めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年11月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<聖書の解釈についての思考を巡らす>



★新約聖書 第一コリント人への手紙 2:14
   生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚か
   なことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊に
   よってわきまえるものだからです。

★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 2:13
   ・・・この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

新約聖書 第二ペテロの手紙 1章20節に「・・・聖書の預言はみな、人の私的解釈を施して
はならない・・」
と書かれている。 クリスチャンがみことばを解釈するときに注意を促す箇所と
されている。 聖書のことばは「誤りのない真実な神のことば」である。 だから著者で? る神ご
自身の神意を知るべきであり、自分勝手に解釈すべきでないというように一般的には受け取ら
れている。 ある意味、その通りであるが、原語の意味から見るなら、「私的解釈」と訳されたこ
とばは英語聖書J.N.Darby訳では「それ自身の解釈」と訳され、「聖書の預言はみな、それ自身
の解釈を施してはならない」
というのが、より神が望まれている解釈であると聞いたことがあ
る。 要は、一文一節、もしくはその箇所だけを抜き出して解釈するのではなく、前後の文脈の
流れや聖書全体から神のみこころを知れ、聖書を聖書 によって解釈せよ、ということである。 

そのようにしなければ、無意識かもしれないが自分にとって都合のいいことばを抜き出して、そ
の文だけで都合のいいように解釈してしまうというようなことが有り得るからだ。 また、それを
人に教えるならば、神の神意と全く違う「教え、導き」という形になって、本来、神が定められた
自分の行くべき道を誤るだけでなく、教えたその人の行くべき道をも誤らせてしまう危険性がな
いとは言えない。 いずれにしても聖霊の導きによらなければ、本当に正しい解釈はなされな
いが、実際、このことがある意味、難しいことである。 聖霊に導かれていると勘違いも多いよ
うだからである。

大切なことは、聖書のみことばは正しくても受け取る側が、神の思し召しにかなう通りに受け
取っているかどうかである。 そして結論から言うならば、重要なことは、みことばの真理を、人
が知的に知るのではなく、その人にとって事実、実際、現実になっているかどうかである。 

さて、みことばを解釈するというとき、著者の場合、今まで取り組んできたことは、簡単大まか
に言えば、@「文字そのままに受け取る」。 A「たとえとして受け取る」。 B「文字そのままに
受け取る」と「たとえとして受け取る」の両方の場合、以上だった。 聖書のことについての専門
的知識に乏しいゆえ、多くの方々のメッセージや原語、地理、歴史などの知識をよく調べてお
られる方々の書いたものから教えられることも多かった。 しかし、結局、祈りによって体験な
どを通して、聖霊に悟らせていただくことが一番多かったし、今後もそうであろうと思われる。 

「文字そのままに受け取る」ことについて、例えば「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世
に来られた。」
は、その文字通りであろう。 また、「右の目が、あなたをつまずかせるなら、え
ぐり出して、捨ててしまいなさい。・・・(マタイ5:29)」
を文字そのまま受け取って、罪を犯したか
らと右目を実際、えぐり取る人はいないだろう。 前後の文脈の流れや聖書全体から見ても、
そのまま受け取ることはないだろう。 また黙示録やエゼキエル書など明らかにたとえで書か
れていると思われる書以外にも聖書全般、多くがたとえで書かれていると思われる。 主イエ
スも多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。 ただ、弟子には天の国の奥義を知るこ
とが許されている。(マタイ13:3、34)

その他、著者の場合は神のみこころの一つを知るのに、一箇所のみことばだけで知ることが
出来る場合もあるが、多くは聖書全体からパズルのようにあのみことば、このみことばと幾つ
かを合わせて、祈り考えてようやく、一つの神のみこころを知る、ということも多かった。 そし
て多くは、みこころを知ったときに、その解釈が真実であるという証拠とも思える事実、実際、
現実を伴った。 様々な体験を通して神のみこころ、神のことばを知り、みことばが現実的なも
のとなり、その事実、実際を自分のものとしてくださったことが多かった。 与えられたみことば
が内側で成長してきて、数々の試練と共に働いて、自我を砕き、悔い改めに導き、・・・というこ
とも多かった。 とにかく最もしてきたことは祈りである。 祈りも、主が著者にさせたい祈りをも
求め祈ってきたが、今後もそうするつもりである。 
 
また、みことばの中には、同じみことばでも一人一人にとって、たとえとしてだけで受け取るべ
きもの、また文字通りとたとえと両方で受け取るべきものと、それぞれ違う場合があるのではな
いかと思われる。 例えば、「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるい
は畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ1
9:29)」
を文字通りで受け取るなら、主イエス・キリストのため何もかも捨てて、家を出るというこ
とになる。 しかし、たとえで解釈するなら、主のため、主の喜ばれない教会(家)を出る。 教
会の兄弟姉妹、教会の牧師や教役者、そこで活用していた働きや自分が導いていた人などを
捨ててということになる。 多くの場合、たとえで解釈した受け取り方をするであろう。 しかし、
人によっては、実際、聖霊の導きで、すべてを捨てて家を出た、ということを聞いたことがあ
る。 しかし、ずっと出たのではなく後には、家に戻ってきて、「その幾倍もを受け」の一部を体
験し始めていると聞いたことがある。

いずれにしても我々は、神のことばを聞く、神のみこころを知る、そのみこころが自分にとって
現実、実際となる、ことが重要である。 神のことば、聖書には間違いはない。 受け取る側で
ある人に、間違いは存在しうる。 とにかく絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御
前にへりくだって祈り、真剣に「みことばをください」と求めていきたいものである。 「みことば
を受け取る」ことについて、祈りつつ失敗も含めて繰り返し々、思い巡らしながら、主に尋ねて
いきたいものである。 そして、主のみことばを正しく受け取りつつ、主が定めておられる一人
一人に示してくださる道を歩んでいきたいものである。

★新約聖書 第一テモテの手紙 1:15
   「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、
   そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

★旧約聖書 箴言 30:5
   神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

★旧約聖書 イザヤ書 40:8
   草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。





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