めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年4月7日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主が語られた「ことば」は、ご自身が責任を持たれて成就される:サムソンから学ぶ



★旧約聖書 イザヤ書 46:10
   わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの
    はかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
 
★旧約聖書 詩篇 33:11
   主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。
 
約束の地カナンを占領し、ヨシュアの死後からイスラエルに王が誕生するまでの間、12人の
士師(さばきつかさ)が登場する。 この時代は、霊的にも暗黒の時代だった。 士師の時代の
混沌の原因は、神のことば「異邦のカナンの先住民のすべてを聖絶すること、先住民族と何の
契約も結んではならないこと(申命記7:1-6)」に従わず、「めいめいが自分の目に正しいと見
えることを行なっていた」からである。(士師記17:6、21:25) 
 
さて、士師時代の最後の士師として、サムソンが立てられた。 サムソンの場合、母の胎内に
いるときから死ぬ日まで、神へのナジル人として主に召されていた。 ナジル人とは、「神にささ
げられた者」「聖別された者」という意味であり、自分を一定の期間、神にささげ、その期間は、
ぶどう酒や強い酒を飲んではいけない。 ぶどうの木からできる物はいっさい食べてはならな
い。 かみそりを頭にあてない。(髪の毛を切ってはならないということ) 死体に近づかない。 
汚れた食物を食べてはならない。 以上のことがナジル人の規定である。(民数記6章)
 
サムソンの母は、不妊だったが、 主の使いの「男の子を産む」「イスラエルをペリシテ人の手
から救い始めるということばを素直に信じ、夫マノアにそのことを告げた。 マノアも素直に妻
から聞いた主の使いの「ことば」を信じ、「私たちが、生まれて来る子に、何をすればよいか、
教えてください。」と主にへりくだって願った。 このような両親にサムソンは育てられた。 しか
し、一見、サムソンの言動を見ると、そのような両親に育てられたとは思えない、むしろ自由奔
放に生きているように見受けられる。 そのようなサムソンに、要所要所において「主の霊が激
しく下った」ことが、士師記に記されている。
 
サムソンが成長し、主が祝福され、ツォルアとエシュタオルの間にあるマハネ・ダンにいたと
き、主の霊が彼を奮い立たせ始めた。(士師13:25) その後、サムソンが見初め、結婚を望ん
だのは、モーセの律法では禁止されていた異民族のペリシテ人の女だったが、両親の反対を
押し切り、彼女を迎えに両親と共に行った。 彼女がいるティムナに向かう途中に来たぶどう
畑では、両親から離れてサムソン一人、わき道に入って行った。 ぶどうの実を食べようと思っ
たのかもしれないが、それは、ジル人の規約に反することであった。 そのとき、彼に向かっ
て若い獅子が突進してきたが、「主の霊が激しく彼の上に下っ」てきたので、彼は素手で獅子
を引き裂いた。士師14:6) そのことを両親には言わなかったという。
 
また、サムソンが、彼女をめとろうと引き返して来たとき、引き裂いた獅子の死体を見ようと、
わき道にはいって行くと、獅子のからだの中に、蜜蜂の群れと蜜があったので手にかき集め
食べた。 両親にも与えたが、その出所のことは彼らには言わなかった。 このときも、サムソ
ンは、ナジル人の規定を破っている。 サムソンは、そのペリシテの女との祝宴の席で、獅子
から蜜が出たことをぞかけにしたが、妻に裏切られ、サムソンがそのかけに負けた。 する
と、かけた品物を得るために、ペリシテ人がいるアシュケロンに下って行って、そこの住民三十
人を打ち殺し、彼らからはぎ取ったという。 アシュケロンに下って行く前に「主の霊が激しく
下った」と書かれている。士師14:19) そして、また妻が他の人の妻になっていたことを知り、
怒り狂ってペリシテ人を殺した。 イスラエルはペリシテの支配下にあったが、別段ユダの人々
は彼らとの共存に不服を訴えていなかったので、彼らを怒らせるようなことはしないでくれ、と綱
で彼を縛り、ペリシテ人に引き渡した。何度か報復行為が繰り返された後、サムソンは初めて
ひどく渇きを覚え、主に呼び求めた。 
 
その後も再び、ペリシテ人が住む地域ガザへ行き、遊女のところに入ったりしたが、相変わら
ず尋常でない怪力で、ペリシテ人たちはサムソンを捕らえることができないでいた。 ソレクの
谷にいる女デリラとの出会いでサムソンの最期を迎えることになった。 その怪力の秘密を知
ろうと、ペリシテの領主たちがデリラを買収した。 力の源である髪の毛がそり落とされ、「髪の
毛がそり落とされたら、力は去り、弱くなり、普通の人のようになる」という誓約通りになり、あっ
さりとペリシテ人に捕らえられ、目はえぐり出され、青銅の足かせをかけられ、牢の中で臼をひ
かされた。 
 
やがて、サムソンの髪の毛が伸び始めた頃と、ペリシテ人の領主たちが、自分たちの神ダゴ
ンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、サムソンを見世物にしようとしたときが、同じ
時であった。 捕らえられて、この日までがサムソンにとって悔い改めのときとなったと思われ
る。 サムソンは「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時
でも、私を強めてください。」と主に祈った。 その祈りは主に聞かれて、サムソンに怪力が戻っ
てきて、神殿を支えている2本の中柱を力をこめて引いたことで、神殿が崩れ、神殿内にいた
ペリシテの領主たちや民、屋上にいたペリシテ人約3千人が犠牲となった。 サムソンが死ぬと
きに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。 
 
サムソンの一連の言動を見ると、ナジル人としては、はるかに逸脱している。 むしろ無謀とも
思える生涯である。 しかし、その背後には神のご計画があることが伺える。 すべてをご存知
の主が、母の胎内にいるときから死ぬ日まで、神へのナジル人として主が召しておられたこ
と。 異民族の女を妻にほしいという願いさえ、主によることだったこと。 ナジル人の規定に反
していると思われる出来事のときに、「主の霊」がサムソンに下り、勝利を与えられたこと、・・
などである。 そうしてサムソンはイスラエルをペリシテ人の手から救う先駆者となった。 ちな
みに、聖書の中には重要な役割を担っている結婚が異民族とされたことがある。 ヨセフはエ
ジプトの祭司の娘と結婚し、後に12部族となるマナセとエフライムが生まれた。 異邦の民モア
ブ人ルツはユダヤ人ボアズと結婚し、その子孫からイエス・キリストが誕生した。
 
さて、このサムソンの生涯からは様々なことを学ぶことができる。 神とのかかわりを最優先す
るのでなければ、人は神から離れてしまう恐れがあること。 神とのかかわりとは「神である主
との交わり」であり、形式的なものではなく、「生きた交わり」を最優先することが大切であるこ
と。 神は、肉が切り取られていない わがまま、自由奔放な者を用いてでも、ご自身のご計画
を成就される方であること。 しかし、神が選ばれた者をそのままにはしておかない、すなわち
砕くときがあるということ、などである。 
 
その中で最も大事なことの一つは、主である神が一旦、語られた「ことば」は、ご自身が責任を
持たれ、ご自身の方法で成就される、ということである。 その方法が、たとえ人から見て、理
不尽なこと、非合理なこと、無茶なことであっても、神が「良し」とされたなら、それでいいという
ことである。 表面的なことだけを見ず、それらの理不尽、非合理、無茶なことの奥にも隠され
た主のみこころがあるということである。 そして、そのみこころを知ろうと主に尋ね求める、主
に呼び求めることが重要であると思われる。 サムソンは最期になって、主のみこころ「イスラ
エルをペリシテ人の手から救う」ことに霊の目が開かれ、悟ったのではないだろうか。  自由
奔放で無茶なナジル人が、最期は本当のナジル人として整えられ死んでいった。 「終わり良
ければ全て良し」である。 クリスチャンの人生も似たところがある。 終わり、すなわち「天の
御国へ入れるならば良し」である。 そのためには、サムエルの生涯からもわかるように、真の
悔い改め、真の砕かれは必須であるようだ。 
 
とにかく、主のみこころを知って、主イエス・キリストから離れないようにしたいものである。 
日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分を置き、主の御前にへ
りくだってキリストの真実に預かれるよう、また主に依り頼むことをしていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 34:18
   主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。




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