めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年9月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
追い込まれて尋常でない苦悩のところからの深い祈り



★旧約聖書 詩篇 34:18
   主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
 
★新約聖書 ヤコブの手紙 4:8
   神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
 
★旧約聖書 詩篇 57:15
   わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人
   の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
   
●窮地に陥った女性の信仰と祈りについて思考してみた。 旧約の士師時代の終わりの頃。 
イスラエルの偉大な預言者、士師サムエルの母ハンナの場合。 当時、女性にとって子を
生むことは重要な役割だったがハンナは、第一夫人(正妻)でありながら、子どもがいなかっ
た。 それは屈辱的なことであった。 その上、夫エルカナの寵愛を受けていたというので、
息子や娘たちをエルカナに生んだエルカナの第二婦人ペニンナから、嫉まれ敵視され、嫌
がせを受けて、ますます苦しみの渦の中でもがいていた。 
 
ある年、一族でシロに礼拝に行ったとき、ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣い
た。 そして、「もし、男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげしま
す。」と誓願を立てた祈りをした。 時間を忘れて祈り続けたが、何故か、大祭司のエリには
酔っぱらいと勘違いされた。 静粛で厳粛な祈り方ではなく、見苦しいほど一心不乱に必死に
祈っていたからでははないだろうか。 誓願はその通り果たされた。 主がその祈りを聞いてく
ださったからだ。 そしてその誓願さえも、無謀に思いつきや策略で立てたのではなく、神の霊
の導きによって立てられたものだからである。 その誓願を果たすのに、ハンナは、ようやく与
えられた子どもと離れ離れに暮らすことを悲しんでいない。 むしろ、主なる神に感謝し褒め称
えている(Tサムエル記2章) 本当に胸を抉り取られるような心の痛みを抱えたところからの
祈りは、次元が違う。 深い。
 
マタイによる福音書15章に書かれているカナンの女の場合。  しかし、その女は娘が悪霊に
取り憑かれて苦しんでいたので、イエスに悪霊を追い出してくれるよう頼みに来た。 しかし、イ
エスは何も答えられず、弟子たちは、「追い払ってください。」とイエスに願う始末であった。 弟
子たちがそう言うのも致し方ない。 かつて神はイスラエルの民に対してカナン人を全滅するよ
うに命じられたほど不品行と汚れに満ちた地であり、神から離れた人たちだったからだ。 その
カナンの地の女が 神から何かを願うのは、当時では筋違いというものだったからだ。 
 
それでも、女はあきらめなかった。 恥も外聞もなく叫び求めた。 なりふり構わず、必死に主
イエスに求めた。 その叫びは、彼女にとって必死の祈りだった。 すると、イエスは答えて、
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。  し
かし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずは
いただきます。」
 
このことばを聞かれたイエスは「あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
言われ、娘をいやされた。 正しく真の神に向かった必死の叫び、祈り、信仰は、上からの知
恵さえ与えられる。 イエスは、カナンの女がどのような状況であれ、「イエスは救い主」「主イエ
スしかおられない」と信じ、本当に胸を抉(えぐ)り取られるような心の痛みを抱えたところから
の祈りをもって、すがり続け叫んだ。 やはり、次元が違う。 深い。
 
主が良しとされる「信仰」も「祈り」も「知恵」も主のあわれみによって主が、与えてくださった、も
しくは引き出してくださったものではないだろうか。 ハンナの場合、「主が彼女の胎を閉じてお
られた(Tサムエル1:6)」と書かれている。 カナンの女の場合、女の必死の訴えに「一言もお
答えにならなかった。」「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされてい
ません。」(マタイ15:23、24)と書かれている。 そこには、神のご計画、神の采配があったと思
われる。 何と、主イエス・キリストの御心は深いことか。 神の恵みと祝福を与えようと一人一
人に応じて、ご計画され、働いてくださっているからだ。 
 
彼女たちの祈り、叫びは受け入れられた。 尋常でない苦悩は、無駄になっていない。 むし
ろ、苦しんだからこそ、心底から、霊の深いところからの祈りを引き出していただいたのかもし
れない。 本当に、追い込まれて追い込まれて、どこにも持って行きようがないくらい苦しんで
苦しんだところから祈る祈りがある。 その祈りには打算もなく、自己を押し通そうとするものも
ない。 心をすべて注ぎ出した、そのような次元の祈りがある。 霊の深いところからの叫びに
も似た祈りがある。 しかも、その祈りを、闇雲に祈るべき対象を見失ってするのではなく、き
ちんと真の神に向かってする深みの祈りの次元がある。 
 
神の恵みとあわれみの采配を受けることができる者は幸いである。 祝福に与るために神の
ご計画の中にある者は幸いである。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル16
:7)」「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:3)」と書かれている。 
 
心の奥底まで主に清めていただくことが大切であろう。 日々の生活の中で、主の主権を認
め、主の前に自分の弱さ、むなしさを徹底的に知り、主イエス・キリストに全面的に委ねていく
生き方、すなわち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。 
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6
   信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、
   神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。



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