めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年3月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<起きよ。立ち上がれ。暗やみの中に輝いている光に向かって前進せよ!>



★旧約聖書 イザヤ書 60:1-60:5
   起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。 見
   よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が   
   輝き、その栄光があなたの上に現われる。 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちは
   あなたの輝きに照らされて歩む。 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あな
   たのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。 その
   とき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。・・・

★旧約聖書(口語訳) 士師記 5:12
   起きよ、起きよ、デボラ。起きよ、起きよ、歌をうたえ。立てよ、・・・。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:5
   光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 
旧約聖書を見ると、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ・・・など「主の約束のことば」を語ら
れたり、夢で「主のことば」を啓示されたりしているのを見ることができる。 彼らの人生を見る
と、その約束の「主のことば」や「主の啓示」が実際、その通りに成るまでに、それぞれに応じて
様々な過程を通っている。 その過程が訓練、試練となって、彼らの霊的前進は著しいもので
あることがわかる。 また、霊的だけでなく、外側に見える、実際的なことにおいても、主のみこ
ころにかなった方向への著しい前進が見られる。 
 
過程は一人一人みな違うが、彼らの共通するところは、約束の「主のことば」や「主の啓示」が
与えられて、実際が現われるまでの過程で、本当に主が語られ、示されたのかと疑うほど現状
が「ことば」と正反対であったり、厳しく苦しい「時」を過ごしているということである。
 
例えばダビデの場合。 旧約時代、祭司や預言者、王が、その即位の際、彼らの頭に「油」を
そそがれた。 ダビデは3回、油をそそがれたが、主からの油そそぎであった最初の油そそぎ
のとき、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」と書かれている。(Tサムエル1
6:13) しかし、実際、ダビデが王位に即位して、表舞台に登場するまでには、暗く苦しい試練
を経ることになったが、ダビデにとっては、必要な「時」となった。
 
主の霊がサウルを離れたため、サウルは悪霊にさいなまれるようになった。 ダビデが王のそ
ばで琴を弾くとサウルから悪い霊は離れていった。 それなのに、サウルに槍を投げつけら
れ、殺されそうになった。 ダビデが、ペリシテ最強の戦士ゴリヤテとの戦いで勇敢に勝利し
て、人々の人気を博すとサウルからねたみを買うようになり、戦いに出る度に勝利をおさめる
と、サウルから執拗に命を狙われるようになった。 サウルの娘ミカルを妻として与えられ、サ
ウルの息子ヨナタンとは深い友情を交わすようになったが、サウルは家来たちにダビデ殺害
の命令を下した。 
 
そこからダビデの逃亡生活が始まった。 サウルの手を逃れるために、山地をあちこちとさま
よったり、野宿したり、洞穴で過ごしたり、各地を転々とした。 逃げ切るために嘘をついたり、
気違いを装ったり、敵の地で過ごすはめになったり、助けたケイラの人々に裏切られ、ジフの
人々にも密告されたりと苦しみが続いた。 主から「王」としての油をそそがれたはずなのに、
そのときの現状は、苦難に継ぐ苦難で苦しみ抜いた。 まるで、主からの「油そそぎ」を受けて
いないかのようであった。 とても主がともにおられるとは感じられないくらい苦しみ抜いたとき
もあった。 このときの苦しみ、悔い改め、またその中での神に対する信頼は、詩篇に綴られ
ている。(詩篇59篇、56篇、34篇他) ダビデは幾多の困難、苦難、試練の後、王に即位した。
 
苦難、試練のときは、暗やみの中にいるようである。 ましてどん底となると、お先真っ暗という
感じは否めない。 この時ばかりと悪霊も力の限り攻撃して来る。 それがあまりにも厳しくて
「主の召し」「主のことば」「主の啓示」を頂いていても、暗やみの中を叫びながら手探りしなが
ら歩いてるように感じられるものである。 自分のこの叫びは、主に届いていないのか、主に見
放されたのか、まるで滅びが迫ってきているではないか、と感じられるほど苦しくて、顔を上に
上げることすらできないという経験をすることもあろう。 
 
ダビデもそうだった。 苦しみで心も体も圧迫されて、自分の弱さ、無力さを嫌と言うほど知っ
た。 気が狂ったふりまでしたときには、「なぜ?」と「主のことば」を掴もうにも掴むことができ
ないくらい落ち込んだ。 信仰を奮い立たせることが難しいと思われるほど、弱さ、惨めさ、恐
れ、不安が支配した。 ダビデは神に叫ぶしかできなかった。 自分では何もできなくなってい
た。 主に心から叫び、主に頼るだけになった。  主は、そんなダビデの嘆きを数えられ、ダ
ビデの涙を袋皮に蓄えてくださった。 同じように、主は、苦難、試練の中にある一人一人の、
その叫びを数えてくださり、流した涙を皮袋にたくわえてくださっている。 主は、涙を皮袋から
あふれさすことはない。 叫びに応え、流した涙の分だけ、いやそれ以上にあわれみと恵みを
もって応えてくださる方である。 
 
冒頭のみことばは、一般的にはエルサレムに関して語られていると言われているが、たとえと
して捉えて、苦難、試練の中にある者にとって、霊を奮起させ勇気を与えてくださる「ことば」で
ある。 真っ暗闇の中で進んでいないようで、実は、聖霊が導いておられることを知る「時」が
来る。 決して消えない聖霊の松明の火を掲げて、周りは真っ暗闇でも確かに光の方へと前進
していることを知る「時」が来る。 その「時」が来たら、「起きよ」と言われる主の御声に従っ
て、起き上がることができるようになる。 「光を放て」と言われる主の御声に従って、光を放つ
ことができるようになる。 主が、そのようにしてくださるからだ。 ダビデもそのことをよく知って
いた。 だから、苦しみながらも主をほめたたえていた。(詩篇34:1)
   
主が、「主のことば」「主のみこころ」を実現されようとなさる過程、道は、我々人の考え、願い、
想いとは違う。 神のご計画は、人には前もって知ることができないばかりか、なかなか理解で
きないことの方が多いかもしれない。 我々人は、ともすれば外側の見えるところで考え、判断
しがちだが、主なる神は、霊のところで「事」を進めておられる。 そして、その「事」は、必ず見
える「時」が来る。 よみがえられて今も生きておられる主イエス・キリストをほめたたえる。 全
能なる神に心から感謝する。 
 
「主のことば」「主の啓示」は、成就される「時」、完了される「時」が、必ず必ず来る! このこと
を覚えて、それまで、わかるわからないに関わらず、とにかく聖霊の流れに乗って、導かれるま
ま歩むことである。  たとえ、その道が厳しい道であっても「光」に向かって前進しているからだ。 
この地上での様々な苦労、困難、苦難、試練には、限り(期限)がある。 主はそのような苦労
を決して無駄にされず、大いに益にしてくださる。 将来の永遠の栄光は、あまりにも凄く、測り
知れないものである。 だから、いよいよ、主に求めていきたいものである。 主も我々が求め
てくることを望んでおられる。 新しい聖霊の川の流れに乗り続け、日々絶えず、主イエス・キリ
ストから目を離さず、主に依り頼むこと、主と主のことばの御前にへりくだること、絶えず主の御
心を知って祈っていくことをしていきたいものである。
 
★新約聖書(口語訳) マタイによる福音書 5:14
  あなたがたは、世の光である。・・・
 
★旧約聖書(口語訳) 詩篇 45:4
   真理のため、また正義を守るために/威厳をもって、勝利を得て乗り進め。あなたの右
   の手はあなたに恐るべきわざを/教えるであろう。
 
 


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