めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年4月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主の試し、訓練などの体験、経験を無駄にしてはならない:指導者モーセと出エジプトしたイスラエル人から学ぶ


★旧約聖書 詩篇 103:8
   主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第二 3:15
   また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。・・・
 
★旧約聖書 申命記 8:5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。
 
●長い年月をかけて、いろいろなことを体験、経験することは、人が人間として成長するため
に必要なことであると一般的に言われている。 主イエス・キリストを信じ受け入れた者も同様
である。 「信仰」「霊」が成長するためには、ある程度の期間、様々な体験、経験をすること
は必要なことである。 ただ、単に体験や経験をするのではない。 主の介入、主が支配され
た体験、経験こそが必要である。 また、その「信仰」「霊」が成長し強くなるためには、祈り
が重要である。 そして、真に祈っている者には、主は、主が介入された何らかの体験、経験
を通らせる。 それは、直接、主によって起こされる場合があり、その人自身、すなわち自業自
得によって引き起こされたことによる体験の場合があり、・・・と体験、経験のあり方も様々であ
る。 そして、それらの体験、経験が「試し」となり「訓練」となり「試練」となる。 だから、主を信
じた者が、主を信じたゆえに、「すべき経験」「通るべき体験」というのがある。
 
主に試され、主の訓練を受けたとき、人が、いかに「主と主のことば」「キリストのもと」に戻れ
るかがポイントである。 「主と主のことば」「キリストのもと」に戻ることが、「主の試し」に対する
人の正しい応答であるからだ。 それは、主に対して従順かどうかが試されていることになる。 
ただ、人が「主と主のことば」「キリストのもと」に戻っている、返っていると思っても、思い込んで
いる場合も結構、多い。 また、主に試されたとき主と主のことば」「キリストのもと」に戻れな
いまま、行動したり、言葉を言ったりして、「失敗した」ということがある。 しかし、それらの「失
敗」が、むしろその人の「信仰」「霊」を成長させるために「益」となることも多々である。 この
ような場合、その「失敗」が、主が「良し」とされたものであることが必須である。 「益」になる
「失敗」と、「益」にならず、「罪」「反抗」「敵対」などに数えられる「失敗」がある。 このことを
出エジプトさせたモーセと出エジプトしたイスラエル人たちから見てみる。
 
約400年間、エジプトで奴隷として苦しんできたイスラエル人たち。 特にヨセフを知らないエジ
プト王になってからは、過酷な労役にうめき、わめき、叫んだ。 彼らの労役の叫びは神に届
き、神は彼らをエジプトから脱出させ、約束の「乳と蜜の流れるカナンの地」へ導くために「モー
セ」を立てられた。 モーセは神から「ことば」を預かり、イスラエル人たちに語り聞かせた。 出
エジプトするときから、イスラエル人たちは、神の奇蹟や不思議を見、体験した。 そうして荒野
に入ったが、主とモーセに対して、つぶやきと、不平不満、反抗を繰り返した。 「水がない。エ
ジプトで食べていたような食べ物がない。」と。 また、神が与えてくださった食べ物マナ(民数
記11:7、出16:31)に対する不満などを激しく口にした。 主の怒りの火が、彼らに向かって燃
え上がり、宿営の端をなめ尽くした。 民はモーセに向かってわめいたので、モーセが主に祈
ると、火は消えた。(民数記11:2) 
 
その後、約束の地カナンを偵察したとき、そこは実りは豊かだったが、敵が強大なので恐れを
なし、偵察に行ったものたちは、探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらし、聞い
た民もカレブとヨシュアの「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるか
ら。」という言葉をかき消し、「エジプトの地で死んでいたらよかったのに。」と言う始末。(民数
記13:30、14:2) また、モーセに立ち向かったコラ、ダタン、アビラムたちが、神の裁きによっ
て滅びると、「あなたがたは主の民を殺した。」とモーセとアロンに向かってつぶやいた。 主は
イスラエル人に怒られ、神罰を下された。 ここでもモーセのとりなしにより神罰はやんだ。(民
数記16章) 荒野をすすんで行ったとき、再び水がないことでイスラエル人たちはつぶやいた。
(民数記20:2-213) そして、ホル山から、エドムの地を迂回して、「葦の海の道」、すなわち紅
海への道に旅立って進んでいたとき、またも民は神とモーセに逆らった。 このように逆らい続
ける民に向かって、主は炎の蛇を送られた。 何度も何度も「主の奇蹟」「主のみわざ」を見
ても、何度も何度も、モーセのとりなしを実際体験し、モーセから「ことば」を聞いても、何度も
何度も「神の恵み」を与えられても、一向に変わらないイスラエルの民。 
 
なぜ、イスラエルの民たちは変わらなかったのか。 それは、彼らの望んでいる「救い」は、自
分たちにとって今の悪い状況が改善されれば、それでいいとしているからだ。 神が与えようと
しておられる「救い」を受けようとしていないからだ。 「神と自分」「主と自分」という関係、すな
わち「主としもべ」の位置こそが正しい関係であるのに、自分たちの都合で、神を神とせず、主
を主としないから、自分(思い、願い、考え)を最優先してしまっている。 だから、主が立てられ
たモーセの「ことば」に聞き従うことができないばかりか、反抗してしまうのであろう。 神の奇
蹟や不思議を見たり、体験したこと。 実際、約束の「乳と蜜の流れるカナンの地」を見て、触
れたこと。 いわば神が与えようとされている「乳と蜜の流れる地」すなわち「神の恵み」を垣
間見ても、自分の思い、願い、考えを決して離そうとしない頑固さ。 それが、変わることを妨
げたと言えよう。 このことを、我々主を信じる者は見逃してはならないところである。 安易に
捉えてはならないところである。
 
主は、出エジプトしたイスラエル人たちを変えるために、荒野を通らせた。 すなわち回り道、
遠回りをさせた。(出13:17) 主なる神が、イスラエル人を奴隷から救い、彼らが再び、(エジプ
トの)奴隷に戻ることがないように、新たな出発をした彼らが、「神が定められた祝福の道」を、
まっすぐに進めるように、神が与えようとされている「神の恵み」を受け取れるように、とあえて
荒野を通らせた。 要は、イスラエル人たちは主によって変えられなければ、苦しんでいたこと
を忘れたかのように、またぞろエジプトの奴隷に戻ってしまい、道をまっすぐに歩まず逸れて行
き、「神のみこころ」ではない「願い」「思い」を追求して、堕ちていく可能性があったからだ。 だ
から、主はモーセを用いられて、イスラエル人たちを変えようとなさった。 このことは、イスラエ
ル人たちだけでなく、救われた我々にも当てはまることである。 今日においても主は、人を変
えられるにおいて、主が立てられた人を用いられることが多々である。 
 
人は、一人で聖書を読んでいて、主から直接、示しを受けたり、自分に起きる出来事を通し
て、主がいわんとされていることを悟るなどであれば、案外、素直に受け入れやすいものであ
る。 事実、確かに、そういうことで主は人を変えられる。 しかし、このような場合は、独りよが
りになる可能性がある。 聖霊が働かれてもいないのに、主が悟らせてくださったと勘違いする
場合が結構ある。 本当に主が悟らせてくださったのか、自分の思い込みなのかの判別は、
結構、難しいが、(神が立てられた)人を通さない方が、自分にとってはやり易い、納得しやす
い、楽であるのもまた事実である。 
 
ところが、神が立てられた人(牧会者や指導者など)を通して、変えられなければならないとこ
ろや砕かれなければならないところを指摘されたり、勧めのことばを言われたとき、言われた
者の本心(自分の心底に持っていた思い、願い、考えなど自分にとっての本当の心)と違って
いたり、的を得ていたり、図星だったり、さわられたくないところだったりした時には、主が立て
られた人の「ことば」をなかなか、真底から受け入れることができないことがある。 表面では、
素直に受け入れたように見えても、心の奥底では反発していることがある。 もしくは、頭で受
け入れても、自分の内側に順位があって、それに気づかずに無視するか、表面だけ受け入れ
るが、決して真底から受け入れないということもある。 
 
普段は、日常の生活や世の常識や様々な理由で覆われていた心底にあるものが、主が立て
られた人の指摘や勧めで浮上してきたとき、どのように応答するかで、その人が変えられる
か、かたくなになっていくかが決まる。 そこで受け入れたなら、その人は、確実に砕かれ変わ
る。 出エジプトさせてくださった神は、モーセのとりなしによってイスラエル人たちに対して忍耐
に忍耐を重ねられた。 しかし、イスラエル人たちは、その「神のあわれみ」「無駄」にし、モー
セの「とりなし」をも「無駄」にしてしまった。 それで、約束の地に入る民としての登録がなされ
なかった。 「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。(民数記26:64,65) 
 
とにかく、出エジプトしたイスラエル人たちと同じにならないように、目を覚ましていきたいもので
ある。 日々の生活の中で、主の主権を認め、主の前に自分の弱さ、むなしさを徹底的に知
り、へりくだって、主が立てられた人を通して語られる「ことば」聖書やいろいろな出来事を通
して語られる「ことば」を真底から受け入れて変えられていきたいものである。 日々の生活の
中での体験、経験の一つも無駄にならないためにも、ますますキリストとしっかり深くつながっ
ていきたいものである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:7
   信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
   キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 


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