めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年4月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<生まれる前から主に選ばれている者について:モーセから学ぶ>


★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:15
 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神・・・
 
★旧約聖書 箴言 3:6
   あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにさ
   れる。
 
「幸いな神のご計画」のうちに入れられていたモーセの召命の箇所を見てみる。 出エジプト
記3章1節〜4章17節。 ミデヤンの地に住んで40年経ったモーセは80歳になっていた。 あると
きモーセは神の山ホレブで「モーセ、モーセ。」と神に呼びかけられた。 「わたしは、あなたの
父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と仰せられる御声に、モーセは
「神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」と書かれている。 主はエジプトで奴隷として苦しん
でいるイスラエルの民の叫びを聞いたから、彼らを出エジプトさせて乳と蜜の流れる地へ上ら
せると仰せられた。 だからモーセに「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わた
しの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」と仰せられた。
 
モーセは「私はいったい何者なのでしょう。」とへりくだった感じだった。 この箇所は人によって
はモーセの抵抗だと言う人もいるが、筆者は恐れ多いというように受け取った。 神は、「わた
しはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」と仰せられた。 これほど明確
で大いなるしるしはない。 モーセは「今、私はイスラエル人のところに行きます。」と決心を伝
えた。 これからモーセの幾つかの神への質問が始まる。 神は答えられモーセに「ことば」
語られた。
 
イスラエル人に神の名を聞かれたときには、「わたしはある。」「 あなたがたの父祖の神、アブ
ラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と答えること。 また、その神、主が、イスラエル人たち
乳と蜜の流れる地へ上らせるためにモーセを遣わされたことを言うこと。 そして、イスラエ
ル人たちはモーセの声に聞き従うであろうから長老たちとパロのところへ行って話すこと(話す
内容は出3:18)。 エジプトの王は強いられなければ言うことをきかないので、主があらゆる不
思議をエジプトになさること。 それでも、モーセは、「ですが、彼らは私を信ぜず…」と弱気に
なった。
 
それは事実、乳と蜜の流れる地にはカナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人
が住んでいたこと。 奴隷であったイスラエル人が彼らと戦うことなど考えられなかったであろ
う。 またパロが言うことを聞かず、強いられなければイスラエル人を行かせないということ。 
エジプトで王女の息子として育てられ40年近くエジプトに住んでいたので王の強さを知っていた
であろうから、その王、エジプトを打つ手段が、神のなさるあらゆる不思議であることが、モー
セの知識、想像をはるかに超えていて恐れさえ感じたのであろう。 エジプトの民が奴隷であっ
たイスラエル人に好意を持って出エジプトするときに、金銀の飾りや着物を提供すること。 こ
のことも、到底、考えられないことであったであろう。 それらのことが、モーセを弱気にさせた
要因と思われる。
 
そのようなモーセに主は、しるしを見せられた。 モーセの持っていた杖が蛇になり、モーセが
その蛇の尾を握ると杖になった。 次にモーセの手をふところに入れて出すと、手はらい病に
かかり、再び手をふところに入れて出すと回復してもとの通りになっていた。 また、もし、この2
つのしるしも信ぜず、モーセの声にも聞き従わないなら、ナイルの水をかわいた土に注ぐと、
その水が血となる、と仰せられた。
 
それでも、モーセは「私は以前から口が重く、舌が重いのです。」と尻込みした。主は、「だれが
人に口をつけたのか。…それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口と
ともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」とまで仰せられたが、それでも尚、モーセは
「どうかほかの人を遣わしてください。」と尻込みした。 主はモーセに向かって怒られたが、
モーセに罰を加えられたわけでもなく、裁かれたわけでもない。 むしろ、モーセに助けを与え
られた。 神がモーセに語られ、モーセがアロンに語り、アロンが民に語ることになった。 そう
して、モーセはしゅうとのイテロにエジプトへ行くことの許可をもらいに行った。
 
このように見てみると、モーセが何回も反論じみた言い訳をし、ともすれば不信仰と思われる
ようなことでも、神の方が忍耐されて、モーセに対してそれらのことを許し、怒られてもむしろ、
後々に我々にとっても益となるようにしてくださっている。 主なる神は、モーセといういわば人
間の弱さを重々わかってくださっておられ、その上で、ご自身のご計画を進めるにおいて、最
善の策を取られているように思われる。
 
神が人を選ばれる基準は、「この世の愚かな者、この世の弱い者を選ばれた(1コリント1:27)」
と書かれているが、モーセも例外ではない。 モーセの弱さのためにアロンを選ばれ「ふたり」
を遣わされたように、イエスが12弟子を村々へ遣わされたり、70人をご自分が行くつもりのす
べての町や村へ、先にお遣わしになったのも、「ふたり」ずつだった。 人間の弱さ、愚かさを
知っておられたから「ふたり」ずつだったのではないだろうか。 「もしひとりなら、打ち負かされ
ても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」のことば通り、主のもと
での「ふたり」は、絡み合って強くなる。(伝道者の書4:12) ただ、モーセとアロンの関係は、
モーセが神となり、アロンは預言者(神のことばを伝える者)である。 また、主が言われた教会
の定義ともいえることばには「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたし
もその中にいるからです。」とある。(マタイ18:20)
 
最初、モーセは「今、私はイスラエル人のところに行きます。」と答えたが、主なる神から、神が
なさろうとしておられること、すなわち「神のことば」を具体的に聞けば聞くほど、尻込みした。 
こういうことがある。 いずれにしても、人の弱さ、拒否、…があったとしても神のご計画」
「神のことば」は、変わることなく、神ご自身が推し進められる。 尻込みするモーセを励まし、
説き伏せるようにして動かされたのは、モーセが「幸いな神のご計画」のうちにいたからであ
る。 生まれる前からキリストにあって選んでくださっていたからである。 すべて神による。
 
我々が生まれる前からキリストにあって選んでくださっていたかのかどうかを知ることは、聖書
によるならば可能である。 キリストを信じた者がみな、明確にキリストと出会っているわけでは
ない。 真にキリストを信じた者は必ず明確にはっきりとキリストに出会う時がある。 そして、
明確にキリストと出会った者は、それまでの人生を振り返ったとき、キリストを知らなかったそ
れまでの人生において、良かったことすべては、神のあわれみと恵みと守りがあったからであ
ることに感謝ができる。
 
また苦しかったこと、心が痛かったことは、自分の自我や肉の強さから、また性格から来る自
業自得のゆえであったことが多かったであろうが、そのようになったことを神が許されていたか
ら今日があると思える。 そのように振り返る時、キリストと自分の関係であり、人をうらんだ
り、ねたんだり、…など人を介入させることはない。 良い悪いにかかわらず、主を知らなかっ
た時の自分の人生にも神を認めることができるかどうか。 また、その主を知らなかった古き
時に置いていた自分の足場が、そこから離れているかが目安となる。
 
モーセほどの「召し」ではなくても、真にキリストを信じる者は、キリストのからだの一部である
から、何らかの働きがあるはずである。 モーセのような特別な「召し」ではなくても、キリストの
からだの一部であるなら、ある意味、それも「召し」である。 だから「召し」への確信を持つこと
は、モーセと同じように、生まれる前からキリストにあって選ばれた者であることを知る一つの
方法と思われるから、大切なことである。
 
ただ、今、確信を持てているからと言ってあぐらをかいて安堵すべきではない。 あぐらをかい
ていないと思っていても心の奥底をのぞいてみると結構、あぐらをかいている者が多いことも
事実である。 この先、いつ悪霊の風が吹いて、倒れるか倒れないかはわからない。 だか
ら、絶えず、「主のことば」「キリスト」に戻るのである。 とにかく、キリストに足場を置いた歩み
をしていきたいものである。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 1:27-29
  しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはず
  かしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や
  見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、
  無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
 


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