めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年8月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<聖書の改ざん、誤訳は問題というけれど・・・>



★旧約聖書 エレミヤ書 1:12
   すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見
   張っているからだ。」
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:25
   しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ
   伝えられた福音のことばがこれです。
 
★新約聖書 マルコによる福音書 13:31
   この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
  
●「聖書」は、紀元前1500年ごろ、まず、創世記がモ−セによって書きはじめられ、約1600年も
の長い時間をかけて出来上がった。 約40人もの著者が神の霊感を受けて、聖霊に導かれて
書いた66巻の書物が、ひとつにまとめられた。 当時の自分たちの民族の言語を用いた。(ギ
リシャ語、ヘブル語、アラム語) だから本当は、聖書を解釈するには、原本(原典)から解釈さ
れることが望ましい。 しかし、皆がみな、ギリシャ語、ヘブル語、アラム語を知っているわけで
もなく、勉強しようとしても なかなかいろいろな理由でし辛いものであろう。 著者もトライして
みようと思ってはいるが・・・・。 今は、重荷を持って、主から働きを担っておられ、原語(原典)
ができる方々の助けをいただこうと思う。 ただ、その場合も、祈って、聖霊の導きに従いたい
と思っている。 
 
「聖書の改ざん」ということをずいぶん前に聞いたことがあった。 つい最近、調べものがあって
ネット検索をしていたら、「聖書の直訳」に関するHPがあったり、「ネストレ版の改ざん本文に基
づく「疑似聖書」が広まっていった」などと書いているHPがあった。  それらを読んでいくうちに
思ったこと。
 
確かに、それらの方々が主張しておられるように、意図されているいないに関わらず、「改ざ
ん」「誤訳」はあり得たことだと思う。 主を攻撃したサタンが、「聖書」に攻撃をかけないわけは
ない。 そして、「改ざん」も「誤訳」もない「聖書」を読めることに越したことはない。 しかし、今
までの本当に主が喜ばれたと思われる日本のクリスチャンたちも、「改ざん」「誤訳」されている
といわれている「聖書」を読んできたと思うが、彼らの信仰は見上げたものであった。 斉藤宗
次郎(めんどり通信No、0007、0344)、枡崎外彦(No、0345)、多くの殉教していったクリスチャ
ンたち。 有名ではないが主が「良し」とされた数え切れないほどのクリスチャンたち。 彼らの
ほとんどは、「聖書」を原語(原典、原文)では読んでいなかったと思われる。 それでも彼ら
は、この地上では困難、苦難の連続であったが、天の御国へまっしぐらだった。 
 
すべてのことは、父なる神の御ゆるしがなければ起こりえない。 だから、「聖書」が「改ざん」
「誤訳」されることを主はご存知だったと思われる。 それらを通してクリスチャンを試されたり、
他に何かご計画を持っておられたかどうか明確なことはわからないが、たとえ、「改ざん」「誤
訳」がある「聖書」からでも、主のいわんとされることを悟ることはできるし、主が「良し」とされた
数え切れないほどのクリスチャンたちは悟った。
 
ある一つのHPの中に、こう書かれていた。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもその
ようにしなさい。(新改訳ルカ6:31)」のことばが誤訳であるという。 ちなみに、口語訳では「人
々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」 新共同訳では
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」である。 この箇所の直訳からの翻訳は
「あなた方はこう願い続けなさい。人びとがあなたに行なおうとしている事を、そのままあなた
が彼らに行えるように。なるという。 一般の翻訳は、いずれも「自分が人にしてもらいたい
行為を、そのまま人に施す」ように訳され、直訳では「他人があなたに行おうとしている行為
をそのまま正当に行うその人にお返し出来るように神に願え」と言う意味だという。 言い換え
るならば「人にされた事をそのままお返し、あるいは仕返し出来るように神に願え」という意味
だという。 
 
人は生まれながらの「善人」はひとりもいなく、むしろすべての人が、「罪人(悪人)」である
というところから語られているのが直訳の方であるという。 オバデヤ書1:15に「・・・あなたがし
たように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」とあり、レビ記24:20
「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなけれ
ばならない。」とある。 また、エステル記の内容は、オバデヤ書1:15、レビ記24:20のことば通
りである。 本当に「自分の願っている事を人に行う事」が正しいなら、人間は根本は堕落して
いないということになるという。 人間はすべて「罪人」という主なる神の見方とは違ってくる。 
 
確かに、人は主によって変えられ、主なる神を基準にして初めて本当の「善」が行なえる。 
(肉:生まれながらの)自分を基準にして、善を行なっても、それは神が「良し」とされるとは言え
ない。 著者が何度もこの箇所を読むたびに、文字通り、すなわち、「自分がしてもらいたいこ
とを、人にする」ことに抵抗があった。 自分にしてもらいたいことが、人にとって最善とはいえ
ないからである。 自分のことも人のことも主がご存知だから、人に何をすべきか、どうしてあ
げるべきかは、主に尋ねてするのが最善と思っていた。 いずれにしても、主を基準にして、
みことばを受け取るべきだと今も考えている。
 
これらのHPを読んでいるうちに、今までの信仰生活の中で、いろいろな体験、経験を通して、
主が直接、教えてくださったことが、どれほど貴重なものか、ということがよくわかった。 今ま
での様々な出来事、体験などを通して教えてくださったこと、悟らせてくださった多くのことには、
聖書のみことばで裏づけを主はくださった。 それらの聖書の箇所が、もしたとえ「改ざん」され
た箇所であったとしても、その箇所のみことばで主が言わんとされていることを悟らせていた
だいていたとわかり、改めて主が生きておられることを痛感し、主に感謝した。 
 
「改ざん」、「誤訳」されていない「聖書」を読むことは、大事なことかもしれないが、それ以上に
大事なこと、重要なことは、一人一人が直接、キリストとしっかりつながっていることであると改
めて思った。 「聖書」の著者は神ご自身である。 だから、たとえ、どのようにサタンが「聖書」
を攻撃しようとも、主なる神ご自身が、「神のことば」を守られるだろうし、守られてきた。
「神のことばは永遠に立つ(イザヤ40:8)」と書かれているとおりである。 
 
聖書は、一文一節だけからでなく、前後の文脈の流れや聖書全体から神のみこころを知るこ
とが必要である。 いずれにしても聖霊の導きが必要である。 すべてをご存知の主は、求め
てくる一人一人に応じて、悟らせてくださる。 とにかく絶えず、主イエス・キリストから目を離さ
ず、主の御前にへりくだって祈り、真剣に「みことばをください」と求めていき、神のことばである
「聖書」を読んで、主のみことばが、生活の中で実際、事実、現実となるよう求めていきたいも
のである。 そして、一人一人に示してくださる道を歩んでいきたいものである。

★新約聖書 ペテロの手紙 第二 1:20
   それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみ
   な、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
 
★新約聖書 テモテの手紙 第二 3:15-17
   ・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせるこ
   とができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓
   練とのために有益です。 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十
   分に整えられた者となるためです。
 
 



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