
   私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
   に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
 
★旧約聖書 詩篇 84:1-4
   万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭
   を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌いま
   す。・・・万軍の主。私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人た
   ちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。
 
聖書の中に、壮大な奇蹟や不思議な業(わざ)、癒しがちりばめられている。 出エジプト
ときや新約聖書福音書には、奇蹟や、不思議、しるしが数多く記されている。 旧約のイスラ
エル人たちも新約の群集も、神の奇蹟や不思議を見たり、聞いたり、中には、直接、神のみわ
ざを体験した者も多い。 すべて、神のあわれみである。 そのような体験をしたり、見たり、聞
いたりしたときには、人々は、神をあがめ、ほめたたえた。 しかし、旧約のイスラエル人たち
は、指導者やさばきつかさがいなくなると、すぐに主の目の前に悪を行なった。 神がしてはい
けないと言われることを率先して行ない、神の怒りにあった。 新約では群集が、イエスのエル
サレム入場のとき、歓呼の声で熱狂的に迎え入れたが、一週間もたたないうちに、律法学者
やパリサイ人たちに扇動されイエスを十字架につけよ!」と権威者である祭司長たちの方
に寝返った。 奇蹟を見た、不思議を体験した、と言っても主に対する「純粋な信仰」神から
見られて「正しい信仰」が根付くわけではないことを思い知ることができる。 
 
さて、様々な種類の奇蹟があるが、人にとって最大の奇蹟とは、イエスが聖霊によってマリヤ
から生まれたこと(処女降誕)とイエスが我々の罪のために死なれたが三日目によみがえられ
たこと(復活)である。 約二千年前、イエスが死人の中から復活されたとき、ユダヤ人たちを
恐れ、隠れるようにして戸を閉めて一箇所に集まっていた弟子たちの中にイエスは来られた。 
イエスは前もって弟子たちにご自身の十字架の死と復活について話されていた。(マタイ17
章、20章、ルカ18章) しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。 聖書
「彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」と書かれている。
(ルカ18:34) 復活されたイエスは弟子たちの前に来られると、その手とわき腹を彼らに示さ
れた。 それを見た弟子たちは、主を見て喜んだ、と書かれている。 
 
そのとき、12弟子の一人であるトマスがその場にいなかった。 後で、ほかの弟子たちが「私た
ちは主を見た。」と言ったが、トマスは私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに
差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。(ヨハネ福2
0:25)」と言った。 そのことを主はご存知で、八日後に、トマスもほかの弟子たちと一緒に室
内にいたとき、イエスが来られた。 そして、トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手
を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる
者になりなさい。」と言われた。 その「主のことば」を聞くやいなや、トマスは、「私の主。私の
神。」と信仰告白をした。 そのときに言われたイエスのことばが、「あなたはわたしを見たから
信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」である。
 
トマスにとって一週間は見ずに信じる」において、出てくる「疑問」「神への問いかけ」をしな
がら、他の弟子たちから「主を見た」と聞いても素直に信じることができなかった自分の自我、
肉との戦いの期間でもあったと思われる。 いわば、その正しい葛藤、苦しみがあったからこ
そ、イエスのことば、「見ずに信じる者は幸いである。」を聞くやいなや、信仰告白ができたので
あろう。 「見ずに信じる者」に出てくるであろう「疑問」「神への問いかけ」による葛藤は、主
はご存知で、むしろ、良しとされていると思われる。
 
だから、「見ずに信じる者は幸いです。」という「ことば」は、トマスに言われたというより、後の
我々に言われた「ことば」であると思われる。 ただ、トマスにしても、イエスの顕現を受けたほ
かの弟子たちにしても、その後の生き様は、主イエスに一生を捧げたものとなった。 ペテロは
キリストのために逆さ十字架で殉教。 アンデレ、ヤコブ、マタイ、バルトロマイ、ピリポ、シモ
ン、トマス、・・・など皆殉教。 ヨハネはパトモス島へと島流し。 今日、(復活のイエスをこの目
で)見ずに信じた我々より、はるかに尊い信仰の生涯を送ったと思う。 彼らの殉教は、歯を食
いしばってというより、彼らの顔は輝いていたという。 まことに彼らにとって、その生き様は「幸
い」であった。 ならば、復活のイエスを肉眼で見ず、「福音のことば」だけで信じた我々クリス
チャンや今後、信じる者は、必ず、「幸い」になれるという希望が持てる。  だから「見て信じ
る」「見ずに信じる」というより、要は、見ても見なくても、「真に復活の主イエス・キリストを信じ
る者は幸いです」、の「幸い」について注目してみる。
 
イエスを信じて与えられる「幸い」は、何と言っても「救い」である。 ただ、ひと言で「救い」
言っても、その意味合いはいろいろある。 永遠の死(滅び)からの救い、危急の出来事から
の救い、人生に起こる様々な苦難からの救い・・・などと様々である。 そのような「救い」を詳
細に分けなくても解決できる「救い」が、イエスが言われた「見ずに信じる者は幸いです。」であ
る。 この「幸い」をダビデは、たった一つの願いとして主に求めた。(詩篇27:4) それは、「主
の家に住むこと」である。 「主の家」というのは「神殿」のことである。 「神殿」「主なる神を
礼拝する場所」であるが、主イエス・キリストご自身のからだのことである。(ヨハネ福2:21) 
また、「主の家」と同じようなことばであるが、「主の大庭」というのも、「主なる神を礼拝するとこ
ろ」である。 
 
「主の家に住むこと」「主の大庭に住むこと」とは「主のところに住む」、「主のところにとどま
る」ということである。 「いつも主と共にいる」ということである。 ダビデは、「いのちの日の限
り、主の家に住むこと」を求めた。 主と親しく交わり、主のみこころを知って、「神の愛」「神
の恵み」の中で生きることを求めたということである。 この生き方こそ、人が何ものにも捕ら
われず、自由に生きることができるものである。 これこそ、人にとって最大の「幸い」であり、
主イエス・キリストが言われる「幸い」である。 
 
そして、この「幸い」は、旧約聖書  詩篇65章4節「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられ
た人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもの
で満ち足りるでしょう。」によるならば、主が選ばれ、主が近寄せられた人が体得できるもので
ある。 イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだので
ある。(ヨハネ福15:16)」と言われたが、これは、旧約のイスラエルの民が一方的に神から選
ばれたのと同様、イエスが一方的な「神の愛」をもっての「選び」である。 ただ、今、主イエス・
キリストを受け入れている者は主が選ばれ、主が近寄せられている者」である可能性が強
い。 だから「大庭に住む」ことができる。 すなわち主と親しく交わることができるはずである。 
 
もし、それができていないなら、その人の内に妨げるものがあるか、もしくは主を信じてまだ間
もないという理由であろう。 主を信じて間もないことについては、心配することはない。 本気
で主を信じて、主のみこころを知ろうと取り組んでいる者は、主が「信仰」「霊」も成長させてく
ださるからだ。 また、まだ、主イエス・キリストを信じていない者は、「ひとりでも滅びることを望
まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」神のあわれみがあるゆえ、キリス
トにあって神に近寄ることができる。 神の、この「神のあわれみ」を無下にしないようにしてほ
しいものだ。 いずれにしても、ダビデと同じく「いのちの日の限り、主の家に住む」ことを求め
ていき、実際、主とともに歩んで生きたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:44
   わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはでき
   ません。・・
 
 

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