めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年4月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主が語られたことばは、自分の計画や思いや考えを捨てて受け取れ!>




★新約聖書 ヤコブの手紙 1:21
   ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すな
   おに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

★旧約聖書 申命記 10:16
   あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

●神が選ばれたイスラエルの民。 イスラエルは、「すべての国々の民のうちで最も数が少な
かった
」から神はあわれみと愛をもって選ばれた。(申命記7:7) イスラエルの民は、「祭司の
王国、聖なる国民となる」
という使命が与えられた。(出エジプト19:6) 祭司とは、神と人々と
の間の仲立ちをする者である。 だからこそ、イスラエル人は神に従順に従っていくべきである
が、旧約聖書を見ると、イスラエルの民は神に背いて偶像礼拝をしたり、神に立ち返ったり、ま
た道を逸れたり・・・などと繰り返してきた。 それはイスラエル人だけの問題ではなく、新約時
代の我々クリスチャンの問題でもある。 アダムとエバ以来のすべての人が罪人だからであ
る。 現実を直視できず、楽な方へ逃げようとする人の本質があるからだ。 

さて、エレミヤ書でユダ王国末期のゼデキヤ王とユダヤ人について見てみる。 ユダ国のヨシ
ヤ王がメギドでエジプト王に敗れてから、ユダはエジプト王の支配下に入った。 そのエジプト
はユーフラテス川畔カルケミシュでバビロンを打ち負かしたが、エルサレムには侵入していな
かった。 エレミヤ時代は、神の民イスラエルが、アッシリアとバビロンとエジプトの3つの大国
間にあって、揺さぶられる時代だった。 ゼデキヤ王の治世の始め、ヨシヤの子、エホヤキム
王は、第一次バビロン捕囚の人質としてバビロンに連れ去られた。 当時、ユダとともに周辺
諸国もバビロンから圧迫を受けていたので、エジプトの支援を背景に同盟を結成した。 

エジプトの力を頼り、バビロンの支配に抵抗しようとするユダの王ゼデキヤや近隣の国々に、
エレミヤは、バビロンに降伏して生きるようにと神のことばを伝えた。(エレミヤ書27章) ゼデ
キヤは、最初から勧告していたエレミヤに相談したりしたが、結局は神のことばを受け入れな
かった。(エレミヤ書21:1^7、37:1^10、31:17,18、38:14^23) エレミヤの度重なる勧告のこ
とばを気にしたのか、はたまた包囲された町を守るのに人手が必要だったのかどうかはわか
らないが、ゼデキヤ王は、エルサレムにいるすべての民と契約を結び、奴隷の解放を宣言し
た。 しかし、救援のエジプト軍がエルサレムに近付き、バビロニア軍は一時的と考えられる
が、包囲を解くと、ゼデキヤは奴隷解放を取り消した。 ユダヤ人たちもその神との誓いを翻
し、再び解放した奴隷を使役した。 

それで、神は「剣と疫病とききんの解放」の裁きを宣言された。 当時、ユダの民も支配者たち
もみな堕落していた。 主の正義はなく、貧しい者や弱い立場の者は虐げられ、姦淫、偶像礼
拝が蔓延っていた。 また、エレミヤが指摘したように、エルサレムの主の神殿そのものに信
頼をおいて、のんきに構えていた。 王も支配者たちも民も、神のことばを聞いて一時は従って
もそれが続かない。 途中で心を翻してしまう。(エレミヤ書34:8^17) 

神がエレミヤを通して厳しいことばを語られたのは、彼らを生かすためであるのに、彼らは皆、
自分の思いや願い、考えを優先した。 ゼデキヤ王もユダの民も神のことばに対する態度が、
自分中心であることがわかる。 自分中心であるから、目の前の状況に左右される。 ただ、
目の前の状況に左右されるようなことは彼らの問題だけではなく、ともすれば我々にもありが
ちなことである。 

目の前の状況に左右されないために、先ず、神が何を語られているか、主のみこころは何で
あるのかを優先すべきである。(エペソ5:17、ローマ12:2) 自分の心の奥底に、頑として放し
たくない自分の願いや思いがあると、主と主のことばに対して浅はかになる。 主なる神以外
を基準にするなら、神のことばを心底まで受け入れることは難しい。 「生まれながらの人間
は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、
それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからで
す。(Tコリント2:14)」
と書かれている。 

自分の目で見れば、幸いどころか苦しみしか感じることができないような状況の中でも、与えら
れた約束の主のことばは、「その通りになる!」ということをしっかり握ることができる者は、幸
いである。 目の前の状況で判断せず、神の主権を見て、神が自分とともにおられることを
確信できる者にとって、「失望」ということばは無縁である。 どのような状況にあっても、キリス
トにしっかりつながり、主イエス・キリストが生きておられることを信じ、キリストへの信頼を失わ
ないようにしたいものである。 そうするなら、神が我々のことに責任を取ってくださる。 そし
て、人生の最後のゴール地、天の御国まで導いてくださる。 

先が見えないときであっても、「神にとって不可能なことは一つもありません」と、生きておられ
る主イエス・キリストに目を留めて、目の前の状況に左右されないように、日々、主の御前にへ
りくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていきたいものである。

★新約聖書 ローマ人への手紙
   聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

★旧約聖書 箴言 19:21
   人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

★旧約聖書 詩篇 26:2
   主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。






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