めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年5月4日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
神から示される幻、ビジョンついて。聖書の裏付けがあれば尚良し:証し:ノアの箱舟とガリラヤ湖での大漁


★新約聖書 使徒行伝 2:17<ヨエル書2:28>
   神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息
   子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:13,14
  私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すな
  わち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて
  上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
 
★旧約聖書 箴言16:20
   みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。
 
旧約聖書 箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る
者は幸いである。」と書かれている。 主イエス・キリストを信じる者は、「幻」がなければ自分の
思うままにふるまい、その結果、神に放り捨てられた状態になってしまう。 「律法や預言者を
成就するために来た」と言われた「主イエス・キリスト」に目を留め、「主のことば」に聞き従いな
がら生きる者は幸いである、ということであろうか。(マタイ5:17〜20) 「幻」ということばの原語
(ヘブル語)は、神からの「啓示・託宣」、夢の中に示される映像やメッセージ、あるいは幻視・幻
聴・幻覚などを意味するという。 いわば、ひと言でいうなら「幻」とは、神の計画、人の将来に
ついての神からの啓示である。
 
さて、著者の教会の二人の姉妹がそれぞれ、同じくらいの時期に別個に同じ幻、同じビジョン
が与えられた。 一人の姉妹には、霊的感覚という形で、もう一人の姉妹には、幻視、映
という形で与えられた。 著者が、そのことを聞いた時、人の願望や期待から来る人間的な
思い込みや勘違いではなく、神からのものであると直感したが、吟味の意味で、さらにこれら
のことが神からのものであることが鮮明になるために、聖書の裏付け主に祈り求めた。 す
ると、主から聖書の箇所を示され、これらは神からの「幻」であることの確信が与えられた。
 
まず、姉妹たちに与えられた「幻」はこうである。 一人の姉妹Aには夢を通しての「幻」 
我々、レムナントめんどり教会の基礎の人々が大きな船に乗っていた。 船は大きなトンネル
のようなところをくぐり抜けようと出口に近づいていた。 向こうには、光輝く大海原が見えてい
た。 出口は向こうの方に見えるが、船はまだトンネルの中だった。 まだ完全には出ていな
い。 この夢を見て、7日目、著者は二人の姉妹と一緒に交わる機会があった。 そのとき、も
う一人の姉妹Bは、3Dのような鮮明な映像で、その船は、トンネルの出口付近の真下にいるの
を見たという。 二人の姉妹は、船の大きさやトンネル付近や向こうに見える光輝く大海原の
様子が同じなのに驚き、自分たちが見た「幻」についてお互い確認するように話していた。 姉
妹Aが7日前に見た船は明らかに進んでいた。
 
姉妹Aが夢を通しての「幻」を見てから、ちょうど1ヵ月後、また、その姉妹が夢を見た。 同じ船
が登場した。 それまでは、自分たちが船に乗っていたというのを見てはいたが、それでも、ど
こにいたのかについて、それほど気にもしていなかったという。 しかし、その日、自分たちが
船内に入ったという感覚があったという。 電気が明々とついている今の船ではなく、電気のな
かった頃の船内と同じようで、外に比べると薄暗かったと思うが、真っ暗ではなかった。 そし
て、そこは暗いが、嫌な暗さではなく、安心感(平安)があったという。 ちなみに、トンネルは、
長年、我々が受けている悪しき霊からの攻撃による苦しみや様々な試練困難を通っている苦
しみ、そして与えられている「主のことば」が完了、成就していない、すなわち、現状が「主のこ
とば」とは違うゆえの苦しみをあらわしている。
 
著者は、船内に入ったということを聞いて、これらの夢の裏付けが聖書から与えられるよう祈り
求めた。 すると3日後の早天祈祷のとき、「ノアの箱舟」ということを示された。 姉妹たちが、
それぞれのかたちで見た船は、旧約聖書に登場するあの「ノアの箱舟」であるということ。 正
確な言い方をするなら、「ノアの箱舟」のような箱船だということである。 その前日、もう一人の
姉妹Bが、大きな船がゆっくりと動いていて、今まさにトンネルから船の先っぽが出ようとしてい
る姿を見たという。 また、「ノアの箱舟」のことを示された翌日、船の前半分がトンネルから出
ている状態を見たという。 
 
早天祈祷で「ノアの箱舟」のことを教えられてから3日後のまた早天祈祷のとき、光輝く大海原
「天の御国」ではなく、ガリラヤ湖であること。 主イエスが、ペテロに「網をおろしなさい。」
言われ、魚が大量に獲れた場面のガリラヤ湖であることを示された。 船が完全にトンネルを
抜けて大海原に出たとき、それまで与えられていた数々の「主のことば」が完了し、多くの主が
選ばれている人たちが乗ってくるということを示された。 このこと(大漁)に関して、姉妹Bに、
牧会者が捕らわれていた大勢の人を解放し取り戻していた様子を映像で見るという形の「幻」
が、2ヶ月ほど前に与えられていた。 以上の「幻」は、まだ完了、成就しておらず途中段階で
はあるが、重要なことを学べるとの認識から書いてみた。 
 
さて、二人の姉妹に、それぞれ同じ「幻」が与えられたが、それらの裏付けとなった聖書の箇所
を見てみる。  ノアの箱舟。  簡単に書いてみる。 ノアが生きていた時代、地上に人の悪が
増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていたので、主は、地上に人を
造ったことを悔やみ、心を痛められた。 それで、主は堕落したすべて肉なるものを滅ぼそう
された。 しかし、ノアは、主の心にかなっていたので、神が設計された「箱舟」を作るように言
われた。 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、人々に警告の「神のことば」を伝えながら
作った(Uペテロ2:5) 多くの月日(約百年)を費やして大きな「箱舟」が出来上がった。 「箱
舟」にはノアと家族の計8人と多くの種類の動物たちが入った。 その後、四十日四十夜、雨が
降り、「箱舟」に入らなかったものは、すべて滅んだ。 ノアの「箱舟」に入ったものは救われた
ということである。(創世記6章〜8章) ちなみに、この「箱舟」の大きさは、長133.5m×幅22.2m
×高13.3mで、現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、最も安定しているといわれる比
率とほぼ同じであり、排水量は全長269mもある20世紀の巨大なタイタニック号の排水量にほ
ぼ等しいと推定されているという。
 
次に、ガリラヤ湖での大漁の話し。 ヨハネによる福音書21章。 イエスは十字架にかかられ
3日後によみがえられた。 ペテロは、イエスが再び現われてくださるのを待っていたが、待
ちきれなくなって漁に出た。 しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けたころ、イエスは
岸に立っておられたが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 しかし、その方が
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と言われたので「ことば」通りにする
と、網が破れそうなくらいの大漁だった。 この記事と似たことがルカによる福音者5章に書か
れているが、この時の経験から、岸に立っておられた方が、すぐにイエスだとわからなくてもペ
テロは素直に「ことば」に従ったのだと思われる。 ルカ5章の時は、イエスがまだ十字架にか
かられる前のことで、このことをきっかけに、ペテロは何もかも捨てて、イエスに従った。 いず
れにしても、イエスの指示、すなわち「主のことば」があっての大漁である。 
 
これらのことから、救われるべき者は、この救いの「箱舟」に入ることが必須であるとわかる。 
また、人を救いに導くこと、すなわちイエスがペテロに言われたことば「今から後、あなたは人
間をとる漁師になる。」、この通りになるためには「イエスの指示」、「主のことば」「必須」
あるということだ。 よく「ノアの箱舟」「教会」であるとメッセージされる。 その通りである。 
「救い」ということから見るなら、「ノアの箱舟」は、「教会」であり、「キリスト」であろう。 姉妹た
ちが見た「ノアの箱舟」のような船も「教会」だった。 ただ、他にも同じような「教会」という「ノア
の箱舟」のような船がいたであろうが、当教会に関する「幻」なので、見ていないという。 「教会
の建て上げ方」「教会のあり方」もはっきりとは示されていない。 だから今後、主がどのよう
にご計画されているのか、わからない。 今までのような教会の建て上げ方なら、経験上わか
るが、どうもそうではないようだ。 また、誰が船に乗っているのか、はっきりわかる部分とわか
らない部分がある。 ただ、今わからないことはわからないでいいと思っている。 それを主に
祈り求めているので、必要な時が来たら、主が教えてくださると信じている。 
 
また、これらのことから大切なことは、「教会の建て上げ」「信仰の成長」「霊の深みに入る
こと」など前進するために、「幻」「ビジョン」は必要であるということだ。 特に「教会の建て上
げ」「霊の深みに入ること」については、「主のみこころ」を無視した独りよがりにならないた
め、自分の考えや勘違いした言動が「主のみこころ」だと思い込まないためにも、「幻」は必要
かもしれない。 尚、「幻」「ビジョン」の与えられ方は、人によって様々である。 であったり、
映像幻視であったりといろいろである。 それからまた、 神はすべての人に「幻」「ビジョン」
を用意してくださっているが、確実に神から与えられる「幻」であることが重要である。 そのた
め吟味は必要であろう。 「教会」に関してなどの「幻」は特に、複数の人に「幻」が与えられて
も、その「幻」「一致」が見られ、「つながり」があるものだ。 同じ人が複数回、与えられる
「幻」も、つながりがあるものだ。 我々、主イエス・キリストを真に信じる者は、キリストの使節
である(Uコリント5:20) だからこそ、「幻」は、神からのものであることが明確である必要が
ある。 へりくだって心砕かれ、主に信頼し、主のことばにおののく者には、神が何らかの方法
「幻」「ビジョン」を与えてくださり、今後の進むべき道を示してくださるであろう。
 
★新約聖書 使徒行伝 9:31
   こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、
   主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
 
 


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