めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年8月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
信仰の継承>



★旧約聖書 申命記 6:6,7
   きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなた
   の子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これ
   について語らなければならない。
  
★旧約聖書 箴言 22:6
   若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

●今日、日本のクリスチャン人口は約1%に満たないといわれているが、この数字は何十年
も変わっていないようである。 31年前、著者がクリスチャンになった頃、同じ数字を聞いた記
憶がある。 ということは、キリスト教信仰は、二代目、三代目と「信仰の継承」が順調にいって
ないと言えるかもしれない。 「信仰の継承」とは、神からの恵み、祝福、特権だけでなく、「霊
性の継承」がある。 この霊的な事がらが、一番、重要と言っても過言ではない。 
 
人祖アダムとエバの場合、長男カインが次男アベルを殺したため、三男セツが受け継いだ。 
ノアの場合、セム、ハム、ヤペテのうち、セムに「信仰の継承」がなされた。 アブラハムの場
合、アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと「信仰の継承」は、様々な出来事はあった
ものの比較的、順調にいき、明確だった。 モーセの場合は、モーセの妻チッポラはミデアン
人であったので、子どもたちは混血児ということもあってか、「信仰」はヨシュアに受け継がれ
た。 もちろん、モーセの子どもたちも、神への「信仰」は持っていたと思われるが、
イスラエルにおいて、「信仰の継承」は、個々の家庭のことだけでなく、国家の存続と繁栄、
祝福ということがある。 だから、ヨシュアがイスラエルを導いていくためにモーセの「霊性」を
継承した。
 
さて、個々の家庭の「信仰の継承」において悲惨なのは祭司エリの家庭である。 エリの家は、
当時、イスラエルにおいて大祭司という最も重要な家系だった。 祭司は世襲制だったので、
当然、エリの息子が「祭司職」を受け継いだ。 ところが、息子たちは、祭司の職権を利用し
て、主へのささげ物を搾取し、また不道徳な悪行を繰り返しては聖所を汚し、大きな罪を犯し
ていた。 神からの「信仰、霊性」は継承されていなかった。 
 
父親でもあるエリは、息子たちを戒めはしたが、神から「・・・またあなたは、わたしよりも自分
の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分た
ちを肥やそうとするのか。(Tサムエル2:29)」との叱責を受けた。 息子たちがもっと幼い時
に戒めておくべきだった。 エリの息子たちに関しては、大人になって叱責して戒めても、すで
に時遅しであった。 考えさせられるところである。 その後、エリの家は滅んだ。 「信仰、霊
性」も途絶えた。 しかし、イスラエルのため「信仰の継承」(働きの継承、霊性の継承)はサ
ムエルになされた。 サムエルは、祭司エリ以上に偉大な働きをした。 ところが、サムエル
は、エリの生涯から学んでいたはずだが、サムエルもまた、エリ同様、子育てに失敗した。 
「信仰の継承」は難しいものである。 
 
著者の場合。 主イエスへの想いが深まってきた頃、思い願ったことは、「子どもに命をかけた
キリストへの信仰を受け継がせたい」というものであった。 当時、信仰を反対されていた未信
者の家族に、「子どもは聖書を基準にして育てます。」と宣言した。 その後、祈って祈って取
り組んではきたが、今、改めて振り返って思い出してみれば、主に関すること、聖書に関するこ
となどで、「強要」「押し付け」じみたことも多々あったと思われる。 子どもたちを、みことば通り
に歩ませたために、子どもたちが傷ついたこともあったと思われる。 失敗も多々あったことは
事実である。 しかし、それを悔いて落ち込むことはない。 なぜなら、当時、必死で祈って取り
組んできた。 必死で主の導きを求めていた。  主は、そのことをご存知である。 
 
だから、むしろ、完全でない、失敗と思われるようなことでも、主は子どもたちにとっても著者に
とっても益に変えてくださると、本当にそう思う。 子どもに「信仰の継承」「霊性の継承」をさせ
ることは、子どもであっても、一人一人が神との直接的な関係を持たせることが重要であると
考えている。 そのためには親である著者が、しっかりとした主との直接的な関係を持ち続け
ることが必要であると考えてきたし取り組んできた。 また、子どもには苦労をさせたくない、苦
しみを通らせたくないという親心は、脇に捨てなければならないことも痛感している。 親も子
も、苦労なしに、苦しみなしにすんなりと「信仰、霊性」は継承されるものではない。 確かに、
主は「家」「家族」単位で見ておられるが、それでも、神と人との一対一の関係が最優先であ
る。 キリストと子どもが一対一で、直接的なつながりを持たせることが、「信仰の継承」「霊性
の継承」と考えている。 そして、このことは、子どもが大人になったから終わりというものでは
ないと考えている。 この地上に生きている間、 「信仰、霊性」を受け継がす側として、主イエ
ス・キリストにつながり続け、祈りつつ見守っていくことも「責任」の中の一つと考えている。 そ
の中で最大のことが、子のための祈り」である。 「祈り」こそが、一番必要かつ重要である。 
 
詩篇127:3見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」と書かれているが、ここ
 賜物」は、原語では「相続地、嗣業(しぎょう)」とも訳されるという。 だから子どもは主から
の報酬であると共に、子育てには、責任が伴う。 「信仰」を受け継がせていかなければならな
いからである。 神から与えられた相続地では、神の導きと教えによって生きなければならな
いという責任があった。 そうでないと根絶やしにされてしまうからだ。 子育ても同じで、神の
導きと教えによって「信仰」を受け継がせなければ、神から与えられた「信仰、霊性」が根絶や
しにされてしまう可能性がある。 
 
ヨシュアは「私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:15)と宣言した。 ヨシュアは神から与
えられた相続地を子どもに継がせるだけでなく、「信仰、霊性」を子どもに受け継がせる責任を
負うという宣言でもあった。 主にあって育てなければ、子どもは、すぐに「世」に奪われてしま
う。 「世」の支配者がサタンだから、「世」は強いのである。 出エジプトしたイスラエル人たち
が、自分たちの思うようにならなければ、すぐに真の神を捨て、偶像礼拝へ走ったように、子ど
もは、すぐに「世」の方へ行ってしまう。 「世」は魅力的なのである。 欲望を満たすものが満ち
ているのである。 子育てとは、神に対して責任が伴うものである。 「主にあって子どもを育て
る」ことは、いつの時代でも「信仰」を継承させる責任が伴っており、本当に難しいものである。 
 
それでも、「信仰の継承」「霊性の継承」は、この地上だけで幸せに暮らすためというのではな
く、神のもとへ行くための備えであるから、真剣に取り組んでいきたいものである。 パウロの
弟子、テモテの「信仰」は、最初、祖母ロイスと、母ユニケのうちに宿ったもので、テモテに受け
継がれた。(Uテモテ1:5) 二代目、三代目と続くことは、神の祝福である。 どのように「信仰
の継承」「霊性の継承」をさせていくかは、一人一人、主に尋ね求め、主の導きを得ていくのが
最善であろう。 
 
いずれにしても、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神の子として
訓練されながら、御子イエス・キリストにあるものを受け継ぎ、すべての良い働きのためにふさ
わしい十分に整えられた者と
していただきたいものである。
(ヘブル12章、Uテモテ3:17)
 
★新約聖書  コリント人への手紙 第二 4:18、5:1、7
   私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時
   的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 私たちの住まいである地上の幕屋
   がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手に
   よらない、天にある永遠の家です。・・・ 確かに、私たちは見るところによってではなく、信
   仰によって歩んでいます。
 


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