めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年9月16日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
全身全霊で主を愛するために



旧約聖書 伝道者の書 12:13、14
   結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが
   人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、す
   べてのわざをさばかれるからだ。
 
★旧約聖書 伝道者の書 3:1
   天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
  
★新約聖書 ペテロの手紙 第二 3:8
   しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主
   の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
 
一年が短く、とにかく時が経つのが早すぎると感じる今日この頃である。 年齢を重ねるごと
に、そのように感じるのは著者だけではないのではないだろうか。 聖書の創世記の登場人物
の寿命は、アダム930歳、ノア950歳、アブラハム175歳、イサク180歳、ヤコブ147歳と書かれて
いる。 モーセの代になってから120歳に落ち着いてきたようである。 現代の寿命は、モーセ
の時代に近いかもしれない。 いずれにしても百年は長いのか短いのか?
 
さて、ダビデ、ソロモンの代になると、寿命は七、八十年であったと思われる。 ダビデの寿命
は70歳、ソロモンは約80歳だった。 一人一人、人生の中で様々な経験をするであろう。 この
人の経験がすばらしく、あの人の経験はたいしたことはない、などと決めることはできないが、
旧約時代のソロモン王を超える経験をすることは、なかなかできないのではないかと思われ
る。 簡単にソロモンの人生を書いてみる。
 
ソロモンは、ダビデ王の10番目の子。 王に就任したあと、神が夢に現われ、「何でも求めよ」
と言われた。 ソロモンは大勢の神の民を治めるために、「知恵」を求めた。 神は、自分のた
めに富や誉れや財宝などを求めなかったから「良し」とされ、知恵以外にもそれらを与えると約
束してくださり、その通りになった。 ソロモンの財宝は目を見張るものであった。 宮殿にあっ
た器物もすべて純金であって、銀の物はなかった。銀はソロモンの時代には、価値あるものと
はみなされていなかった。 またシェバの女王には「あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたう
わさよりはるかにまさっています。」と言わしめた。  彼には王妃としての妻七百人、そばめ三
百人があった。(T列王記10:21、7,、3)  世の人がうらやむような すべてを得た。 当時、
「世界はソロモンのものだった。」と言っても過言ではないくらい繁栄を謳歌していた。
 
ところが、ソロモンの後半生は、神から離れ、与えられた知恵と富を自分勝手に用いて生きる
ようになった。 妻たちの意向に応え、妻たちが慕う偶像の神々に従い、高き所を築くことまで
してしまった。 信仰を捨てたがゆえの崩壊は始まっていた。 表面は繁栄を極めていたが、ソ
ロモンの心の中は満たされていなかったようである。 彼が記した「伝道者の書」に彼の心情
が書かれている。 ソロモンが行き着いたところは、「創造主、主なる神」であった。 「神を恐
れよ。神の命令を守れ。」であった。 晩年に書かれた「伝道者の書」を見るとソロモンは晩
年、悔い改めたようである。 ソロモンにとって80年(一説には110年)は、あっという間だった
かもしれない。 特にソロモンの治世40年は、様々な出来事、経験が多かったが、その「時」を
過ごしているときは、長いと感じていたかどうかはわからないが、自分の人生を回顧しながら
「伝道者の書」を記しているときは、「時」の過ぎるのが早いと痛感したことだろう。 
 
著者は今のところ、まだ寿命が終わろうとしていない人生の途中経過ではある。 苦難の中に
いたときには、時が過ぎるのを、「長く」感じるものであるが、それでも今までを振り返ってみる
と、「早かった」と感じる。 主の喜ばれることが何もできていないと、一瞬、あせる思いも出て
来るが、主と主のことばに目を留めなおしている。 今に至るまでずっと祈っていることが「成
就」していない状態で、「待つ」ということに関しては「長く」感じる。 しかし、一方で一週間が
過ぎるのは、本当に「早く」感じる。 反対ならばいいのにと思うが・・・。 いずれにしても、神
は、我々が、どのように感じようが、一人一人「神の子」に対して計画を持ってくださっている。 
我々が何か計画していたとしても、主なる神は、いつも我々の予想や考え以上のことをなされ
る。 我々の願いをはるかに越えてなされる。(箴言19:21)
 
ソロモンは晩年、それも人生の終盤になって、「神はすべてのことを清算される方である」こと
を知って、正しい神への恐れ(畏れ)を回復した。 そして、日の下だけではなく、後の世(永遠)
があることを知って、へりくだったようである。 我々は、すでに「聖書」という「神のことば」が与
えられ、真に求める者には「聖霊」という神の霊が導いてくださる時代に存在している。 だから
我々は、ソロモンほどの経験をしなくても、とにかく「失敗の人生だった」ということのないように
したいものである。 たとえ、莫大な財産を持ち、地位や名誉を得、多くの社会貢献をしたとし
ても、また細々と慎ましく暮らし、人から誉められるような生き方をしたとしても主なる神から離
れた人生であれば、天の御国と何の関係もなくなってしまう。 それこそ、ソロモンが言う「空の
空」である。
 
感謝なことに、現代に生きている我々には、今も生きておられる主イエス・キリストがおられる。 
イエス・キリストは、神のない空しい人生から我々を救い出すために、十字架で我々の罪の身
代わりとなって死んでくださった。 この主イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、神との交
わりを回復して、天の御国に通ずる歩みをすることができる。 その道には、一人一人に応じ
た苦難、訓練、試練があるが、その道を歩む者は、本当の喜びに満ち溢れた人生を歩むこと
が出来る。 著者においても、後残りのこの地上での歩みを神が、どのようにご計画されてい
るかは、わからないが、主が定められている通りに進んでいきたいと願っている。 そして、人
生の終わりが来たとき「私の人生は、あっという間に終わろうとしている。 しかし私は主に感
謝する。 主を褒め称える。 私の人生には、主が共におられた。」と言えるようになりたいもの
である。 決して「しまった。 主から離れなければよかったのに。 もう遅い。」というようなこと
がない生き方をしたいとつくづく思い願っている。 
 
そのためにも、日々、主の御前にへりくだって祈り、真剣に主のみこころを求めていきたいもの
である。 そして、ますますキリストとの交わりを深くしっかりとしていき、永遠のいのちである主
イエス・キリストを知り、主と共に親しく歩み、この地上の人生においても後の人生においても
主と共に歩み楽しみたいものである。(Tヨハネ5:20) 
 
★新約聖書 マタイによる福音書 16:26
   人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
   そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
 
★旧約聖書 詩篇 144:4
   人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。
 


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