めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年12月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<地上の世界のことには霊の世界の出来事が関係している:ダニエル書から>



★旧約聖書 詩篇103:20-22
   主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇
   士たちよ。 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者た
   ちよ。主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わ
   がたましいよ。主をほめたたえよ。
 
●主イエス・キリストを救い主と信じて、キリストにつながり、祈ったり、聖書を読んだり、キリス
ト者(クリスチャン)との交わりをしたり、礼拝をしたり、・・・・などしていくうち、父なる神のあわ
れみの深さや主イエス・キリストの愛の深さを知っていくようになる。 そして主のみこころ」
を指導者やクリスチャン同志で教えあったり、祈りや聖書を読むうちに、聖霊の導きで悟り、
徐々に、少しずつ「主のみこころ」を基準にした生活を行なうことができるようになってくる。 そ
のような過程の中で、ますます、主を知りたい、主に従いたいと思い願う者を主なる神は喜ば
れ、「神の子」として、一人一人に応じて訓練をされる。 自我が砕かれ、肉が切り取られなが
ら、そうして、ますます「信仰」は鍛えられ、成長していく。 ただし、一般的にはこのような過程
を通るが、一人一人、その過程は微妙に違うものである。(肉の意味は生まれながらの主に従
うことのできない性質)  
 
さて、「信仰」が成長してくると、様々なかたちで「主のことば」を与えられることがある。 中に
は、「信仰」の成長に関係なく与えられる者もいる。 直接「主からの語りかけ」によって与えら
れたり、牧会者や人を通して与えられたり、聖書を読むうち、聖霊の導きと感動で与えられた
り、出来事、夢、ビジョン、霊的感覚で与えられたりと様々なかたちがある。 キリスト者(クリス
チャン)が、「主のことば」「主のみこころ」を、自分に与えてくださるようにと、へりくだって真剣
に祈り求めていたり、聖書を読んでいたりすると、その人にとっての「主の時」が来たら、与えて
くださることもある。 与えられた者は、日々の生活で絶えずその「主のことば」「主のみこころ」
に返りつつ歩んで行くが、その歩みの足が順調に進まない場合が結構、いや必ずと言ってい
いほどあるものだ。 「主のことば」があっても、現状がなかなか進展せず、時には「ことば」
正反対の状況に陥っているのではないかと思われる時がある。 「主のことば」のゆえ、試しな
ど苦しい訓練があるときには、尚更そのように思い、苦しみが倍増するような感覚に襲われる
こともある。 
 
しかし、それでも、主が黙って何もせずにおられるわけではない。 我々人間が目に見える現
状より、はるかに凄まじい光景が霊の世界では行われている。 地上で我々人間が目で見た
り、体験したりできるため、すなわち神の御業の実際が現われるために、まず、「霊の世界」
は、「主と主の軍勢」が戦っておられる。 その戦いが、あまりにも激しい場合、地上では、「主
のことば」が成就されるのに、阻止する悪しき力、度合いが強いと思われる。 それでも、「霊
の世界」での戦いの勝利は決まっている。 当然、「主と主の軍勢」である。 ならば、勝利が
わかっている戦いをなぜ、サタンや悪しき霊の軍勢は神の軍勢に対して挑むのか?
 
それは、少しでも「永遠の火の池」へ落ちる「その時」を延ばそうと必死なのかもしれない。 ど
んなことをしても、地獄への道連れを一人でも多く増やし、主なる神を苦しめようと企(たくら)み
実行していると思われる。(Tペテロ5:8) だから、「サタン」と呼ばれるのだろう。(サタンの原
語には「抵抗する者」または「反対する者」「神を訴える者」という意味があるという) しかし、
主なる神は、そのようなことさえ、ご自身の「神の子たち」を鍛えるために使われ、益にされる。 
前進するのを阻まれたり、悪しき霊からの攻撃を受けている者は、同時に、主からの忍耐力
が与えられて強くされ、その人の「信仰」「霊」が鍛えられて強くされている。 また、このよう
な経験をすることによって、その人の心の奥、霊が傷つく。 しかし、その傷つきがあるからこ
そ、本当の意味で人は砕かれる。 そして、真からの深い「主のあわれみ」「主の愛」を知る
ことになる。 この「傷」は、必ず、主がいやしてくださるものである。 ただ、このことに関して
も、一人一人に応じてのレベル、深さがある。 一人一人、導きはみな違う。 「働き」「賜物」
もみな違う。 だから、与えられる「主のことば」のレベルもみな違う。 
 
我々の「傷」は主イエス・キリストがいやしてくださる。 我々の主であり神であられるイエス・キ
リストは、十字架へ向われるときや十字架上だけでなく、この地上に来てくださったこと自体、
ある意味、砕かれ、傷つかれた。 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を
捨てることができないとは考えないで、自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じように
なられた」からである。(ピリピ2:6,7) イザヤ書53章5節「しかし、彼は、私たちのそむきの罪
のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもた
らし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書かれているが、主の傷は、十字架にか
けられる前、鞭打たれたときの傷や十字架上で釘を手と足に刺し通された傷、ローマ兵に槍で
わき腹を突き刺された傷だけでなく、人としての心、それも心の奥深く傷を受けられたと思われ
る。 イエスが、公にキリスト(油注がれた者、救い主)として歩まれたとき、不思議と奇蹟など
神のみわざを現わされ、力ある神の国の教えを語られ、弟子には奥義も知らされたが、「わた
しの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」という「ことば」で多くの弟子たちがイエスから離れ
去って行った。 そのとき、12弟子にも「あなたがたも去ろうとするのか。」と言わざるを得ないく
らい主の、人としての心は傷つかれたのではないだろうか。(ヨハネ福6:48-66) 主に心から
感謝し、主をほめたたえる。
 
さて、本来、キリスト教というならば、この見えない「霊の世界」のことを知っておくべきである。 
目に見えること、道徳的な教えなら、キリスト者でなくても、もっと上手く話せる人がこの地上に
は多くいる。 この地上だけの勝利や幸い、成功を謳(うた)うことを、「神の霊」に関係のない
方法を探すなら、巧みな方法が数多くあるかもしれない。 中にはクリスチャンであっても、そ
れらの方法を知って実行し大いに成果を出している人もいるかもしれない。 事実、いるだろ
う。 しかし、我々人間は、この地上のことだけで終わりではない。 むしろ、死後のこと、すな
わち「霊の世界」で過ごす方が長いのである。 これは、人が認める認めないは関係ない。 
クリスチャンであるないに関わらずすべての者が体験する「時」が来る。 
 
実際、目に見えない「霊の世界」があり、この「霊の世界」の動きが、地上の出来事に大いに関
係している。  そのことは旧約聖書ダニエル書を読むとわかる。 この地上の王国の滅亡が、
天上のこと、つまり「霊の世界での戦い」として語られている。 ダニエル書10章〜12章にかけ
て、「終わりの時代」について幻によっての預言が書かれている。 ひと言でいうなら「大きない
くさ」である。(ダニエル10:1) 黙示録「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたち
は、竜と戦った。(12:7)」と書かれているのと同じように、ダニエル書からも「神の軍勢」「サタ
ンの軍勢」との戦いがあることがわかる。 ダニエルは、部分的な断食をして三週間後、ヒデケ
ルという大きな川の岸にいた。 そこで、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めて
いたひとりの人を見た。 黙示録1章13節〜16節から見ると、この方は「イエス・キリスト」と思わ
れる。 10章に登場してくる天の存在者は、イエス・キリスト以外に御使いが登場する。 いず
れにしても、天の存在者が、ダニエルが断食をした初めの日から、ダニエルに真理の書に書
かれていることを知らせに来ようとしたが、「ペルシヤの君」が彼に向かって立っており、ミカエ
ルが彼を助けに来たので、ダニエルのところに来ることができたという。 それから、この方が
ダニエルに語り終えられると「ペルシヤの君」の後に「ギリシヤの君」がやって来る、と言われて
いる。 ここに書かれている「君」とは御使いのことである。 「ペルシヤの君」「ギリシヤの君」
は堕落した御使いのことである。 
 
いずれにしても、「霊の世界」では、「主と主の軍勢」が真にキリストに従おうとする者たち、「主
のことば」に返ろうと日々、歩みを進めている者たち、試練訓練に耐え忍んでいる者たち、・・・
など主が選ばれた者たちのために戦ってくださっておられる。 「人を救う」という最大の戦いに
おいては、すでに「主イエス・キリストの十字架の死と復活」によって完全なる勝利を得て下さっ
ている。 だから、人は、へりくだって主イエス・キリストを真に信じるならば救われる。 そし
て、救われた「神の子」たちに「主のことば」が与えられ、日々、「ことば」に返りながら歩んで
行くもサタンや悪しき霊が、「主と主のことば」から引き離そうと攻撃してくる。 「主のことば」
「主のみこころ」に返れば返るほど、祈れば祈るほど妨害の風圧は強くなるが、「主と主の軍
勢」「霊の世界」でその人のために戦って勝利してくださる。  
 
サタンや悪しき霊どもは、「霊の世界」「神の軍勢」に敗れると、主なる神が「主のことば」を実
際、成就されみわざを現わされる前に、何とかして主によりすがっている人を、主から引き離
そうと先回りして来る。 そして、あきらめずに最後の抵抗として、その人の弱いところを激しく
攻撃してくる。 それでも、サタン、悪しき霊の敗北は決まっている。 確かに、苦しくて与えら
れた「主のことば」を離しそうになったとしても、「信仰」を揺るがされそうになったとしても、それ
でも、主によりすがっているなら倒れることはない。 主が支えてくださるからだ。 真剣に「主
のことば」「主のみこころ」が成就することを祈り求めている者たちが、地上で神の御わざを見
る時は近づいている。 「霊の世界」では、勝利した「神の軍勢」が一糸乱れず整列し、主なる
神の「ゴーサイン」を待っている。 サタンや悪しき霊どもは妨害してきても限りがある。 神の
御わざが現われたとき、言葉では言い尽くせない喜びと感謝があるであろう。 そのことを信じ
て日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依
り頼むことをしていきたいものである。 主は生きておられる。
 
★新約聖書  エペソ人への手紙 6:11,12
   悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさ
   い。  私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主、力、この暗やみの世界の支配
     者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。


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