めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年4月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<サタンの「嘘」「偽」にご用心!>




★新約聖書 第二コリント人への手紙 11:14
   しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

★旧約聖書 詩篇 89:34
   わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6
   イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通し
   てでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

●終末に入ったといわれる現代、「わたしの教会をわたしが建てる(マタイ16:18)」と言われた
主のことばの実際が始まっているときかもしれない。 主が再建されようとされる教会は、全く
新しい教えや聖書解釈をするのではない。  「キリストからいただいた油が・・教えたとおりに」
我々は、「キリストのうちにとどま」っているなら、聖霊が「すべてのことについて」我々に教えて
くださる。(Tヨハネ2:27) 

岩であるキリストの弟子の二人もしくは三人が、神によって召しだされ集まっているその真ん中
にキリストがおられる、聖霊が働いておられる、それが主が言われる教会である。 そこには
人の考え、計画、予定が入る余地はない。 本来、聖霊の御声を聞いて進む道は 前が見え
ない。 だから祈る。 祈らなければ進めないからである。 ところが、厄介なことに神と神の民
の敵である悪魔は、それを阻止しようと全力で立ち向かってくる。 クリスチャンを神から引き
離す一番の方法は「嘘、偽」をいかにも「本物、真理」のように思わせ、つかませることである。 

神の民クリスチャンがまんまと敵にやられたなら、未信者に悪影響を及ぼすことになる。 「主
イエス・キリストの救い」や「聖書」のことばを伝えても、その解釈に「違った教え」を入れるな
ら、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」どころか、永遠の天の国へと向かう道
から逸れさす危険性がある。(Tテモテ1:3,4) 聖書は「しかし、私たちであろうと、天の御使い
であろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者
はのろわれるべきです。(ガラテヤ1:8)]
と教えている。 

聖書の中に「嘘」「偽」にまんまとだまされて、命を失った人のことが記されている。 T列王記
13章
で登場してくる神の人の場合。 この神の人は、主の命令によって、ユダからベテルに来
て、ベテルの祭壇に向かって主のことばを告げた。(T列王記13:2) そして、主の命令の務
めを終えて、ベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰途についた。 途中、一人
の老預言者が彼と会って、御使いが主の命令を受けて自分と一緒に引き返して、パンを食べ
るよう言われたと神の人をだました。 すると、彼は老預言者のことばを受け入れ一緒に引き
返し、老預言者の家でパンを食べ、水を飲んだ。 そのとき、この老預言者に「あなたは主のこ
とばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、・・・あなたのなきがらは、あなたの
先祖の墓には、はいらない。
」という真実の神のことばが臨んだ。 この神の人が最初に受け
ていた神からのことばは「そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た
道を通って帰ってはならない。」
ということだった。

一旦、語られた神のことばを最後まで握って従うことは、いかに難しいことかを見ることができ
る。 人から見れば、主の務めをして、素晴らしい働きをしたと見えても、最後まで「神のこと
ば」を握ることが出来るかどうかが鍵となるようだ。 サタンは「あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(Tペテロ
5:8)
」と書かれているように人の付けいる隙があるかどうかを探し回っている。 付け入る隙が
なくてもサタンは「偽」「嘘」を持ってくる。 微(かす)かでも見逃さないのがサタン、悪霊であ
る。 この神の人の場合は、ヤロブアム王が「贈り物をしたい」と言ったとき、「たとい、あなた
の家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。・・・」
という答えの中に彼の秘
めた欲の思い、願いが微かながらでもあった可能性がある。 「あなたといっしょにまいりませ
ん。
」という答えだけでよかったのではないだろうか。 本人が気づいていたかどうかはわから
ないが、それをサタンは見逃さなかったのではないだろうか。 それが、「偽」「嘘」のことばを
「神のことば」として受け入れる要因の一つになったと考えられる。  

「偽」を持ってくるのは、サタンの常套手段である。 それも真実の中にほんの少し 嘘を混ぜ
る。 神のことばに嘘を混ぜる。 本物の「神のことば」に混ぜたその「嘘」「偽」は、人がわき道
にそれるのに十分である。 エバは神のことばにほんの少しの嘘を混ぜたサタンのことばにだ
まされた。 神のことばがほんの僅か歪められただけだったが、アダムとエバは永遠の命から
離されることになった。 「嘘」「偽」の背後には必ずサタン(悪魔)、悪霊がいる。 「嘘」「偽」
は、ひとことで言うならサタンの称号である。 

確かに神は、サタンがだますこと、誘惑することを広い意味では許しておられるかもしれない。 
しかし、ただ、意味もなく許されているのではない。 そのことを無駄にはなさらない。 神は
我々の気づいていないかもしれない内側、主の喜ばれない心の奥に秘めた思い、肉の部分
を、神が試されることによって、人が気づくように浮き彫りにされる。 神が我々を試されるの
は、我々を聖め、信仰を堅くするためである。 また、神の試しを受けて「主の喜ばれない心の
奥に秘めた思い」が出てこない、すなわちその試しによっては問題ない者にとっては、試される
ことによる苦しみはキリストのためである。 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じ
る信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ1:29)」
のことば通りで
ある。(Uテサロニケ1:5、Uテモテ2:3、Tペテロ5:9) たとえ本物の「神のことば」に従うこと
の方が苦しくて、偽の「ことば」の方が安らかでも本物を放してはいけない。 「嘘」「偽」からくる
安心、平安は一時のもので崩れ去るものである。 去った後の神の裁きの方を恐れなければ
ならない。

いずれにしても我々がすべきことは、主によりすがることである。 試されたとき、様々な考え、
思い、感情が出てきたなら、それらをそのままにしておかないことである。 それらをキリストに
あって吟味していくことが大切であろう。 最初に明確に受け取っていた「神のことば」を最後ま
で握り続けて守っていくこと、従っていくことは重要である。 神はご自身が語られたことばを成
就されるために、ご自身のご計画を持っておられる。 しかし我々人は、神がなさることのすべ
てをあらかじめ知ることは難しいが、いずれにしても神は一旦語られたことばは、基本的には
変えられない。 だから、一旦、語られた神のことばに我々は絶えず、注目すべきである。 た
とえ、神が語られたことばが完了される途中経過の中で、神は「ことば」を変えられたのではな
いかと思われるような実情になったとしても、新たに語られた明確な「ことば」がない限り、最初
に語られた「ことば」に返るべきである。

我々は、サタンが持ってくる巧妙な「嘘」「偽」にだまされないために、いよいよ、本物である「主
イエス・キリスト」を本当の意味で知っていくことである。 主は、真に求める者にはわかるよう
に、一人一人に応じて、何らかの形で「嘘」「偽」を教えておられる。 そのためにも目をさまし
て、祈り続けること、すなわち主によりすがることを続けていきたいものである。 そして、主と
の深い交わりをしていき、主の語られることばを聞いて「嘘」「偽」を見破っていき、聖霊の流れ
に乗って導かれるまま進んでいきたいものである。

★旧約聖書 サムエル記 第二 22:29
   主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。






めんどり聖書研究会