めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年1月20日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<心の奥底に隠された本心、本音が神を尋ね求めているか>



★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:10
   いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人
   の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするよう
   なら、私はキリストのしもべとは言えません。
 
★旧約聖書 詩篇 19:14
   私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖
   い主、主よ。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。
 
●自分は罪人であり、本来、罪の結果である地獄へ行かなければならなかった身分だったが、
イエス・キリストが、自分の罪のため、身代わりとなってくださり、十字架で死んでくださった。 
そして3日目によみがえられて今も生きておられる、と信じた者は、「主を愛します。」「主のみ
こころを行います。」と言うことができるであろう。 また、主をほめたたえ、主に感謝の祈りを
することができるであろう。 こういうことは、主を信じ救われた者にとっては、当然のことであ
るからだ。
 
しかし、人は心からそのように言った、告白したとしても、それが本音かどうか、純粋な本心か
どうかを神は試され、調べられる。 主を信じた人の多くは、平常心のとき、「主に従います。」
「主のみこころを行います。」と言えるものである。 自分は心から言っていると思っているし、
事実そうであるだろう。 また、何か嫌な出来事や問題があったときには、「主よ、私を変えてく
ださい。」「主のみこころを知りたいのです。教えてください。」と言えるものである。 確かに主
は、それらの口のことばを受け入れてくださる。 しかし、主は、その口のことばが純粋な本音、
本心から言っているのかを試される。 その口のことばが、純粋な本音、本心からであるなら
ば、神を最優先していることになる。 人に喜ばれようとしているのではなく、神に喜ばれよ
していることになる。 
 
神は人の心の思いも含めて、人のすべてをご存知だが、人の方で、自分はどうなのかを知る
必要がある。 自分の本音、本心を知った上で、人の自由意志(意思)をもって主に従うこと、
主のみこころを行なうことを神の方が望まれているからだ。 人は何でも言うことを聞く、いや
聞かざるを得ないロボットとして造られたわけではない。 自由意志(意思)を与えられ、自分
の意思で神に従う生きた者として造られた。 だから、自由意志をどう用いるかは、その人に
任されている。 
 
さて、旧約時代、ユダ王国が滅亡し、イスラエルの民のバビロン捕囚後、約70年経って、ペル
シャ王クロスが、イスラエルを解放し、エルサレム神殿の再建を布告した。 総督ゼルバベル
やイスラエルの民がエルサレムへ帰還して神殿の再建に取り掛かった。 捕囚から帰って来
た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、サマリヤ人たちは、神殿
再建工事への協力を申し出た。 サマリヤ人とは、ユダヤ人と異教の民との混血民族であった
が、エズラ記4:1には「ユダとベニヤミンの敵たち」と書かれている。 
 
ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、サマリヤ人たちが、真の
神を礼拝していたことを知っていたが、同時に、異教の神々も礼拝していたことを知っていた。 
サマリヤ人たちの本心は、神に対して純粋ではなかった。 むしろ帰還してきたイスラエルの
民に追い出されないようにという自分たちの利権を守ることを優先していた。 ゼルバベルとヨ
シュアに断られ、本心がはっきりと浮き彫りにされた後も彼らは、へりくだることなく聖書に書か
れているように、サマリヤ人たちは、神殿再建の工事を妨害するという「ユダとベニヤミンの敵
たち」となった。
 
 イスカリオテ・ユダの場合。 12弟子に選ばれ、主がなされる奇蹟を目の当たりに見てきた。 
群衆には知らされない神の国の奥義も、弟子ということで知らされた。 権威ある教えを身近で
聞いた。 しかし、主を銀貨30枚で裏切った。 主が話され、説かれたのは「神の国」であった
が、イスカリオテ・ユダは、「目に見える力」、「お金」、すなわち、「自分の思い」、「自分の願い」
が最優先であった。 過越祭の六日前、ベタニヤでマリアは、非常に高価な、純粋なナルドの
香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐったことが
った。 そのとき、 イスカリオテ・ユダが 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々
に施さなかったのか。」と言った。 このとき同じ思いを抱いた弟子も何人かいたようだ。(マル
コ14:4) イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事を
してくれたのだ。」と言われた。 その主のことばによって イエスの思いと自分の思いの違い、
イエスの心と自分の心の違い、すなわちある意味、彼らの本心が浮き彫りにされたと思われる。 
 
後の状態を見るならば、他の弟子たちは、主のことばの前にへりくだったようである。 しかし、
ユダは違った。 あくまでも自分の思い、願いを最優先し、むしろ、このときから明確にイエスに
見切りをつけたようだ。 結局、主なる神に尋ね求めることをせず、主のもとに立ち返らず、自
殺をしてしまった。 同じ12弟子のペテロもイザッとなったとき、ことばと行動で主を裏切った。 
しかし、彼は自分は主に従っていくと思い決めていたのに、裏切ってしまったという事実。 ま
た、自分の心の奥底には、主を裏切るような思いがあったこと、自分は弱い者だったというこ
と、自分の本音、本心がわからなくなるような混乱など・・・で苦しみ、嘆いた。 煩悶(はんもん)
し、悔いて、主イエスのところに立ち返った。 また、主に立ち返る重要性を知り、そのことが刻
み込まれた。 
 
これらのように、人は自分の心の奥にある自分の本音、本心に気付いている場合と気付いて
いない場合があると思われる。 いずれの場合であっても、「神を尋ね求める」心は、主から与
えられるものである。(詩篇14:2,3 ルカ19:10) 一人一人に応じて、主が定めておられる時
に、主の方法で与えられると思われる。 そのために、主は人を試されたり、試練、苦難にあう
ことを許しておられるのだと思われる。 いずれにしても、本心が明らかになったとき、浮き彫り
になったとき、どういう態度を取るかである。 浮き彫りになった本音、本心が、「神を求めてい
ない」とわかったならば、ペテロのように悔いて、へりくだり主のもとに返ることである。 
 
自分の本音、本心が、自分を最優先して「神を求めていない」とわかっているなら、何よりもま
「神を尋ね求める」ことができるよう、必死で祈り求めることである。 本当に祈っていたら、
どのような方法かはわからないが、主がその人に応じて試されるだろう。 試されたとき、失敗
しても、またへりくだって求める。 旧約時代のサマリヤ人たちのように、「自分の願い」「自分
の思い」は離すまいという堅い決心がない限り、主は、「神を尋ね求める」心を与えようと働い
てくださるであろう。 人は、いくら言動を繕っていても心の奥底にある本音、本心が、行動に
表れるものであり、他の人にも伝わるものである。 本音、本心が純粋に「神を尋ね求める」
とができる者は幸いである。 
 
日々の生活の中で、絶えず主の主権を認め、主の前に自分の真の願い、思いを知って、清め
られ、最後まで神の前にへりくだり続けていきたいものである。 そして、神に全面的に委ねて
いく生き方、すなわち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 104:34
   私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。




めんどり聖書研究会