めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年3月24日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主に愛され、主を愛する」ことを固い土台にとして二者択一を選択する>



★旧約聖書 申命記 30:15、16
   見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。 私が、きょ
   う、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るよ
   うに命じるからである。
 
★旧約聖書 申命記 30:19、20
   私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
   のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
   イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そ
   うすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人ととも
   に住みます。
 
申命記に書かれているモーセの遺言とも言えるメッセージは、モーセと共に出エジプトしたと
き、子どもであったか、荒野で生まれた者たちなど第二世代に対して語られた。 荒野の40年
の間に世代は交代した。 第一世代は、ヨシュアとカレブを除いて他はみな、不信仰と不従順
のため約束の地に入ることを許されなかった。 それで モーセは、いざ約束の地カナンに入
るというとき、第一世代とホレブで結ばれた神の契約を、再度語った。 ただモーセは、第一世
代に語ったのと同じ口調で語っている箇所が多い。 主なる神と神の民との関係は、たとえ第
一世代の者であっても、間に入れて考えてはならないということであろう。 主との契約は
「きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。(申命記5:3)」とモーセが
言うように、常に、「主と私」という関係である。 これは今日の我々も同様である。 最も、重要
でかつ、しっかりしておかなければならない関係は、「主と私」「キリストと私」の関係である。 
また、神のことばである「聖書」は、今日、生きている我々一人一人に語られていると受け取
り、「聖書」を読むときは、主のみこころを教えていただこうとして読む姿勢が重要である。 
 
さて、モーセは、「きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く」、「私があなたの前に置いた
祝福とのろい」(申命記11:26、30:19、30:1)と言った。 申命記には、「いのちか死か」「祝福
かのろいか」「幸いか災いか」など、「二者択一」を迫られることばが書かれている。 この「二
者択一」のことばは、イエスも言われた。 「いのちに至る道か滅びに至る道か」「神の国か地
獄か(マルコ9章)」などである。 申命記では、主なる神によって救われた者たち、すなわち主
に選ばれた者たちが、各々の自由意志をもって、「祝福かのろいか」「いのちか死か」「主への
服従か反抗か」などの「二者択一」することを迫っている。 ただ、神は我々が「祝福」「いのち」
「主への服従」を選択することを望まれている。 それは、神は、ひとりも滅びることがなく、す
べての者が悔い改めること、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる
からである(Uペテロ3:9、Tテモテ2:4)
 
「二者択一」は、人生の岐路に立ったときや何か問題があったときだけでなく、日常生活の中
での些細なことで、意識するしないに関わらず、「二者択一」の選択をしていることが多い。 
「どちらかわからない」「中間である」「どちらも選択をしない」ということも、実はすでに選択をし
ていることになるかもしれない。 「二者択一」は、聖書に限らないということである。 
 
しかし、聖書の主張している「二者択一」に関して、結構、つまずく人も多い。 こんなことを耳
にしたことがある。 キリスト教を信じ、キリスト教会に熱心に通い、主のために熱心に働いて
いた過去の経験を未熟で誤った生き方だったと教会を離れるだけでなく、主イエス・キリストか
ら離れた人もいる。 中には、教会を出た後しばらくの間は、聖書を読んだり、傷ついた心を労
わるように、別のキリスト教会へ行ってみたりとするが、それも続かない。 キリスト教やキリス
ト教会から受けた傷が結構、深く、心の奥には失望感や空虚感があったようである。 それを
他のキリスト教会でも埋めることができず、結局、幸福の科学やら神智学やら・・と渡り歩くよう
になった人もいる。 その人の人生からキリストは消えてしまった。 
 
また、ある人は、やはりキリスト教会で主に仕えることに熱心で、牧師の指導を受けて開拓伝
道をするために心は燃えていたという。 まじめなクリスチャンだったようだ。 しかし、何が
あったのかはわからないが、故郷に帰ることになり、そのキリスト教会を離れていった。 その
キリスト教会を離れて故郷に帰ると、主のために仕える意欲が失せたという。 
 
他、ある人は、キリスト教を信じている人たちは、信仰を持たない人、自分たちと同じ考え(聖
書のみことば)を持たない、受け入れていない人たちに対して、彼らはみな滅びの中にある哀
れな罪人であると、ともすれば見下げて、信仰を押し付けようとする。 自分も教会で熱心に
主に仕えてきたが、結局、キリスト教は排他的であり、一旦、キリスト教信仰を持つと、聖書は
常に、「二者択一」を迫られる。 キリスト教以外の世界は罪に支配された暗黒であるから救
われなくてはならないというのは押し付けであり、自分は人々に信仰を押し付けてきたと思う
が、そのような過去を恥じる、ということも聞いたことがある。 
 
以上の人たちは、本当に真面目で熱心なクリスチャンだったようである。 それなのに結果的
に出エジプトしたイスラエル人たちと同じように「いのち」の道を歩めなかった。 戻ってくるとよ
いのだが・・。 著者の場合も上記の方々と似た体験をした。 単立のキリスト教会に所属し、
主に救われて、牧師の指導のもと、熱心に伝道に励んだ。 主は、多くの人に引き合わせてく
ださり、多くの救われる人を起こしてくださった。 牧師になるための指導、学びをその教会で
牧師から受け始めた頃、何かしら心の奥に疑問を感じた。 「牧師が言われることは、すべて
イエス様が言われているのと同じだから、牧師が言う通りにせよ」というのが、その教会の教え
だった。 その牧師たちが訓練と学びのため、著者に要求されることに一生懸命従おうとする
が、心がついていかない。 それが顔にも表われ暗くなる。 今、思えば、牧師の要求(ベニー
ヒンの心と取り替えてもらえなど・・)を心の奥底、すなわち内におられる聖霊が拒否していた、
むしろ聖霊の守りだったとつくづく想う。 
 
結局、牧師の言うことに従わず役に立たず、イエスに嫌われているからと教会を追い出され
た。 出た後、田舎なので兄弟姉妹と町でばったり出会うことが多かったが、牧師からの緘口
令からか、彼らは、著者を無視した。 日本の教会の実情をある程度、知っていたので、他の
教会に行く気にはなれなかった。 人間不信、教会不信、クリスチャン不信になり、本当にキリ
ストに嫌われているのだろうか、と悪霊の思う壺に入りそうな思いに駆られたこともある。 しか
し、心の奥底から出てきた思いは「イエス・キリストと聖書だけは間違っていない。こんな私でも
滅びることは主の御心ではない。」と顔を上げ、数年、必死に一人で祈りに祈った。 あれから
もうすぐ17年になる。 著者が、踏みとどまることができたのは、著者の熱心ではなく、ただ一
方的な主のあわれみによると本当にそう思う。 人が救われることも、神からの一方的なあわ
れみであるが、著者は、そのときもやはり同じあわれみを受けたとつくづく思う。 心から主に
感謝する。 主を愛さずにはいられない。 
 
主イエスは十戒を二つにまとめられた。 第一の戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽く
して、あなたの神である主を愛せよ。」 第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛
せよ。」(マタイ22:37-39)である。 常に第一があって、第二が続く、という順番でなければなら
ない。 主を愛することができる者が、心底から隣人を愛することができるものである。 常に、
基準は、「神である主」である。 順番を間違えると、上記のような人々が起きてくる。 悲劇的
なことである。 しかし、このことはキリスト教会の中で結構、多いと思われる。 クリスチャン一
人一人だけでなく、むしろキリスト教会の指導者として立っておられる牧師や教師たちが、一
番、気をつけておかねばならないことであると思われる。 
 
キリスト教は「愛」の宗教であるといわれる。 しかし、まず、「神への愛」があって、次に「隣人
への愛」があるべきである。 「神への愛」というとき、まず神の方から我々を愛してくださったと
いう事実がある(Tヨハネ4:10) だから、神である「主から愛され、主を愛する」ことが、一人
一人、しっかり土台として築き上げられていることが重要なことである。 その段階で、試練や
苦難によって、自我が砕かれたり、肉が切り取られたりなどの経験を通ることもあろう。 主は
一人一人に応じて、訓練をしてくださり、清めてくださって「主から愛され、主を愛する」土台をま
すます固くしてくださり「隣人への愛」を正しい位置で愛することができるようにしてくださるで
あろう。 そのところで「二者択一」の選択をしていくならば、表面的な選択に終わらない。  
そういう者たちが増えていったとき、主が望まれる本当のキリストの「愛」が、世の暗やみの中
で輝くことになる。 
 
そのためにも日々の生活の中で、絶えず主の主権を認め、主の前にへりくだり、清められ、ま
ず「主を愛する者」として整えられ、正しく「隣人への愛」をもって、「二者択一」で、「いのち」
選択していきたいものである。 そして、主のみこころを求め続けていき、「つまずかない者」に
なり、「世の光」として輝きたいものである。 主を深く深く愛する者になりたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 119:10
   私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出な
   いようにしてください。
 
★旧約聖書 詩篇 119:15
   私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
 
 
 


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