めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年10月21日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<キリストにあっての三つ撚りの糸>



★旧約聖書 伝道者の書 4:9-12
   ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。 
   どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっ
   ちの人はかわいそうだ。 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして
   暖かくなろう。 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの
   糸は簡単には切れない。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 1:27
   ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。・・・あなたがたは霊を一つにしてしっかり
   と立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあ
   っても、反対者たちに驚かされることはないと。
 
●冒頭のみことば「三つ撚りの糸は簡単には切れないは、よく結婚式で使われる。 結婚式
に参加して、牧師や神父が、この「ことば」とともに、誓いの言葉、「その健やかなるときも、病
るときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬
い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」と言うのを聞
いたことのある人も多いのではないだろうか。 夫と妻が主にあって心を一つにして、互いに補
いながら結婚生活をしていくならば、様々な困難を乗り越えることができることを語っている。
 
この「ことば」に似たことばが、日本にもある。 毛利元就(もとなり)の「三本の矢」という故事で
ある。 毛利元就は、三人の息子たちを集め、一本の矢を取り出してこう言った。 「一本の矢
を折ろうとすれば、容易く折れてしまう。」と。 そして今度は、三本の矢を束ねてこう言った。 
「しかし、三本の矢を束ねると、折ろうとしても、容易く折る事は出来ない。」と。 「もしお前達兄
弟が、協力することをしなかったならば、毛利家は倒れるであろう。しかしこの三本の矢のよう
に、兄弟三人が力を合わせれば、毛利家が倒れる事はないであろう。」という話である。 三人
の息子が、心を合わせて一つのことに当たるとき、一人ではできなかった力を発揮することが
できるということであろう。
さて、約二十数年前、著者は、当時の女性牧師から「三つ撚りの糸は簡単には切れない」のこ
とばを教えられた。 当時、その教会の他、姉妹教会ともいえる教会の建て上げのとき、著者
と、あと二人の姉妹の三人が、キリストにあって、霊の一致、心の一致をもって助け合うように。 
特に二人が、著者を助けるようにと、この聖書のことばをもって教えられた。 当時、「三つ撚り
の糸は簡単には切れない」を何回か読み直したが、わかったようで、納得がいくようで、内心、
まだ、はてな(?)の心境だったことを今でも覚えている。 
 
その後、祈り、聖書を読み、自我が砕かれ、肉が切り取られるを繰り返しながら、主のみこと
ばを少しずつ、様々な体験を通して、教えられてきた。 そして、「三つ撚りの糸」というとき、当
時の牧師が言われたように、人が三人であっても、主にあって三人ならば良いということ。 た
だ、 聖書には「ふたり、または三人」とよく書かれているが、基本的には「ふたり」ではないかと
思うようになった。  主イエスは、12弟子や70人の弟子たちを遣わすのに、「ふたり」ずつ、遣
わされた。 彼らが、主の御名を使うと、悪霊は彼らに服従し、病人はいやされた。マルコ6:
7、ルカ10章) 
 
主イエスは、「・・・もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈る
なら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18:19)」と仰せられ
た。 「ふたり」である。 また、ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わた
しもその中にいるからです。(マタイ18:20)」とも仰せられた。 人が集まる集会の最小単位は
「ふたり」であると言えよう。 「教会」は、原語(ギリシャ語)ではエクレシア。 呼び出された人
たち、召し出された人たちの集まりを意味する。 すなわち、主イエス・キリストを信じる人たち
の集まりを「教会」という。 したがって「教会」の最小単位は「ふたり」である。 
 
いずれにしても、大事なことは、「ふたり」の中心に「キリスト」がおられるということである。 夫
婦であれ、友人であれ、人と人との間に「主イエス・キリスト」がおられることが、人が一致する
ことができるための最低限であり最高の条件である。 それが「主にあって」ということである。 
人祖アダムとエバも「ふたり」だった。 最初、彼らの中心に「主なる神」がおられた。 彼らの
中心から、彼らが「主なる神」を排除したとき、すなわち「主なる神」に頼らず、他のもの(自分
の考え、思いなど自分も含む)に頼ったり、基準にしたとき、サタンが彼らの中心に「(原)罪」と
して入り込んできた。 サタンの支配下に陥ってしまった。 人が神と離れることになった。
 
しかし、主イエス・キリストは、その人間の中に入り込んだ「罪」をご自身が受けてくださり、我々
の身代わりとなられて十字架で死んで処分してくださった。 「罪」だけでない。 人が「主なる神
イエス・キリスト」とつながっていくのに妨げる、病や咎も主は受けてくださった。 そして3日目
によみがえられて、今も生きて、主を求める者を救おうと働いてくださっている。 そして、ご自
身のからだである真の「教会」を建てあげようと働いておられる。 
 
一人一人が「キリスト」につながって、「キリスト」と交わっているから、「ふたり」になったとき、中
心に「主イエス・キリスト」をみることができる。 キリストがおられるなら、その交わりは強靭な
ものである。 どのような困難でも乗り越えられるであろう。 不思議な主の力も体験することで
あろう。 2人でも7人でも12人でも50人でも、要は「キリスト」が中心の支えとして、おられなけれ
ば だめなのだ。 十人十色の一人一人を結びつけることができるのは「キリスト」である。 ち
なみに、ロープの材料や用途目的やつくりなどいろいろ違いはあるが、一般的には強度は8ツ
打ロープより3ツ打ロープの方が強いようである。(打つ=撚り束ねる) やはり、基本は「キリス
ト」につながった「ふたり」+「主イエス・キリスト」である。 その組み合わせが、幾つもあるなら更
に強靭間違いない。 正しく主に従っていく「教会」になるだろう。 
 
ともかく、一人一人が「キリスト」にしっかりつながるために、新しい聖霊の川の流れに乗るこ
と、また乗り続けること、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分
を置き、主の御心を知って祈り続けること、神に依り頼むことである。 主と主のことばの御前
にへりくだること、絶えず主の御心を知って祈っていくことをしていきたいものである。

★旧約聖書 歴代誌 第二 15:1、2
   すると、神の霊がオデデの子アザルヤの上に臨んだ。 ・・・「アサおよび、すべてユダと
   ベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主は
   あなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご
   自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたが
   たを捨ててしまわれます。
 
★新約聖書(口語訳)  ヨハネによる福音書 15:4、5
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、
   あなたがたはその枝である。・・・


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