めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年10月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<聖霊の流れに乗ること。幸いな神の計画の中にあること。>



★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28、29
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 なぜなら、神は、あら
   かじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
   それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 
旧約聖書 (口語訳) エレミヤ書 29:11
   主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。そ
   れは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来
   を与え、希望を与えようとするものである。
 
★旧約聖書 イザヤ書 48:10
 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。
 
旧約聖書 創世記に登場してくるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、その子イサクは、「す
べてのものを父から受け継いだ者」の代表であり、イサクの子ヤコブは、「砕かれた者」の代表
である。 主イエス・キリストを信じる者は、アブラハム、イサク、ヤコブのそれぞれの経験が必
要である。 アブラハムの「信仰」、イサクの「約束のものを受け継ぐ」ことについては、人が
実際にそれらを獲得したかどうかは別として、人にとっては受け入れやすい。 しかし、ヤコブ
の「自我の砕き、肉(生まれながらの性質、聖霊によって歩んでいない性質)の切り取り」につ
いては、なかなか受け入れがたいものである。
 
頭では「砕き」についてわかっていても、いざ、主からの訓練試練がくると、拒否の思い、考え
が働き、自分の知恵、世の知恵で乗り越えようとしてしまいがちである。 時には、主からの訓
練試練でもないのに、主からのものだと思い込み、勇んで対応するということもあり得ないこと
ではない。 いずれにしても、人が主の御手の中で留まっているかどうか、主のご計画の中に
あるのかどうか、聖霊の流れに乗っているのかどうか、が重要であると思われる。
 
さて、受け入れがたいヤコブの生涯を簡単に見てみる。 生まれる前からリベカの胎の中で
戦っていたようである。(創世記25:22) リベカが主に尋ねると、「兄が弟に仕える。」と主は語
られた。 双子であったが二男として誕生。 推測するに、子どもたちは、父イサクや母リベカ
から主なる神のこと、長子の特権(2倍の相続と、家督権、神からの霊的祝福)のことを聞いて
いたと思われる。 ヤコブはそれにこだわった。 長子エサウは軽んじた。 
 
そのヤコブは、聖書を読んだ多くの人が、ヤコブは、自分が欲しいものを得るためには手段を
選ばない狡猾な人間であると非難、批判をする。 イサクとエサウを騙して長子の特権を奪い
取ったから、エサウに命を狙われ、家を出ることを余儀なくされた。 家を出て、母リベカに言
われて、滞在した伯父ラバンのところでは、その娘ラケルを妻にするのに伯父にだまされ、14
年間ただ働きをすることになった。 ラバンはヤコブを甥というより、奴隷程度に考えていたよ
うである。 そのような中でヤコブは自分の財産を得るために、人間の知恵をフルに活用した。 
ラバンやその息子たちとの関係は良好ではなかった。 
 
20年後、主はヤコブに「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたと
ともにいる。」と語られた。(創世記31:3) ラバンのところを出た。 自分の杖1本だけでラバン
のところに来たヤコブは、出て行くときには二人の妻、子どもたち、すべての家畜と、彼が得た
すべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を持ってカナンの地にいる父
イサクのところへ出かけた。 兄エサウに再会するのに「恐れ」を感じ、ここでも自分の知恵を
フルに活用し、自衛策を講じた。 そして、必死にしかも正直な祈りをささげ、妻たち、子どもた
ち皆とすべての荷をヤボクの渡しを渡らせた。 ヤコブはひとりだけ、あとに残り、ある人(神の
使い)と夜明けまで格闘した。 
 
そのとき、神の使いはヤコブのももつがいを打った(股関節を脱臼)ので、ヤコブはびっこにな
杖なしでは動けなくなった。 神の使いはヤコブに「イスラエル(神が支配する、神が戦うの意
)」という名を与えた。 砕かれたヤコブは、彼らの先に立って進んだ。 その後も子どもた
ちの次々の悪行。 それに対して、黙っていたヤコブ。 最愛の妻ラケルの死、最愛の息子ヨ
セフの失踪。 ヤコブはヨセフは死んだと他の息子たちから聞かされていた。 晩年遅くに生き
ていたヨセフと再会。 ヨセフは世界的飢饉から家族を救うために神によって先にエジプトに遣
わされたことを言った。 
 
ヤコブは147歳で召されたが、最期の17年間は比較的穏やかに過ごすことができた。 アブラ
ハム175歳、イサク180歳に比べたら短いかもしれないが、晩年、パロの前に立ったヤコブは
「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖の
たどった齢の年月には及びません。」と言ったが、そのヤコブがエジプト王のパロを祝福した。 
「ヤコブはパロにあいさつした。」「あいさつした(創世記47:7、10)」は、原文では「祝福した」
と書かれているという。 聖書では、祝福は上位にいる者が下位にいる者に対して行うもので
ある。 それほどヤコブは一番、神によって変えられた人だった。 ヤコブの生涯を見てみる
と、外部からの出来事だけでなく、自我の強さによって自ら苦境を招いた出来事も多く、その生
涯は波乱万丈だった。 一つ一つの出来事について、ヤコブの反応、応答がすべて詳細には
書かれていないが、確実なことは、神はヤコブを選び、愛しておられたということである。 
 
また、神はご自身が語られた「ことば」に、神ご自身が忠実であられたことである。 「兄が弟に
仕える。(創世記25:23)」、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あな
たを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。(創世記28:15)」など主の無条件的、一方的な「ことば」に関してだけ
ではなく、双方の責任が伴った契約的な「ことば」に関しても、主なる神が、人の側が、その「こ
とば」に対して責任が取れるよう、すなわち主に従えるように、様々な助けや導きを与えてくだ
さっている。 夢の中で主が語られたり、ラバンのところで家畜を増やすときにも御使いが導い
てくださったり、ラバンのところを出て、兄エサウのところに向かうときも、恐れるヤコブを取り
囲むように神の使いたちが現れた。(創世記28章、31章、32章) 
 
神は、そのように導きながら、ヤコブの自我を砕き、肉を切り取るために、あえて自我丸出し、
生まれながらの性質、肉で行動することを許されているようにも見受けられる。 ヤコブは、
のご計画に従って召された人であった。 ローマ人への手紙11章34節に「なぜなら、だれが主
のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。」と書かれて
いるが、神のご計画は、たとえ我々のような小さな人間に関することさえ、我々の思いをはる
かに越えている。 だから我々が単純に理解できるようなものではない。 神のみぞ知る、であ
る。 神のみこころを知ることは、簡単なことではないが、それでも主に導かれているなら、ま
た聖霊の流れに乗っているなら、ヤコブのように過程は波乱万丈でも信仰を全うできる者、確
かに天の御国に入れる者に変えてくださる。 主のご計画、すなわち、主のことばは、人から見
て大小はあるにせよ、神にとっては大小に関わらず、すべてが成就することである。 
 
とにかく日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神
に依り頼むことをして主キリストと親しく交わりをしていきたいものである。 そして、神に全面
的に委ねていく生き方、すなわち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいも
のである。 主のみこころを尚尚、知って、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 
 
★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:25
   もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか


めんどり聖書研究会