めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年11月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<天の御国に入るため、この地上にいる間に、油を用意する>



★新約聖書 テモテの手紙 第一 6:19
   また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上
   げるように。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 25:10
   そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに 
   婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 
巷での「結婚観」は、昔と今ではずいぶん違ってきた。 昔は、親が決めた人と結婚する人が
多く、お見合いや紹介による結婚が多数だった。 今では、未婚率、離婚率が増え、結婚後の
ライフスタイルも多様化してきている。 「結婚観」に変動がある。 しかし、聖書的な結婚観は、
ずっと同じである。 簡単に言えば、「キリストとキリストの教会が一つ」であるように、「ふたりの
個人が一つ」となるということである。 また、「結婚式」も昔と今ではずいぶん違ってきている
が、聖書では、世の終わりに、キリストという花婿と、用意ができた教会(召し出されたクリス
チャンたち)という花嫁が盛大な結婚式の宴会の時、すなわち「小羊の婚姻の時」を迎えること
が書かれている。(黙示録19:7)
 
さて、マタイによる福音書25章に「十人のおとめ」のたとえが書かれている。 内容はこうであ
る。 十人のおとめたちが、ともしび(あかり)を持って花婿の到来を待っていた。 花婿が来る
のが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。 夜中になって、花婿の到来を告げる声が聞
こえた時、愚かな五人のおとめたちは、ともしびの油が足りないことに気付き、賢いおとめたち
に分けてくれるよう依頼したが、それぞれ一人分の油しかなく、やむなく店に買いに行った。 
その間に、花婿が来て五人の用意のできていたおとめは婚宴の部屋に迎え入れられた。 そ
して、戸がしめられた。 そのあとで、愚かな五人が到着したが、部屋の戸は閉められ、『はっ
きり言うが、わたしはあなたがたを知らない。』と言われ、中に入れてもらえなかった、という話
しである。
 
このたとえから、様々な教えがあるが、要は「小羊の婚姻の時」を迎える教会、クリスチャンた
ちは、油でたとえられている「聖霊」(Tヨハネ2:27)をこの地上にいる間に用意しておくというこ
とである。 十人のおとめたちが持っていた「ともしび」は、松明(たいまつ)であると言われてい
る。 木の小枝の束に布を巻きつけ、その布に油を染み込ませた物である。 油が切れると消
えるので、通常、別の油を用意するという。 

このたとえを見ると、 賢いおとめたちも分けてあげられるほど十分な油を用意できていなかっ
たようである。 言い換えれば、それだけ、この地上にいる間に十分な油を用意するということ
は、容易いことではないのかもしれない。 主イエスも「努力して狭い門からはいりなさい。なぜ
なら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。(ルカ
13:24)」と言われた。 また、競技者が栄冠を受けるためには、節制、鍛錬を繰り返しながら
自らを鍛えるが、油を用意するためには、苦闘しなければならないことをパウロは言っている。
コロサイ1:29) 「この世の君」はサタンであり、我々は「この世」で生きている。 真に主に従
おうとする者を阻止するかのようにサタン、悪霊は働いてくる。 偽り、逸らし、惑わしを巧妙に
仕掛けてくる。 それを見破らなければ、まっすぐに進めない。 また、アダムとエバ以来の生
まれながらの肉の性質、自我が、主のみこころを行ない、従うのに邪魔をする。 格闘しなけ
ればならない。 
 
「油を用意する」ための生き方は、ひと言で言えば、「主の御前にへりくだる」生き方である。 
「御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ福3:18)」「信じる者は永遠のいのちを持ちます。(ヨ
ハネ福6:47)」「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10:13)」などのみこ
とばは真実だが、その解釈を人間的な基準に引き下げている教会があり、クリスチャンがいる。 
単に主イエス・キリストを信じさえすれば、後は何をしてもどうであっても大丈夫。 罪はゆるさ
れているのだから。 天の御国は約束されている、と間違った解釈をして主のみこころから離
れてしまっている。 「主を信じる」ということを神の基準ではなく、人の都合のいいところまで引
き下げている。 「へりくだり」からは遠く離れている。 この地上で実際的に聖霊に導かれた生
き方をしているなら、「油を用意する」ことになる
 
聖書は「神のことば」である。 すべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練
とのために有益である。(Uテモテ3:16) 「救いについて」「義について」「裁きについて」「死後
について」・・・など書かれている。 一旦、主イエス・キリストを信じ受け入れ、聖書を読み、聖
霊から直接なり教役者や人からなり、様々な教理を学び知り、いろいろな経験を通して主キリ
ストを知ったとしても、「主イエス・キリストについて」「神ご自身について」「救いについて」「死後
について」・・・まだまだ知らないことが多いものである。 今まで開かれていなく、今、悟ったと
いうことがあったとしても、それでもまだまだ知らないことが多いものである。 また、「自分は
救われている」と今日、確信したとしても、明日の自分はどうなるのかさえ知らないものである。 
もちろん、日々、「救われているのだろうか?」とビクビクするのではない。 絶えず、主の御前
に「へりくだる」のである。 「ビクビクする」ことと「へりくだる」ことは、全然違う。 「へりくだる」
というのは、畏敬をもって主を恐れ、主に信頼していることである。 そこには平安がある。
 
とにかく、主に尋ねて主に悟らせていただく、という心持ちを常に持っていることが必要である。 
自分は、いかに知らないか、まだまだ「主のこと」、「救いのこと」、「死後のこと」、他多々、知ら
ないことが多いかをわきまえておくべきであろう。 コリント人への手紙 第一8章2節に人がも
し、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはい
ないのです。」と書かれている。 また、主が知ることを良しとしてくださっていることを知らせて
いただくために、主に祈り求めていくべきであろう。 我々の、日々の生活を真に主によりす
がった生き方こそが、「油を用意する」ことになる。 ただ、「自分は、主によりすがっている」「主
を信じている」と自分の基準で思い込まないためにも、確かな主との実際の交わりが必要であ
る。 「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Tヨハネ1:3)
と書かれている。 パウロは「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならな
い。(使徒14:22)」と言ったが、苦難は神の民、クリスチャンにとって試練であり、訓練である。 
これらの苦難は神の民の信仰が本物であるかどうかを試し、本物の信仰であればますます鍛
えられていく。 その苦難を避けようとする者は、信仰を捨てるか、もしくは、主が望まれる信仰
ではなく、人の良しとする信仰に落ち着く。 しかし、それは主なる神イエス・キリストとの交わり
から離されている。
 
いずれにしても、戸がしめられる時がある。 天国の扉がしめられる時が来る。 「わたしはあ
なたがたを知らない。」と主から言われないために、忍耐によって練られた品性が身につくよう
に、主が見られて「良し」とされる信仰に鍛えられるように、平安な義の実を結ぶことができるよ
うに、日々、御父および御子イエス・キリストとの交わりができるように、真に取り組みたいもの
である。 この地上での生活は、地上だけのものではない。 この地上での生活は天の御国に
入るための準備の時である。 謳歌することより、天の御国への備えを考えるべきであろう。 
絶えず、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の御前にへりくだ
って祈り、キリストとの交わりを深くしていきたいものである。
 
★新約聖書(口語訳) ヘブル人への手紙 12:11
   すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。し
   かし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 6:12
   私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者た
   ち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 
★新約聖書 テモテの手紙 第一 6:12
   信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。



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