めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年10月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<古い皮袋にいたときの影響は結構強い>



★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:17
       だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
      て、見よ、すべてが新しくなりました。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 5:37-39
   また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。 そんなことをす
   れば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしま
   います。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。 また、だれでも古い
   ぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」
 
「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきである」、というこのたとえは、教会のメッセージ
でよく聞いたことがある。 今日では、ぶどう酒を濾過して酵母菌を取り除いて、発酵が止まっ
ている状態でガラス瓶や箱パックに入れているので、このたとえの意味がわかりづらいかもし
れないが、昔はぶどう酒を濾過せず、発酵してガスが出ている状態で、山羊とか羊の皮を縫い
合わせて作った袋に入れていたので、このたとえがわかりやすいかもしれない。 古い革袋
は、革が固くなっており、新しいぶどう酒から出てくるガスで皮袋の中が膨張しても伸縮ができ
ず張り裂けてしまう。 新しい皮袋は伸縮性があるので、張り裂けることはない。 だから新し
いぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきだといわれる。 古い皮袋には古いぶどう酒、新しい皮
袋には新しいぶどう酒というように、古いものと新しいものは併存できないということである。 
 
そして、「古い皮袋」それは当時のユダヤ教の教えや制度、組織であり、「古いぶどう酒」は、
旧約の律法学者、パリサイ人たちを支配していた霊のことである。 また、「新しい皮袋」とは、
イエスの教え、主が語られたことばであり、イエスの新しい働きである。 「新しいぶどう酒」
は、当時、ペンテコステの時、下った霊、聖霊である。(使徒2:1-3) イエスが来られたとき、旧
約の教会や集会、制度などが古くなり、「新しい皮袋」「新しいぶどう酒」とバトンタッチしなけ
ればならなくなったのだが、パリサイ人や律法学者たちは、古い物のほうが良いと考えた。 イ
エスがなさったいろいろな奇蹟や驚くべき神のみわざを見ても「この人は、ただ悪霊どものか
しらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。(マタイ12:24)」と、古いものに固執
し、古い物は良いとした。 まさしく皮が堅くなって伸縮を失った「古い皮袋」である。 
 
同様にペンテコステのときには新しかった霊も、約2千年経った今では、古くなってしまったよう
だ。  新しい皮袋も時間が経って、古い皮袋になってしまったと思われる。 インターネットが
発達して、今や世界の情報を知ることが可能になったので、ある程度現状を知ることができ
る。 それによると、2千年前から始まったキリスト教会は、多くの問題をかかえ、正しい霊、聖
霊が住むことができない教会が多くなってきたようだ。 
 
終末に入ったのか、それとももうすぐ入るのか、明確にはわからないが、確かに、イエスの時
代に起きたことが繰り返されると思われる。 我々が所属してきた教会が古くなったとは考えた
くないかもしれないが、聖書から見るならば、その可能性が大きいと言わざるを得ない。 もち
ろん、キリスト教会の中には、名も知れない教会であっても、すでに新しい皮袋のところがある
のかもしれない。 いずれにしても、「主の定めておられる時」が来たなら、主が振り分けをなさ
るであろう。 
 
どのような流れが来ようが、どのようなことがあろうが、イエスの時代のようなことがあったとし
ても、大切なことは、ひとり一人が、まことの神、永遠のいのちであられるイエス・キリストから
離れないことである。 しかし、自分は、決してキリストから離れないぞ!と固く決心していたと
しても、人とは弱い者である。 悪霊の風が吹くとすぐに流されてしまい、世が強いと世の方に
なびいて行ってしまう者である。 自由意志を持って、「どんなことがあろうとも決してキリストか
ら離れない!永遠の命と関係ない道へ進んで行くことなどない!」と固い決心をすることは必
要なことではあるが、人の内側に「古き」が残っている場合は、その決心が崩れ去ることになる
可能性の方が大きい。
 
例えば、イエスが公に「救い主キリスト」として歩んでおられたとき、キリストの弟子となった者た
ちが皆、最期(最後)まで主イエス・キリストに従って行ったわけではない。 主は、群集には、
すべてたとえで言われ、彼らは、神の国の奥義を知らされることがなかった。 しかし、弟子に
神の国の奥義を知ることが許されていた。(マタイ13:11) それでも、主イエスが、「わたしの
肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させ
る。」「 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」と言われると、
「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と これらの新しい皮袋
教えを受け入れようとしなかった。 キリストの弟子になった多くの者たちがである。 
 
彼らはユダヤ人で、主イエスを信じてキリストの弟子になる前は、ユダヤ教の会堂に属してい
た者たちであった。 彼らは、そこから出てきてキリストの弟子となったのであるが、キリストか
ら離れ去った原因の一つに、ユダヤ教を支配していた霊の影響があると思われる。 古い皮
古いぶどう酒も最初は新しかった。 しかし、当時では、すでに古くなり、イエスに対し、
霊のかしらベルゼブルと非難するくらい古くなっていた。 それほど当時のユダヤ教を支配して
いた霊は変質していたと思われる。 同様に、今日、支配している霊が聖霊ではないキリスト
教会があることは事実である。 残念ながら今後、増えてくる可能性があると思われる。 
 
当時、キリストから離れ去った弟子たちは、彼らが属していたユダヤ教の会堂を支配していた
霊の影響を受けていたと思われる。 その霊は、彼らの内の砕かれていない自我や切り取ら
れていない肉(生まれながらの性質)に働きかけていたと思われる。 覚えておかなければなら
ないことは、悪しき霊が働けば、人などすぐに悪しき霊の思う壺になるということである。 それ
ほど悪しき霊は強い。 言うなれば、我々の内に「古き」を残しておいてはならないということで
ある。 特に、救われる前の「古き」というより、キリストを受け入れてからの「古い皮袋」「古い
ぶどう酒」、すなわち「古き」がしみ込んでいるときは厄介である。 
 
「古い皮袋」「古いぶどう酒」がしみ込むとは、古い霊、すなわち聖霊ではない違う霊に支配さ
れていた教会、集会に属していたときに、そこで教えられたことに、その霊が介入して、心の奥
深くに染み込むということである。 そして、そのことは、その後の信仰生活に支障をもたらせ
る。 多くは、苦しみをもたらせ、キリストから引き離そうとする。 時には、あまりにも所属して
いた団体や団体の指導者が違う霊に強く支配されている場合は、その団体と団体の指導者と
の関わりの深さによっては、「古き」がなかなか取り除かれなくて尋常ではない苦しいみを伴う
者もいる。 しかし、「主と主のことば」に真によりすがり、主が選ばれている者は、必ず、主が
その「古き」を取り除いてくださり、影響を及ぼしていた「古い霊」からも解放してくださる。 ま
古き」に影響されていたことさえ、大いに益にしてくださる。 その後の主のための働きに
も用いてくださる。 表面的な度合いではなく、深みから、実際に新しく造られた者になったこと
を体験する。 ただ、教会や集会などの指導者は、自分自身のことを吟味に吟味を重ねる必
要があるとつくづく思う。 
 
いずれにしても「古い皮袋」「古いぶどう酒」すなわち「古き」の終わり方は人によって様々で
あるが、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ
去って、見よ、すべてが新しくなりました。」のみことばが、思い込みや程度の浅い次元で終わ
らせることがないようにしたいものである。 キリストは実際の方、生きておられる方だからであ
る。 とにかく、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、
自分の内に「古きもの」がないかどうかを探っていただき、ますますキリストとの交わりを深くし
ていき、新しい聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいものである。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 13:5
   あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。・・・
 
 



めんどり聖書研究会