めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年10月16日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神のみこころには、神の計画があり、神の御思い、期待がある。>




★旧約聖書 (口語訳)エレミヤ書 29:11
   主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。そ
   れは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来
   を与え、希望を与えようとするものである。

★旧約聖書 (口語訳)詩篇37:23、24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。  たといその人が倒れ
   ても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

★旧約聖書 箴言 19:21
   人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

●「神のみこころ」とは、「神のご計画」のことである。 「神の計画」には、宇宙創造からはじ
まって、永遠に続く神の国の完成までの壮大なものから、一人一人に持つ、小さな計画、細
かいものまである。 「神のみこころ=神の計画」には、二つの面がある。 一つは、神がすで
に定められているので、人もどんなものも妨げることができず、神ご自身が主権を持たれ、問
答無用で確実に、必ず実現されるというもの。 もう一つは人の意志が関わるもの。 人には
神から自由意志を与えられている。 この自由意志により、選択は人に任されている。 だか
ら、神が「神のみこころ」を語ってくださっても、人がそのみこころに応答しないと実現されない
ということがあり得る。 その「神のみこころ」は、神が望まれていること、神の御思い、期待、
願い、気持ちである。 

このように「神のみこころ」には、二つの面が? るが、その一つの例として、出エジプトしたイス
ラエルの民のことを見てみたい。 神はモーセを用いて、エジプトで奴隷の状態であったイスラ
エルの民を救い出した。 神は彼らを乳と蜜の流れるカナンの地に導くことを約束された。 こ
のことは、神が定められた「神のみこころ=神の計画」であった。 

カナンの地に入るまでの途中経過において、様々なことがあった。 その一つ一つの出来事に
は、神の定められた「神のみこころ(計画)」と人の意志に任された「神のみこころ(御思い、期
待)」が混在している。 モーセを先頭にイスラエル人が脱出した後、エジプト軍が追跡してきた
こと、紅海の水が分かれて、イスラエル人はそこを通って行き、エジプト軍は、海に飲み込まれ
てしまったことは神が定められた「神のみこころ(計画)」だったと思われる。(出エジプト14章) 

カデシュ・バルネアまで来た時、主の命令によってモーセは12人の斥候を遣わして約束のカナ
ンの地を探らせたが、このことも、「神のみこころ(計画)」だった。(民数記13:1) ところが現
地を偵察してきた斥候たちの中でヨシュアとカレブ以外の十人は恐れから不信仰になり、その
彼らの報告から民の心はすっかりくじけた。 モーセたちは、出エジプトにおいて主が戦ってく
ださったことを民たちに思い起こさせようとしたが、ヨシュアとカレブを殺そうとするほど民たち
は不信仰になった。 

イスラエルの民が、ヨシュアとカレブのように、「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れ
てはならない。(民数記14:9)
」と主に拠り頼んで、行動することが「神のみこころ」であった。 
主はそのように望んでおられた。 しかし、民は、その反対を選んだ。 その結果、出エジプト
をした民のうちカナンの地に入れたのは、ヨシュアとカレブと20歳未満の者たちだけだった。 
その時から、イスラエルの民たちは、向きを変え、荒野に向かって出発するよう命じられた。 
エジプトから約束の地カナンまでは、通常なら2週間ほどで到着できる距離だったが、斥候たち
が偵察した40日という期間に応じて40年間が定められ、その間にそのとき20歳以上の者は死
に絶えてから、子どもたちがカナンに入った。 

荒野での40年間に起きたいろいろな出来事、様々なことは、イスラエルの民を試し、訓練する
ことになった。 そういうとき、神は人がどう応答するかを見ておられる。 イスラエルの民の応
答は、たとえ大いなる奇跡を体験していたにも関わらず、不信仰な応答だった。 「カナンを与
える」という神が定められた「神のみこころ(計画)」をくださっているのだから、イスラエルの民
は進んでいくだけでよかったはずである。 

乳と蜜の流れるカナンの地に、イスラエルの民が入ることが神の定められた「神のみこころ=
神の計画」だったが、実際、入ったのは約束を聞き、出エジプトした民ではなく、その子どもた
ちだった。 出エジプトした民がみなカナンの地に入ることが「神のみこころ(期待、御思い)」
だったが、イスラエルの民の意志は、神の御思い、気持ちを選ばなかった。 彼らは、何か出
来事があるたびに、特に自分たちにとって嫌なこと、不都合なことが起きるたび、神に頼るの
ではなく、つぶやいた。 人(モーセ)を責め、苦しみの原因を人(モーセ)のせいにした。 も
し、彼らが苦難にあったとき、その出来事、事実を素直に受け入れ、神に依りすがっていたな
らば、彼らの自我は砕かれたことであろう。 そして、もっと早くに、しかも多くのイスラエルの民
が約束の地カナンに入れたことであろう。 

さて、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私の
ために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇 139:16)」「人の歩みは主に
よって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(箴言20:24)」
と書かれている
が、主は我々一人一人の人生の青写真も持っておられるということである。 我々の人生が始
まる前から死ぬときまでの日々のすべてのことが書き記されているということである。 我々一
人一人のことをご存知で、一人一人に最善の人生を用意してくださっているということである。 
ただ、長い人生の中には、我々が自分の意志で選択していくべき小さな、細かい「神のみここ
ろ」が多くあると思われる。 その一つ一つを「神のみこころ」を知って選択していくことは重要
であろう。 主は、我々のすわるのも、立つのも知っておられ、我々の思いを遠くから読み取ら
れ、頭の毛
の数さえも知っておられる。(マタイ10:30) だから我々の方も、神のみこころを
知って「何事でも神のみこころにかなう願い」をしていくことが大切であろう。(Tヨハネ5:14)

「神のみこころ」には、二つの面があるので、それらを見分けていくことは、時には必要である
と思われる。 問答無用でなされる「神のみこころ(計画)」は、神がその通り実現されるが、
我々の意志での選択、応答が結果を決めてしまう「神のみこころ(御思い、期待、願い、気持
ち)」があるからだ。 

神は我々に対してあらかじめ定まったご計画をもっておられるということだが、ただ、それを
我々一人一人が詳細に知るのは、なかなか難しいものである。 しかし、不信仰にならず、つ
ぶやかず、絶えず主に祈り求めていくならば、主は必ず「主によって定められ」た道へと導いて
くださる。 そして、我々の意志で、選択、応答の必要な「神のみこころ(期待、御思い)」には正
しく応答していくことができるよう、自我を砕き、肉を切り取ってくださるであろう。 すべて聖霊
の働きである。  

聖霊が働いてくださるためにも我々は、主が語られる御声、またはいろいろな出来事を通し、
いろいろな人を通して語られる主のみことば、「神のみこころ」の前にへりくだって従っていきた
いものである。 日々、絶えず祈り、ますますキリストとの交わりをしっかり深くつながっていき、
主が定めておられる一人一人に示してくださる道を歩んでいきたいものである。

★旧約聖書 エレミヤ書 10:23
   主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確
   かにすることも、人によるのではないことを。

★旧約聖書 詩篇 33:11
   主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。



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