めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年8月11日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「心の貧しい者は幸いです」についての思考>



★旧約聖書 詩篇 10:12
   主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れない
   でください。
 
★旧約聖書 詩篇 34: 2
   私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
 
★新約聖書  ヨハネによる福音書 15:5
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。
  
マタイによる福音書5章9節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだ
から。」ルカによる福音書6章20節「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだか
ら。」という「主のことば」は有名である。 マタイは山上で語られ、ルカは平地で語られたという
違いはあるが、どちらも主がいわんとされている本質は変わらない。 
 
「貧しい者」は、ギリシャ語では「プトーコス」といい、「うずくまる、ちぢこまる」という意味があり、
自分の力では立ち上がれないほどに完全に打ちのめされた状態をあらわすという。 自分の
無力を徹底的に知り、ひたすら神に目を注ぐ状態、すなわち神により頼む姿を示しているとい
う。 世間一般のイメージ、心が狭い、情け知らずなどとは意味が違う。 経済的な貧しさだけ
でもない。 また、ヘブライ語まで遡(さかのぼ)ると、「貧しい者」とは、神により頼まざるをえな
い人たち、すなわち「神に対して謙虚な」「敬虔な」という意味だという。 マタイで書かれている
「心の」は、原語では「霊において」と書かれているという。 「霊において貧しい者」というのは、
「その人の霊において(神の前に)、内面的にへりくだる者」という意味があり、神とのかかわり
を示しているという。 我々人は、肉眼で神を見ることはできないし、この肉で神との交わり
持つことはできない。 神とのかかわり、すなわち主なる神との交わりは我々キリストを信じた
者の生かされた「霊」によってできる。 
 
以上から、この箇所から学び取れることは、自分のうちには、善が住んでいない、神の前に無
力な者であると、心に苦痛を感じ、思い悩んでつぶれそうになっている者は、幸いであるという
ことだ。(ローマ7:18) なぜなら、そういう者は、神により頼まざるを得ないからである。 自分
の中には、もう何もないと知った者は、ただ神により頼む以外にないからである。 天の御国
は、そのような物乞いのように神にすがる者たちのものであるからだ。 
 
しかし、人は自分が「心の貧しい者」であることに気づいていない場合が、案外多いかもしれな
い。 最初、主イエス・キリストを信じたとき、自分は罪人であり、弱い者だと思うこと、聖書的に
言うなら「心の貧しい者」と気づかされたからこそ、主の前にへりくだり、主のところに来ること
ができたのである。 もちろん、そこには聖霊の導きがあったという事実が前提にはある。 そ
して、神とのかかわりを持つことができるようになった。 それから、@聖書を読むこと、A祈る
こと、B集会に出席すること(礼拝や交わりを含む)などをしていくうちに、聖書の知識が身に
ついたり、信仰生活(@〜B他)に慣れてくるうちに、自分は弱い者である、自分では何もでき
ない、自分は愚かな者である、と口では言いながら、結構、自分の考え、自分の思い通りに行
動していることがある。 それは、決して弱いのではなく、むしろ自分を押し通せる強さがあり、
何もできないのではなく、自分の思いを遂げる力があり、愚かだと謙遜しながら、賢く高ぶって
いることが多い。 いつの間にか「心の貧しい者」であることを忘れてしまったかのようである。 
 
しかし、「心の貧しい者」とは、「霊において貧しい者」ということであり、「主なる神との交わり」
「主なる神とのかかわり」に関することが、どうであるかということが重要である。 本来、人が
救われたなら、すなわち人の霊が生かされ、神の御霊が宿ったならば、聖霊によってキリスト
のからだに組み込まれる(Tコリント3:16) キリスト者(クリスチャン)は、かしらであるキリス
トとの交わり、つながりが最優先ではあるが、他のキリストを信じる者たちとのかかわりも必要
である。 主イエスは「わたしの教会を建てる(マタイ16:18)」と言われ、パウロは、「教会はキ
リストのからだである(エペソ1:23)」「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは
各器官なのです。(Tコリント12:27)」と言った。 教会とは、ギリシャ語のエクレシア(召し出
された者たち、集会、集合)という意味であり、主が建て上げようとされている教会は、キリスト
の見えない体の中に入れられて、神から見られたら一つとなっている教会である。
 
キリスト者(クリスチャン)ひとりひとりは、そのキリストのからだのいろいろな器官であり、それ
ぞれには賜物や働きがあり、それぞれ異なる働きをする。(ローマ12:4,5) 手が手の働き、足
が足の働きをするときが、一番活き活きした働きができるだろう。 そして、どのような器官も
一つのからだに必要なものであり、欠けてはならないものである。 また、一つの器官は、その
器官に応じての主からの訓練によって成長していくことにより、更に活き活きした働きができる
ようになる。 活き活きした働きができるようになるまでの訓練の期間は、絶えず主なる神によ
り頼まなければならない状態になる。 そのような時が「心の貧しい者」である。 そうして、主
から与えられた働きを活き活きすることができるようになる。 そのとき、主をほめたたえること
であろう。 
 
主は、器官によっては、更に訓練、試練を課す。 そうすると、また「心の貧しい者」であること
が更に深く自覚される。 主なる神キリストとの交わりを持たざるを得ない心境になる。 それ
まで主の働きができて活き活きしていたはずなのに、もっと深いところからの霊の飢え渇きに
似た苦しみ、思い悩みが襲ってくることもある。 ますます神により頼む以外に何もできなくな
る。 そのときには、「心の貧しい者」であることを更に更に深く自覚して、「霊において貧しい
者」という本来の意味である「その人の霊において(神の前に)、内面的にへりくだる者」とし
て、神により頼むことを続けていくことだ。 キリストのひとつの体の中に組み込まれた一つ一
つの器官は、「主との交わり」「主とのかかわり」ということでの「心の貧しい者」「霊において貧
しい者」として、謙遜を身に着け、主の前にへりくだりを続け、主に仕えていく者として、主なる
神から選びだされ、召されているのである。
 
ダビデの場合。 ダビデは神から預言者サムエルを通してひそかに油を注がれて「王」と召さ
れていたが、実際、「王」としての働きをするようになったのは、公に「即位」してからだった。 
サウル王が死んで後、7年6ヶ月後、30歳のときにはじめてイスラエル全体の王となった。(U
サムエル5章) 油注がれてから約10年間は、神の訓練の期間だった。 サウル王に命を狙わ
れ、流浪の旅を強いられ、数々の苦難に遭遇した。 これらの辛苦の経験を通してダビデの人
格は磨かれ、鍛えられ、王としてふさわしく変えられていった。 ダビデは、常に「心貧しい者」
「霊において貧しい者」であった。 神の御前にへりくだり続け、神によりすがり続けた。 公に
「王」として即位してから更に様々な難題が迫ってくるなど、ダビデへの訓練は終わっていな
かった。 しかし、更にダビデは深く「心貧しい者」「霊において貧しい者」であることを自覚し
て、神の前にへりくだり続けた。 詩篇の多くはダビデが作者であるが、ダビデが、「心貧しい
者」「霊において貧しい者」であった記録とも言えよう。
 
いずれにしても、我々も神の御前において、常に、「心貧しい者」「霊において貧しい者」である
ことを自覚し続け、常に、主キリストにつながり続ける歩みをしていきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 12:4,5
   一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じよう
   に、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官
   なのです。
 
★旧約聖書 イザヤ書 45:9
   ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形
   造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと
   言うであろうか。


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