めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年4月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<終末だからこそ先に救われている者たちが尚尚すべきこと!>




★新約聖書 使徒行伝 16:30,31
   そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませ
   んか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族
   も救われます。」と言った。

★新約聖書 ルカによる福音書 23:28,29
   しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしの
   ことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさ
   い。 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房
   は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。

●日本のクリスチャン人口1%未満の現状では、家族が全員、主イエス・キリストを救い主とし
て受け入れている家は少ないであろう。 家族の中で一人だけ、もしくは数人だけがクリスチャ
ンという家が多いと推測される。 また、家族全員クリスチャンであっても、キリスト教会側の問
題があったり、他様々な問題、理由などから、家族が一致できなくなったという家も多々あると
思われる。 そういう状況の中で、先に救われた者たちにとって、「主イエスを信じなさい。そう
すれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
という御言葉は、慰めであり、励ましである。 

ただ、この御言葉は、家族の中で誰か一人が救われたら、自動的に自分の家族がみな救わ
れるというのではない。 ギリシャ語のわかる人によると、もとのギリシャ語からするなら、「主イ
エスを信じなさい。そうすればあなたは救われます。あなたの家族も。」
と訳せるという。 「あな
たの家族も」
という句のギリシャ語は、看守の信仰が彼の家族を救ったという意味ではなく、彼
の身に起きたことと同じことが家族にも起こるチャンスが開かれていたという意味であるとい
う。 ギリシャ語の文法からみると、「救われます」という動詞の強調点は「あなたの家族」よりも
「あなたの救い」、すなわち看守自身の救いにあるという。 パウロは「信じなさい」という命令も
「救われます」という約束も看守に向かって語っているのだという。 

結局、一人一人がイエスを主としなければならないということだ。 「信じる」ということは全く個
人的なことである。 代理はきかない。 看守の家族もそれぞれが、看守と同じように主イエス
を信じるならば、救われる。 ローマ帝国の権威の下にある獄舎の扉がすべて開き、残された
道は自害のみ、と追い詰められた時、看守は救われた。 看守は、突然の大地震と囚人たち
が逃げてしまったという衝撃、しかし誰一人逃げなかったという奇跡的なことがほぼ同時に一
瞬に起きたことによって、神の御前に立たされた心地になったと考えられる。 「先生がた。救
われるためには、何をしなければなりませんか。」
ということばから伺える。 この30節31節
先生がた」と「主イエス」の「主」は同じギリシャ語が使われている。 これこそ、大いに心打ち
砕かれた者の姿である。 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」のことばを聞いた
看守はパウロとシラスの言葉を聞くため、家族を集めたと思われる。 「そして、彼とその家の
者全部に主のことばを語った。 (使徒行伝16:32)」
と書かれている。 家族の一人一人も看守
と同じように大いに心打ち砕かれ、へりくだった。 看守も家族も短時間での出来事の中では
あったが、主イエス・キリストを信じ救われた。 

理想は家族全員が救われ、一致して主に仕えることである。 また、これは主が望んでおられ
ることでもある。 聖書をみるとき 神は一人一人を見てはおられるが、家族単位、家単位に
重点を置かれているのがわかる。 日本の場合、江戸時代から続く檀家制度、家意識などが
強く、冠婚葬祭他、人生の節目節目に血縁関係によってお祝い事や祭り事があり、家族が全
員クリスチャンになることは、並大抵ではない。 

そのような中でも先に救われた者たちが、この救いは「人の永遠(死後、どこへ行くかというこ
と)」がかかっていることを真に知って「家族の救い」「家族のキリストにあっての一致」のために
祈ることが重要であろう。 ルカ23:28,29のことばは、エルサレムが西暦70年、ローマの軍隊
によって跡形もなく滅ぼされたことの預言だけでなく、終末であると言われている現代の我々に
も語っておられる。 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」と主
イエスは言われたが、キリストを信じていると言っても口先だけになっているのに、一度キリスト
を受け入れてクリスチャンになったから、何をしたとしても裁かれることなく、どうであったとして
も神の子だから天の御国に入れるなどと思い込み、高ぶっている自分に気づいて泣きなさい、
家族が主のことを聞いても受け入れず、無関心になったり、迫害しているなら、滅びに向かっ
ていることを泣きなさい、ということではないだろうか。 

本当に「救われた」というのならば、心の奥底から溢れてくるような言葉では言い尽くせないほ
どの真の感謝が出て来る。 また自分の考え方が変わり、生き方が変わってくるはずだ。 こ
れらのことはキリスト教の教えや御言葉を頭で知るだけでは決して得られないものである。 
イエスの十字架、主キリストを体験するということが不可欠である。 そのため、主は我々に訓
練、試練を与えて自我を砕き、肉を切り取り、キリストの苦しみにあずからせる。(ヘブル1
2:6^11、Tペテロ4:13)
 そうして、どのようなことがあっても真に神を信頼できるようになってく
る。 我々は、この地上に生きている間、そのようなことが一人一人に応じて繰り返されながら
清められ、成長していく。 我々はこの地上では旅人で天の御国への途上の者だからである。
(ピリピ3:12、ヘブル11:13) 

神は我々を通して家族も救いに与(あずか)ることを望まれているが、人が救われるのは神の
領域のことである。 基本「主イエス・キリストを信じる」ということに変わりはないが、それでも
「人の救い」は神の領域である。 一人の人がどのように救われるのか、はたまた救われたの
か、神がご計画を持っておられる。 神がご存知である。 救われ方には、一人一人に応じて
神の方法がある。 主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けて、主のために仕える歩み
方をして・・・。 そうできるにこしたことはない。 しかし、そのように順序良く進んでいけるとは
限らない。 主のために仕え、主に用いられたと思っていたら、谷に落とされたような経験をす
ることもある。 山あり谷ありである。 しかし、その度、主と主のことばに信頼する者を決して、
主は見捨てられない。 むしろ、山での出来事、谷での出来事、些細なこと・・・などを益にして
くださる。 人が考え望む理想は、早くから家族全員が救われ、キリストにあって一致して、こ
の地上で主に仕える時間を少しでも長く・・・ということかもしれない。 その通りになればよい
が、どうも皆がみなそうではないようだ。 神の計画があり神の時がある。

いずれにしても、先に救われた者は、「福音」「信仰」を伝える者である。 自分も「信仰」は神
から与えられたということを覚えて、家族にも「信仰」が与えられるよう、起こされるように祈ると
共に、主が自分をいつでも用いることができるように、ますます主イエス・キリストを体験的に
信じていくことが大切であろう。 主は生きておられるからである。 

終末であるといわれている現代、自分自身の信仰と家族の救いに今まで以上に目を留めるこ
とが必要になったのではないだろうか。 多くの「偽」「嘘」に惑わされないためにも必要であ
る。 祈っても祈っても、なかなか救われない、もしくは家族がキリストにあって一致できないと
いう壁が我々の前に立ちはだかっていたとしても、必ずその壁が崩される時が来る。 その
「時」が早く来るように祈りつつ、主にますます信頼を寄せた生き方をしていきたいものである。

★旧約聖書 伝道者の書 3:1
   天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:2
   私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わ
   せ、志を一つにしてください。






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