めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年4月21日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<自分自身の整えと家族、家、99%の未信者の救いを同時進行で取り組む>



★新約聖書 マタイによる福音書 24:14 
   
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終
   わりの日が来ます。

★新約聖書   使徒行伝 16:31
   「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
 
●日本のクリスチャン人口は、1873年(明治6年)にキリスト教が解禁されてから、明治末は内
村鑑三や新渡戸稲造、植村正久など聖書を基準にした熱心な信仰の伝道活動で一時、増え
たようだが、その後、若干の変動はあれど、約1%にも満たないと言われている。 これは、プ
ロテスタントの諸教派、カトリック教会、ロシア正教なども含めた数字である。 約3年ほど前、
アメリカのギャラップ社の世論調査では、若者層が増えて、日本のクリスチャン人口は約6%に
なったと発表されたという。 しかし、このクリスチャン人口の中には、時々、教会に行く人々、
クリスチャンであっても他の宗教にも関わり、時には依存している人々、要は名前だけ「クリス
チャン」や「自称クリスチャン」という人々なども含まれての数字であるという。 真に主イエス・
キリストを信じ、主を愛し、主に従おうとしている「クリスチャン」は少ないと思われる。  また、
「クリスチャン」という言い方は、1955年の口語訳聖書の訳語の中に「クリスチャン」があったこ
とや、アメリカからの宣教師たちの「クリスチャン」という自称によって広められたということを聞
いたことがある。 「キリスト者」という言い方は、それ以前から使われていたという。 日本で
は、「クリスチャン」という呼び名は、世間一般人が描いている様々なイメージの先入観が強く、
年老いた方々の多くは「アメリカの宗教の人」というイメージが強いようである。   
 
さて以前から、日本で何故キリスト者が増えないのか、いろいろ検討されてきた。  江戸時代
の檀家制度やキリスト教弾圧、日本人の国民性の中にある多神教的傾向からくる一神教への
違和感、地理的環境から宗教が国を支配するほど強力にならなかったこと、・・・などなど様々
ある。 その中でも、檀家制度や氏子制度は、地方の共同体である自治会に今でも組み込まれ
ているところが多い。 地方でもいなかへ行けば行くほど、キリスト教を拒否する傾向にあるか
もしれない。 いなかでは、親睦を深めて、助け合い、支えあうという目的で隣近所みな自治会
なり何かの地域共同体に加入している場合が多い。 だからどうしても、そのような中で生きて
いくためには、合わせなければならないことが多々ある。 良いことも多いが問題もある。
 
自治会は、地域文化、風俗として氏神さんを町内会で人や資金を援助して関与しているので
あって、何も宗教にこだわっていない、という考えが行き渡っているように思われる。 だから
会費の中に寺と神社に関する諸経費が組み込まれている場合がほとんどのようである。 キリ
スト者であっても、それを拒否するのは結構、厳しいものがあるのも事実であろう。 自治会は
行政機関ではないが、公共性が強く、そういう意味でも拒めないことが多いようである。
 
さて、こうしてみると日本には約99%もの人々が真の神、主イエス・キリストとつながっていない
ということである。 主が望まれる「キリスト者(クリスチャン)」とは、ひと言で言うなら「主イエス・
キリストを信じ、信頼し、自分の十字架を負って、主の定められた道を、主に最期までついて行
く者」である。 それが、「信仰を全うする」ということである。 しかし、主イエス・キリストを信じ
た者すべてが、そうであるとは限らない。 主の望まれる信仰を全うするためには、真の悔い
改めが必要であり、霊的な成長が必須である。 そのためには、一人一人が明確に「キリスト」
につながり続けることが重要である。 キリストにつながっているなら、聖霊が真の「悔い改め」
へと導いてくださり、霊的な成長のために、自我を砕き、肉を切り取るためにいろいろな訓練、
試練をそれぞれに応じて、御手の中で通らせてくださるであろう。 
 
最初、主イエス・キリストを受け入れたとき、「自分の罪」を認め悔い改めるが、案外、自分の
罪の深さをわかっていない人が多い。 著者もその中の一人であった。 ただ、単純に「イエス
は自分の罪の身代わりで十字架に掛かられ死なれたが、3日目によみがえられて今も生きて
おられる」ことを信じた。 著者が、心底から自分の罪の深さを知って、悔い改めたのは、もっ
と後だった。 主を信じた者たちは、伝道集会や教会などで救われた経緯「証し」を語ることが
ある。 しかし、「証し」を語っていた者であっても、その後、キリストから離れて行った人も多
い。 また、長年、教会に通ったり、キリスト者(クリスチャン)と自称していても霊的な成長が見
られず、未熟児状態で、祝福と恵みだけを求める者、祈りがいつまで経ってもご利益信仰的な
者、聖書の知識だけ豊富になって自力でみことばを行ない、主に従っていると勘違いする
者、・・・なども多い。 とても救われていない家族や身近な人たちを主のところに連れてくること
はできない。
 
今の世を聖書から見るなら、すでに終末に入ったと言っても過言ではないかもしれない。 確
かにパウロのときから西回りに廻った福音は、今や東の方、アジアに来ている。(使徒16:6-1
0) すでにみわざは始まって進んでいる情報を聞く。 韓国では人口の4分の1がクリスチャン
(キリスト者)であるといい、共産国中国でさえ、その数は増えていっているという。 終末に
入ったからこそ、主である神は、イスラエルから見れば、東の国である日本に目を留めておら
れるのではないだろうか。(黙示録7:2-5、16:12、5:5、イザヤ書24:15) 主である神は、日本
に対して、あわれみ深いご計画を立ててくださっていると思われる。(ゼカリヤ書8:1-8)
 
今こそ、先に救われたキリストに従おうとしているキリスト者たちがすべきことは、自分自身が
しっかりとキリストにつながり、砕かれながら、清められながら、自分自身の足元を固めていく
ことではないだろうか。 足元を固めていくということは、自分自身がしっかりとキリストにつな
がっているかどうか、つながっていると思い込んでいないかどうかを吟味することである。 ま
た、自分の家族、家の救いに目を留めていくことである。(めんどり通信/2013年2月17日<初
穂:(先に救われた者の主に対する心と態度)>参照) また、家族や家がクリスチャンホーム
である者も、家族、家の一人一人がキリストとしっかりつながっているかを主に尋ね祈って吟味
していくことも大切なことであろう。 主なる神は、個人だけでなく、家族、家単位でもみられて
いるからだ。 そして、主が導かれるまま、身近な人たち、その地域の人たちなどが主のもとに
来ることができるように、主からの働きのアプローチがあるなら従っていくべきであろう。 自分
自身のことと家族、家のこと、また、そのほかの人々のことは、ある意味、同時進行で取り組ん
でいくべきであろう。
 
なお、伝道した場合、正しく主の「恵みの福音」を伝えたとしても、聞く側から、「恵みの福音」の
ことばの反応より、「キリストを信じたら、祭りに参加してはいけないのでしょ?! 初詣に行っ
ては行けないでしょ?! 仏壇を拝んではいけないのでしょ?!」という言葉が返ってくることも
多い。 「・・・してはいけない。 ・・・しなければならない」などと、「恵みのことば」を律法的に捕
らえられることも多々あることだ。  著者だけでなく、伝道することに導かれた多くのキリスト
者が、こういう場面を体験しているのではないだろうか。 「キリスト教に入ったら、神社仏閣へ
は行ってはならない、参加してはならない。仏壇をおがんではならない。・・・・」などという「・・し
てはならない、ならない」ということばが、「恵みのことば」をかき消してしまう。 
 
確かに、聖書のことばをことば通り伝えたとき、例えば「あなたには、わたしのほかに、ほかの
神々があってはならない。・・偶像を造ってはならない。・・それらを拝んではならない。(出20:3-
6)」「偶像礼拝を避けなさい。(Tコリント10:14)」と書かれている。 しかし、主を信じ受け入れ
たときは、まだ乳児である。 すぐに、みことばを行ない、みことばに従うことは、なかなかでき
るものではない。 みことばという乳を飲みながら、様々な体験を通り、成長していくものであ
る。 中には、いきなり信仰に固く立つことができる人もいるが、大部分は、その人に応じて
徐々にである。 それも一人一人、過程は違う。 そのことを しかと踏まえておくことも大切な
ことだと思われる。 「救い」は「神のもの」。 「神からの恵みとあわれみ」である。 自分自身も、
家族も、親族も知人も、結局、「主とわたし」「キリストとわたし」の関係がしっかりしておくことが
重要である。
 
いずれにしても、今、 未信者と呼ばれる99%の人たちの多くが、ぶどう酒(聖霊)を飲むように
なることを期待する。 つまり日本にもキリスト者(クリスチャン)が増える日が来るようにとます
ます祈っていきたいものである。 また、自分自身も整えられていくために、日々、主なる神に
祈り、聖霊に触れられ助けられて、主のみことばに従っていきたいものである。

★ 旧約聖書 エゼキエル書 43:2
   すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのよう
   であって、地はその栄光で輝いた。


★旧約聖書 イザヤ書 24:15
  それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。 
 
 
 

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