めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年12月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<振り返って反省することについて>



★旧約聖書 詩篇 143: 5
   私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手
   のわざを静かに考えています。
 
★旧約聖書 イザヤ書 51:1
   義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、
   掘り出された穴を見よ。
 
★旧約聖書 申命記 24:22
   あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。・・・
 
●主イエス・キリストを信じて新たな人生のスタートを切り、キリスト教会の中で右も左もわから
ないまま進んで行くうちに、ある者たちは確かな「神の恵み」「神のあわれみ」を体験し、益々
キリストに従って生きていきたいと思うようになり、ある者たちは「神の恵み」「神のあわれ
み」を体験しているにも関わらず、肉(生まれながらの性質)の強さや自我の強さで鈍感にな
り、相変わらず、自分の願い、思いを強調するという自分中心に生きていく。 また、「キリスト
に従っている」と言いながら、実は、古いキリスト教会の慣習や体制、自分たちの経験から割り
出した考えを行ない、「神の恵み」「神のみわざ」を体験していると勘違いしている者たち。 
イエス・キリストを信じた、受け入れたと言ってもいろいろである。 
 
いずれにしても、人が人として成長することは、世においても勧められる事であろう。 キリスト
者(クリスチャン)においても同様である。 人が人として、本来、神が人を造られたときの状
態、いやそれ以上に、キリストの復活の力を享受して、人が真に「キリストに従う者」として生き
ることを神の方が望んでくださっている。 神がそのように望んでくださっておられたから、我々
人に「キリスト(油注がれた者:救い主)」が与えられたのである。 主に心から感謝する。 
 
一般的に人が成長するために、過去の出来事、特に失敗や愚かなこと、過ちなどを悔いて反
省することは美徳であるかのごとく思われている。 過去の自分を振り返り、自分の悪いとこ
ろ、良くないところを見つけて反省することは大切なことであると思われている。 過去を振り返
り反省していれば、同じことを繰り返すことはないという考えは、この世ではほめられている。 
同じミスを繰り返す者は反省が足りないと言われてしまいがちである。 しかし、「過去を振り返
り反省すること」で本当に人が変わるのだろうか? 「過去、うしろを振り返って反省する」こと
はある意味、大切なことではある。 しかし、「反省」で人が変わったと思っても、その人にとっ
て弱い別の部分からの誘惑やつまずきとなるものが来ると、結果的にまたぞろ同じ失敗を繰り
返すことの方が多い。 「過去を振り返り反省する」ことを口癖にしている人たちが、結構、失
敗や間違いを繰り返しているということを聞く。 結局、「反省する」ことだけでは真に人(の性
質)が変わることはできない。 しかし、少しでも前進したからいいではないか、という声が聞こ
えてきそうではあるが、果たして本当に前進したのだろうか? 
 
聖書にも「反省」した者たちのことについて書かれている。 旧約聖書に登場してくる初代イス
ラエルの王サウルの場合。 サウル王が、預言者サムエルを通して与えられた「神のことば」
に背いた(Tサムエル記15:3,18) そのことをサムエルが指摘すると「私は主の御声に聞き
従いました。」と言い張った。(Tサムエル15:20、28:21) しかし、さらに指摘されると、「私は
罪を犯しました。」と言ったが、イスラエルの民の前で自分の面目を立ててくれるようサムエル
に頼んだ。 何度も「私は罪を犯しました。私の罪を赦してください。(Tサムエル15:24-30)」
言ったとしても単なる反省に終わり、悔い改まっていない。
 
その後、サウル王は妬みからダビデを殺そうと追いかけていたとき、反対にダビデにサウルを
殺すチャンスが与えられた。 しかし、ダビデは「主が油注がれた者」すなわち「神が立てられ
た権威」の者を殺さなかった。 そのようなことが2回、聖書に記されている。(Tサムエル24
章、26章) サウルは自分の命が助けられたことを知ると声を上げて泣き、「あなたは私に良く
してくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。」と反省し、悔いた。 しかし、その後もまたダ
ビデの命をつけ狙った。 そして、また同じようなことがあり、ダビデに命を助けられると「私は
罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。・・・ほんとうに
私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」と悔い改めたとも思える言葉を言っ
た。 しかし、結局、ダビデの命を狙うことを止めなかった。 一時の反省はしたかもしれない
が、何も変わっていない。
 
イスカリオテのユダの場合。 イエスを銀貨三十枚で祭司長、長老たちに売った。 しかし、
エスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は
罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言ったが、祭司長、長老たちに「私たちの
知ったことか。自分で始末することだ。」と拒否され、自殺した。 ユダはおそらく、イエスと過ご
した日々のことを振り返ったのではないだろうか。 そして反省をし、悔いた。 しかし、自殺し
た。 自殺することで自分で自分を始末した。 イエスのところに行かず、救いを求めず、神の
前にへりくだらなかったからである。(マタイ27:3-5)
 
旧約のイスラエルの民の場合。 モーセに率いられ、エジプトから逃れた。 荒野で何度も何度
も繰り返し、神に背いた。 その度、神の裁きにあい、「私たちは、あなたに罪を犯しました。」
と言ったが、背きを繰り返した。 彼らは、神の裁きにあう度、荒野での自分たちの言動を振り
返って反省をした上での言葉であろう。 しかし、結局、同じことを繰り返し、多くのイスラエル
人たちが神の裁きによって死んでいった。(民数記)
 
ちなみに「反省」とは、国語辞書によると、「自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改
めて考えること。」「自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」であると書かれてい
る。 また「悔いる」とは、「自分のした行為について、まちがいや悪い点があったことに気づ
き、残念に思ったり反省したりする。後悔する」ことであると書かれている。 「悔い改める」は、
「過去のあやまちを反省して、心を入れかえる」ことであると書かれている。 ただ、聖書でいう
「悔い改める」とは、原語では「メタノイヤ」という字が使われており、それはもともとは方向転
換、向きを変えるという意味だという。 また「罪」は、新約聖書原語ギリシャ語では、「ハマ
ルティヤ」で、「的外れ」という意味である。 「罪を悔い改める」ということは、自分に向かって
いる方向は的が外れており、的を神の方向に変えるということである。 規準を自分から神に
変えるということである。
 
的を神の方向に変えるために我々がすべきことは、信仰の創始者であり、完成者であるイエ
スから目を離さないことである。(ヘブル12:2)  そして、振り返るなら、自分がどこから救わ
れたのか、自分はどのようなところに居たのかを覚えておくことである。 気をつけなければな
らないことは、うしろを振り返るとき、自分を過去に戻さない、古いところに戻さないことである。 
キリストと共に一緒に立っている位置から振り返るということである。 そうするならば、おのず
と主なる神への感謝が沸き起こり、高ぶるような自慢をすることがないであろう。 また人は、
キリスト抜きで振り返るとき、ともすれば、心が過去に戻って、そこでいろいろなストーリーを
想像して、現実の状況から逃避しようとする危険性がある。 また、悔やむばかりで相変わら
ず「自分」という的から脱出できないで、ますます自我や肉が強固になる可能性もある。 そ
のような振り返り方は決して、前進することができない。 
 
また、「反省」するにおいても、やはりキリストと共に一緒に立っている位置で、自分のしてきた
言動を思い出しながら、主に祈り尋ねつつ考えるのである。 そのようにしているなら、聖霊が
導いてくださるであろう。 聖霊の導きや主イエス・キリストの示しがなければ、心の奥に隠され
ている、気づいていない自分の思いや願望、思いを知ることができない。 知ったとしても、自
分の力では乗り越えることはできない。 真に変わることができない。 人にはそれぞれに応じ
ての限界がある。 しかし、限界を超えた方がイエス・キリストである。 人はキリストによって
本当に変われる。 
 
このように今年1年をキリストにあってキリストと共に振り返ってみたいものである。 そして、こ
こまで導いてくださった主に感謝し、主をほめたたえたいものである。 キリストにあって振り返
り、主に祈りつつ反省し、主に尋ねつつ考えて、この年を過ぎ越したいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 103: 2
   わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。



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