めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年4月20日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主が望まれるとりなし:アブラハムのゆえにロトは義人と言われたことから学ぶ>


★旧約聖書 イザヤ書 59:16
   主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救
   いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。
 
●「アブラハムのゆえに義人と言われる恵まれたロト」から思考してみる。 ロトについて聖書
に記されていることを簡単にまとめてみる。 ロトは、アブラハムの甥である。 アブラハムの父
であり、ロトの祖父であるテラに伴われ、カナンの地に行くために、アブラハムやアブラハムの
妻のサラと一緒にウルの町を出て、途中の地カラン(ハラン)に着いた。 そこで住みついた
が、テラが死に、神がアブラハムに語られた「ことば」によって、アブラハムたちと一緒にカラン
(ハラン)を出て、カナンの地に入った。 ずっとアブラハムと一緒だったが、ネゲブで、アブラハ
ムもロトもそれぞれ家畜など彼らの持ち物が多すぎたことやアブラハムの家畜の牧者たちと
ロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こったりしたので、アブラハムの提案により、二人
は別れることになった。 アブラハムは、ロトに好きな方を選ばせた。 ロトはよく潤っていた低
地全体を選び、ソドムの近くまで天幕を張った。(創世記13章) はじめは遊牧生活をしていた
ロトだったが、やがてソドムに住み着いた。 そこで戦いに巻き込まれ、エドムの王ゲオルラオ
メルとその同盟軍に捕われた。 そのことを聞いたアブラハムがロトのために戦い、ロトとその
財産を取り戻した。(創世記14章) 
 
創世記18章。 三人の人(主と御使い)がアブラハムのところに来られた。 その後、三人の訪
問者を見送るために、彼らといっしょに歩いていたとき、主はこれからしようとすることをアブラ
ハムに告げられた。 アブラハムは、そのとき、親族のロトたちのことを考えたであろう。 それ
で、主に嘆願した。 もしソドムに正しい人がいたなら滅ぼさないで欲しいと。 正しい人五十人
から言い始め、十人まで言ったが、結果的には、ソドムには神が見られて正しい人は十人もい
なかった。
 
創世記19章。 二人の御使いはロトのところへ行った。 ロトはソドムの門のところにすわって
いた。 当時、町は城壁で囲まれており、町の門のところでは行政や裁判、商売などが行なわ
れていた。 ロトは、そこである程度の地位を得ていたようである。 それだから、ソドムの腐敗
の状況がよくわかり心を痛めていたことも事実であろう。 ペテロが「無節操な者たちの好色な
ふるまいによって悩まされていた義人ロト」と言っている。(Uペテロ2:7) 最初ロトは、この二
人の人が御使いとは気づいていなかったようであるが、丁重に客人として迎えた。 ところが、
ロトのところに、ソドムの町の男たちが、若い者から年寄りまでロトの家に押し掛けてきて、
「ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」と叫んで言った。 ここの「知る」とは性的な、倫
理的な乱れを語っている。 そこでロトは、客を家に迎えた者として二人を守るために、代わり
に自分の二人の未婚の娘を差し出そうとした。 町中の罪に汚れた状況に悩まされていたとは
いえ、そのような町の中で生活の拠点を置いていたロトの判断力、感覚が麻痺していたのかも
しれない。 それでも、町の人々の行う罪には荷担していなかった19:9) その危急のとき、
御使いが御力をあらわされ、男たちをくらました。
 
御使いたちは、ロトにソドムとゴモラを滅ぼすことを告げ、この場所から出て行くよう促した。 
ロトは娘たちが嫁いでいる婿たちに、出て行くことを告げたが、婿たちには、冗談のように思わ
れた。 夜が明ける頃、御使いは、ためらうロトの手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつか
んで、連れ出し、町の外に置いた。 「主の彼に対するあわれみによる。(19:16)」と書かれてい
る。 なぜ、ためらったのか? おそらく、嫁いだ娘たちや婿たちのことを考えたのかもしれな
い。 また、この差し迫った神の裁きを頭では理解しても、実感しなかったので行動に移すこと
ができなかったのかもしれない。
 
御使いたちは、ロトに「山に逃げなさい。」と言われたが、ロトは「あの小さい町に逃れさせてく
ださい。」と願った。 御使いが「山に逃げなさい。」と言われたのだから、ロトが山に到達する
までは決して裁きはないはずである。 もしくは、御使いは、ロトが「はい。」と従えば、手をつか
んで山まで連れて行ってくれるはずである。 しかし、「私は、山に逃げることができません。わ
ざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。…(あんなに小さい町)あそこに逃げさせてくだ
さい。」とロトは恐れた。 信仰の弱さゆえの言葉である。 御使いは「よろしい。わたしはこの
ことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。…あなたがあそこにはい
るまでは、わたしは何もできないから。」と言われた。
 
ソドムとゴモラは、硫黄の火によって滅ぼされたが、ロトの妻は、「うしろを振り返ってはいけな
い。」という御使いの「ことば」に従わなかったので、塩の柱となった。 裁きを目の当たりに見
たロトと二人の娘は、結局、小さい町ツォアルを出て、山へ行き、洞穴で住んだ。 そこで、二
人の娘は、父ロトに酒を飲ませ酔わせて、ロトが彼女たちが寝たのも、起きたのも知らない
ちに、娘たちはそれぞれ、父ロトによって子どもを身ごもった。 こうして、モアブ人の先祖とア
モン人の先祖が誕生した。 これ以降、ロトのことは記されていないが、神は、アブラハムのゆ
えに、ロトの子孫を忘れることはなく、出エジプトしたイスラエルがモアブを攻めることを禁じ、
モアブ人ルツを、イエス・キリストの先祖とされた。(申命記2:9、ルツ記) 
 
このように、ロトについての記述を見てみると、神はロトを責めておられない。 アブラハムと別
れるとき、よく潤っていた低地を選んだこと、ソドムの近くで天幕を張って遊牧生活をしていた
のが、罪にまみれたソドムに住んだこと、そのソドムで良い地位を得ていたこと、客人を守るた
めだと言っても、娘を性的、倫理的な乱れの場に差し出すと言ったこと、御使いの「この場所を
滅ぼそうとしているから、この場所から出て行きなさい。」「ことば」を聞いてもためらったこ
と、御使いの「山に逃げなさい。」「ことば」にも、恐れて自分の願いを言い通したこと、二人
の娘によって子どもを得たことなど、ロトの行動、言葉は本来、神を信じる者から見るならば、
責められるようなことが多々である。 しかし、神はこれらのことについてロトを責めるような「こ
とば」を語られていない。 ロトを「罪」に定めておられない。 むしろ、「信仰の弱い者」と見なさ
れ、ロトを許し、あわれんでロトの願いを聞いてくださっている。 ロトに合わせてくださっている
ようにも思える。(ローマ14:1、Tコリント8:11) 二人の独身の娘を差し出すということにも主
は責めておられず、むしろロトを助けるために御力をあらわしてくださっている。
 
ロトの記述から主が我々に教えようとしておられることは、ロトの信仰や義人ぶり、はたまた、
ともすれば批判されるようなことを反面教師的なこととして学ぶというのではない。 ロトのこと
から言えることは「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておら
れた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれ
させた。(創世記19:29)」ということである。 ひと言で言えば「アブラハムのゆえにロトは滅び
から救われた」ということである。 「アブラハムのゆえに」、愚かな言動が許され、弱い信仰が
許され、むしろ助けを与えられ、あわれみを受けている、というところに注目すべきである。 
「アブラハムのゆえに」があるから、町中、罪に汚れた状況のソドムに住み、ロトの判断力、感
覚が麻痺していた可能性がある中、「不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた
義人」とペテロは記したのであろう。
 
「アブラハムのゆえに」、それは、アブラハムのロトに対する「とりなし」があったからである。 
主と親しく交わるアブラハムの「とりなし」を神は聞き受け入れてくださっていたからである。 も
ちろん強い信仰でなくても、「主のことば」に素直に従える「信仰」は必要である。 ロトは、御使
いが「ソドムとゴモラを滅ぼす」との「ことば」を信じた。 ためらいはあったものの、うしろを振り
返らなかった。 最低限、そういう従順は必要ではあるが、何と言っても、「アブラハムのとりな
しのゆえに」「アブラハムのゆえに」が重要なのである。 神に覚えていただくことが重要なの
である。 だから、ロトは主のあわれみを受けることができたのである。
 
同様に、救われた者が「…のゆえに」と主に見られるほどキリストと明確につながることが重
要である。 そのような者の「とりなし」「とりなしの祈り」が効果がある。 主が聞き入れてくだ
さるからだ。  「とりなし」をする者、すなわち、だれがとりなしをするのか、どんな者がとりなし
をするのかが大切である。 すなわち、「とりなす者」がどれほどキリストと固くつながっている
かが鍵である。 「神はアブラハムを覚えておられた。それで、・・・」と同様、「主は・・・を覚えて
おられた。それで・・・・」と言われるほど、キリストと親しく深く交わった者の「とりなし」を主の方
が望まれている。 主がアブラハムに親しく語ってくださっていたように、我々は、キリストとしっ
かりつながり続けて、親しく交わっていることが重要である。 アブラハムほどの「信仰」の持ち
主でなくても、今日、真に主イエス・キリストを信じる者には「助け主、聖霊」がおられる。 その
「聖霊」に助けられ、導かれて、キリストとしっかりつながり、我々も確かな「とりなしの祈り」
したいものである。 決して、独りよがりの「とりなし」にならないように気をつけたいものであ
る。 聖霊の導きによる「とりなしの祈り」は、キリストとの深い交わり、主との確実なつながりが
土台となった上で行なわれるものである。 
 
キリストとつながっている証拠、それはクリスチャンらしい生活をしている、すなわち、日拝、集
会はかかさず参加している、教会で奉仕をしている、聖書を勉強している、世的なものは排除
している、・・・そういう者が、クリスチャンらしいと思っている者が多いが、そうではない。 ロト
についても、神の見方と人(クリスチャン)の見方は結構、違うであろう。 同じように、キリスト
にしっかりつながっている、主に深くへりくだって交わっている者、という見方も神と人では、違
いがあると思われる。 安易に自分はへりくだっている、交わっていると思い込みをしないこと
も大切である。 井戸掘りしながらキリストにあって自分の内の深いところを吟味してみること
は必要かと思われる。
 
いずれにしても「アブラハムのゆえに」というアブラハムほどのレベルではなくても、少しずつ
「・・・を覚えている。それだから・・・を聞き入れる」と主に言われるように、本当の取り組みをし
ていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇25:7
   私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えて
   いてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。
 


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