めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年1月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<生かされた自分の霊によって主を見る!>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:27
   信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方
   を見るようにして、忍び通したからです。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:14
   すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなけれ
   ば、だれも主を見ることができません。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 17:24
   父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょ
   におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに
   下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

●イスラエル人は近隣諸国のように自分たちを治める「王」を求めて、「サウル王」が与えられ
たが、結局、サウルは神に背いた。(Tサムエル8:20、15:11) サウルが「王」として立てられ
る前、「・・イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師
記21:25)」 
当時、預言者サムエルは、人が人を奴隷にする王制に反対して民に考え直すよう
説得したが、イスラエル人たちは納得しなかった。 自分たちの意向を押し通そうとした。

イスラエル人が「王」を求めたのは、これが初めてではない。 これより前にも、ギデオンに
「王」になってくれるよう求めた。 ギデオンは「主があなたがたを治められます(士師記8:23)」
と言って断ったが、イスラエル人たちは、いつも目に見える「もの(人も含めて)」に頼り求めた。 
出エジプトをしたとき、モーセが神のことばを頂きに山に登って留守をしたときには、アロンに
「さあ 、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあの
モーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。(出32:1)」
と子牛を造って拝
み、祝宴を張った。 

王や指導者など「人」を偶像視し、金の子牛などの「像」を造って拝むなど、いつも目に見える
ものを信仰の対象にしていた。 「人」も「像」も、自分たちの思い通りになることを望んだ。 イ
スラエル人たちは、真の神 ヤハウェは、目に見えないことを知っていたはずである。 「神の顔
を見た者は死ななければならない。(出33:20)」と主が言われたことを知っていたはずである。 
それゆえモーセでさえ、その後ろ姿しか見ることを許されなかったのだから。

このようなことはイスラエル人たちだけの問題ではなく、我々の問題でもある。 人はどうしても
目に見えるものに影響されがちである。 しかし、聖書には「見えるもの」ではなく「見えないも
」に目を留めよと書かれている。 「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも
続くからで
」ある。(Uコリント4:18) ただ、この「見えないもの」も、見えないで終わるのではな
く、やはり「見る」必要がある。 肉眼で見るのではなく、「霊で見る」必要がある。 なぜなら、
「霊的な現実」は「霊で見る」ことにより、我々の生き方に大きな影響を与えるからである。 

「神は霊である。(ヨハネ福4:24)」 本来、神は「神に似せて彼(アダム)を造られ(創世記5:
1)」
た。 人の霊で、人は神と交わることが出来るし、神がなさるみわざ、みこころを真に見るこ
とができ、知ることができる。 しかし、サタンの誘惑に堕ちた人祖アダムには罪が入り、神と
交わる手段であった霊が去った。(=死んだ) 人は外側の肉の部分、すなわち肉眼で見る、
聞く、感じることでのみ生きる者となった。 人によっては、時には直感とか第五感が働くが、そ
れらでは決して霊的事柄に対する理解や悟りは得られない。 

旧約時代は、神がご自身のみこころを知らせるために、神の代弁者として預言者がいたが、イ
エスの十字架の死と復活により、それ以降はイエス・キリストを信ずることによって、人は再び
主と交わることができるようになった。 「霊的な現実」を「霊で見る」ことができるようになった。 
にも関わらず、人というのは、アダム以来の性質からか、ともすれば目に見えるものに影響さ
れる。 目に見えないこと、神からの霊、神の支配下にある霊のことは蔑ろにしてもサタンから
の霊、悪霊どもに関することには恐れを抱き、興味を抱く。 そして、偶像を造ったり、人を奉っ
たりして、結局、神から離れようとする。 人間の皆が皆 そのような者とは言わないが、そう
いう人間が多いような気もする。 救われる前の著者もその中の一人だった。 やはりアダム
以来の罪が入った肉の性質ゆえんであろう。 

それでも主なる神の方が我々人間をあわれんでくださって忍耐強く我々人をご自身の方へと
招いてくださっている。 我々は主イエス・キリストを肉眼では見ることはできないが、キリストが
現わされるみわざによる神の栄光は見ることができる。 主が語られたことばが成就すること
を見ることができる。 そして、それらを見たとき、それが単なる驚きのことがら、不思議なこ
と、と現象やことがらだけに注目するのではなく、主は確かに生きておられるということを見る
ことが出来る者は幸いである。 主が語られたことばが実際となることによって、主が生きてお
られることを実感することができる者は幸いである。 霊である神を感知することができるの
は、我々の霊であるが、それが正常に機能しているということになる。 主キリストとの交わりを
持つことが出来ているということであるからだ。 

2012年、世の中が良くなることを多くの者たちは望んでいる。 著者も同様であるが、何がある
かわからない。 世は終末に入ったという人も多いからだ。 どんなことがあろうと目に見えな
い方を見るようにして、忍び通し
て、真の神、主イエス・キリストに信頼していきたいものであ
る。 そして、聖められることを追い求めていき、また、何が神の御心であるか、何が善いこと
で、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる
ことができるようになるため、日々、へ
りくだって絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、聖書を読み、聖霊の流れに
乗っていきたいものである。
(ローマ12:2、エペソ6:18) 

★新約聖書 第一テモテの手紙 1:17
   どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが
   世々限りなくありますように。アーメン。

★旧約聖書  ヨブ記 42:5
   私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。





めんどり聖書研究会