めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年5月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
キリストの御名の中にとどまる者たちが和合して共におることができる




★旧約聖書 詩篇 133:1-3
   見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは(和合して共におるのは)、なんというしあ
   わせ、なんという楽しさであろう。 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それ
   はひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。 それはまたシオン
   の山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じら
   れたからである。

★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

★新約聖書(口語訳)  ヨハネによる福音書 15:9
   父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちに
   いなさい。

●「教会」の意味は、ギリシア語のエクレシア「(神のみ旨と業を行うため)召し出された者たち」
「集会・集合」である。 教会とは、本来、クリスチャンたちが、和合して共におるところである。 
また、尊い油、すなわち聖霊の働き、みわざのが現れる隅々にまであるところである。 実
際、教会が誕生したときには、ローマの占領下にあり、いつどうなるかわからないという時代
だったので、クリスチャンたちが資産や持ち物を売って平等に分かち合いなどをするという愛
の一致が見られた。

時代は変わって、事情が変わってきたとしても、また、現われ方が違うにしても、本来、神が望
まれるのは、そのような愛の一致が見られる「教会」である。 しかし、クリスチャンたちが「和
合する」「一つになる」ことは、麗しいことであっても、実際は難しいものである。 そもそも人が
「一致すること」「一つになること」は難しいものである。 人が十人いれば、十の感情、考え、
思いなどの基準がある。 十の個性がある。 それぞれが少しずつ我慢して、「一致すること」
に努めたとしても何かあれば、我慢できなくなり感情がぶつかり合う羽目になる。 たった二
人だけでも「一致すること」、まして「愛によっての一致」ということは難しいものである。 

人が生まれつきのままの状態では一致が出来ないことは、神の方がよくご存知である。 だか
ら主の方が真に主イエス・キリストを弟子たちと弟子のことばを聞いて主イエス・キリストを信じ
る者たちのために、御名の中に保ってくださるよう、聖め別ってくださるよう、父なる神にお願い
してくださった。(ヨハネ福17:11、17-23) だから、我々がすべきことは、キリストの御名の中
に自分を保つために、聖くなることである。 聖くあるためには、主イエスが言われたように「真
理のみことばによって、聖め別たれる(ヨハネ福17:17)」
ことが必要である。 ヘブル人への手
紙4章12節
には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節
と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができま
す。」
と書かれている。 だから、常にみことばに触れていることは重要である。

最近、ある姉妹に聞かせるために聖書を音読して録音しているのだが、気づいたことがある。 
黙読するのとは違って、聖書のことばが、心の深いところに入ってくる感じを受けた。 例え
ば、「主は生きておられる」ことは、重々わかっていることであり、様々な体験を通して何度も悟
り、感じたことであるが、いままでと違う、もっと深いところで言葉には言い表せないほど「主は
生きている」と痛感した。 音読しながら、「主はすごい!主はすばらしい!」と深いところで感じ
るのだ。 音読するたび、毎回毎回ではないが、そういうことが結構、多くあった。 今は「創世
記」から始まって「コロサイ人への手紙」まで音読の録音は進み、もうすぐ終わるが、また最初
から読む時に、音読をしようと思った。 いずれにしても、確かに「神のことばは生きている!」

さて、我々が絶えずみことばに触れて聖められつつ、いつも「ぶどうの木」である主イエス・キリ
ストにつながっているなら、「和合する」ことは可能である。 キリストの御名の中で、すなわちキ
リストによるならば「和合すること」「一致すること」「一つになること」は可能である。 みことば
に触れて聖められていくことは、「キリスト」を知ることである。 主イエス・キリストを個人的に、
体験的に知って、そこから生じる信仰が本物の信仰であろう。 ただ「信じる」と口に出して言う
だけではない。 キリストにつながっているから、個人的に、体験的にキリストを知っていくこと
ができる、とも言える。 

とにかく、主と主のことばの前にへりくだり続けることである。 日々絶えず、主イエス・キリスト
から目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れ
に乗り続けていきたいものである。

★新約聖書 第一ヨハネの手紙 1:3
   私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交
   わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストと
   の交わりです。

★新約聖書 第一ヨハネの手紙 5:20
   ・・・それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるので
   す。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 17:3
   永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエ
   ス・キリストとを知ることであります。






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