めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年12月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「信仰」と「霊が」成長し深みに入ることが大切>



★新約聖書  ヨハネによる福音書 12:44、45
       また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わし
   た方を信じるのです。  また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
 
★新約聖書  マタイによる福音書 5:8
       心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
 
「神の恵み」について。 人間の方から願い求めて、その願い求めに応えてくださったり、
様々な窮地から救われたり・・・などの「神の恵み」がある。 出どころは人間である。 しかし、
人間の側からではなく、一人一人に応じて、神の方から人に与えたいと望んでおられる「神の
恵み」がある。 出どころは神である。 だから、その「神の恵み」は、霊の深みでなければ受
け取ることができないものである。 この「神の恵み」は、「神のことば」として主が与えようとさ
れる者に、一人一人に応じた方法で与えられる。 主の方法で語られる。
 
神は、ご自身が人に与えられた(語られた)「ことば」を、その人が本当に受け取ろうとしている
のかどうかを試される。 その人が、真に主によりすがるなら、「神の試し」は、受け入れる人
の自我を砕き、肉(生まれながらの性質) を切り取ることになる。 すなわち、「神の試し」は、
清められ、整えられるための訓練となる。 そして、主なる神は、その訓練試練に耐える者に、
ご自身の「ことば」を正しい位置、すなわち霊の深みで受け取ること、握ることができるようにし
てくださる。
 
訓練試練の時を主に頼りながら、絶えず与えられている「ことば」に返るということを繰り返して
いると、霊の深みに入って行く。 それは、霊的なことを理解できるようになるということであり、
霊が強くなっていくことである。 霊の深みへと進んでいる人は、信仰も深みへと成長してい
く。  そのようになると外側から物事を見るのではなく、世の常識などに捉われることなく、何
事についても、「霊的な見方」すなわち、「キリストの見方」「神から見られた見方」ができる
ようになっていく。
 
そして、主の定められた時がきて、神の方から人に与えてくださった「ことば」が成就する。 完
了する。 その時、それは「神を見た」ことであり、「神を体験」「キリストを体験」したことである。 
この体験がその人の「信仰」「霊」を強くする。  たとえ、悪霊の風が吹いても全く倒されるこ
とはない。 それは、神の訓練試練に耐え、深みに変えられている人を、悪霊の惑わしや逸ら
しから主なる神が守ってくださるからだ。  
 
神から与えられた「ことば」の内容にもよるが、「神のことば」を心の浅いところで受け取った場
合、後にその人にとって「神の試し」が来たとき、「神のことば」を捨てて逃げ去ってしまったり、
「神のことば」を自分の解釈や考え、また世の基準に引き下げて、「神のことば」に反対して離
れてしまうことがあり得る。 イエスが公にキリストとして、この地上で「神のことば」を語られた
り、みわざを現わされておられたとき、群衆は「権威ある新しい教えだ」と驚き、奇跡やいやし
を体験したり目の当たりに見て、神をほめたたえた。 しかし、祭司長や律法学者たちに簡単
に扇動され、「十字架につけよ」とイエスを裏切った。 また、イエスが「わたしの肉を食べ、わ
たしの血を飲みなさい」と仰せられたとき、「そんなことをだれが聞いておられようか」と言い、
それまではイエスの弟子として従っていたが、イエスから離れて行った多くの弟子たちがいた。
(ヨハネ福6章)
 
人間は、アダムとエバ以来の罪を受け継いでいる。 キリストの十字架で流された血、いのちに
よって、主イエス・キリストを信じる者の罪は赦されるが、アダム以来の罪の性質は、人の心の
奥に根強く潜んでいる可能性がある。 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられ
なくなっている」と書かれている。(ローマ3:23) 罪が赦され救われても、人間には砕かれなけ
ればならない自我があり、切り取らなければならない肉がある。 人には「清め」「聖め」が必
要であり、主に仕えるために「聖別」「聖化」が必要である。
 
旧約時代に登場したヨブは、「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見
る。」と言った。(ヨブ記19:26) ヨブは、死後に、「神を見る」ことを確信した。 それだけでな
く、体と心の激しい苦しみの中で「神を見る」こと、「自分を救ってくださる方を見ること」を確信し
ている。 実際、そのことが実現した。 「今、この目であなたを見ました。(ヨブ42:5)」と書かれ
ている。 ただ、ヨブの肉眼で神の姿を見たというのではない。 ヨブは霊の目で「神を見た」
である。 同時に深い神の臨在の中に実際入ったのである。 それは、肉眼で見る以上にリア
ルであり、深いものである。 人を一瞬にして変えるものである。 
 
いずれ、一人一人の寿命の尽きる時が来たなら、その時、「神を見る」ことになろう。  そのと
き、肉眼の目で見るのではない。 肉は朽ちるものである。 だから、死を迎えてではなく、この
地上に生きているときに、「神を見る」ことが重要なことである。  死後「ことばは神である」、
ら、「ことば」の成就、完了は、「神を見る」ことである。 「わたしを見た者は、父を見たのです」
と仰せられた。(ヨハネ福14:9) すなわち、イエスがなさったこと、主が語られた「ことば」の実
際を見た者は、「キリストを見た」「父を見た」ということである。
 
「神を見る」「キリストを見る」ことについてイエスはトマスに言われた。 「あなたはわたしを見た
から信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ福20:29)」 イエスが十字架で死な
れた意味を悟っていなかった弟子たちが、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていた
ところの真ん中にイエスが来られ立たれた。 イエスがその手とわき腹を彼らに示されると
子たちは、主を見て喜んだ。 ところが、そのときトマスはいなかった。 後で、ほかの弟子たち
が彼に「私たちは主を見た。」と言ったが、トマスはイエスのよみがえりを信じなかった。 確か
に、当時の弟子たちは肉眼でよみがえりのイエスを見た。 まだ聖霊が下っていなかったから
だと思われる。 それから八日後、戸が閉じられていたところに集まっていた弟子たちのところ
に、再びイエスが来られた。 トマスも一緒にいたが、そのときに言われた「ことば」が、「あなた
はわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」である。 
 
トマスだけでなく、他の弟子たちもイエスのよみがえられた姿を肉眼で見るまで信じなかった。 
マグダラのマリヤがよみがえられた「イエスにお会いした」とペテロやヨハネ、ほかの弟子たち
に話しても信じようとしなかった。 この時の弟子たちには、まだ聖霊が下っていなかっただけ
ではなく、3年間主と共に過ごし、直接、学びや実地訓練を受けたが、まだまだ霊の深みへ入
りきれていなかったようである。 そのことをご存知の主があえて「あなたはわたしを見たから
信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われたのは、世の常識ともいえる肉眼で
見えるもの、すなわち人間の力、能力、理解できる範囲で見るのではなく、「肉眼で見えないも
の」、すなわち「霊の目で見えるもの」を信じること、「霊的な見方」の重要性を語っておられる
のではないだろうか。 「信仰」「霊」の成長と深みに入っていくことは、主に仕える者にとって
は必須である。 
 
弟子たちのイエスと共にいた3年間のいろいろな体験は、ペンテコステのとき、彼らに聖霊が
下ってから、彼らにとって霊の深みに入るため、大いに益となった。  彼らは、きよめられ、変
えられた。 それ以降も、ますます「信仰」「霊」も成長し、深みに入り続けたようである。 こ
のようにしてみると、聖霊を受けていない時の様々な体験さえ、真に主を信じた者にとって、聖
霊が下られた後、大いに主が益にしてくださるということである。 主は、そのような人の体験を
何一つ無駄になさらないということである。  主に心から感謝する。
 
いずれにしても、「主イエス・キリストを信じています」と宣言だけで終わるのではなく、主を信じ
ているなら、霊の深みに入っていくこと、信仰が成長することに取り組んでいくことが大切であ
ろう。 そして、神の方が望まれる「神の恵み」を受けて、明確に「キリストを見て」リアルな「神
の臨在」の中に入っていきたいものである。 今後、もっと巧妙かつ厳しい悪霊の風が吹いて
も倒れない者に変えられたいものである。 主もそのことを望んでおられる。 日々の生活の
中でキリストから目を離さず、絶えず祈って主が動いてくださるのを待ちたいものである。
 
★新約聖書  コリント人への手紙 第二 4:18
       私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時
   的であり、見えないものはいつまでも続くからです




めんどり聖書研究会