めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年9月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神はすべてを見渡し、すべてをご存知の上でのご計画を立てられている>



★旧約聖書 ヨブ記  42:2、5、6
   あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知
   りました。・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを
   見ました。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

旧約聖書ヨブ記には、ひと言で言うなら、主人公のヨブのに理不尽な壮絶な患難が襲い、
すさまじい試練のその後の回復、祝福について書かれている。 イギリスの歴史家・評論家
トーマス・カーライルはヨブ記について「人間の運命、および神がこの地上にある人間にどう対
処されるかという問題に対する最古の声明である。」と言っている。

ヨブは「ウツの地」に住んでいた異邦人(神に選ばれた民ユダヤ人ではない)だった。 偶像礼
拝の環境の中で育ったが、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨブ
記1:1)」
という。 そのようなヨブは七人の息子と三人の娘を持ち、多くのしもべ、多くの家畜、
多くの財産をも所有する東の人々の中で一番の富豪であった。 彼の子どもたちは仲がよく、
互いに行き来し、順番に兄弟姉妹みなが集まって食事をしていたという。 「こうして祝宴の日
が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別し、
朝早くから彼らひとりひとりのために、それぞ
れの全焼のいけにえをささげた。 ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神
をのろったかもしれない。」と思ったからである。 ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ記1:
5)」という。

ヨブは、自分でも理解できないままに、財産や、家族、健康を奪われて激しい苦しみの日々を
過ごした。 友だちからも「罪を犯したから罰を受けている。罪を悔い改めよ」と攻められ、その
上、神に叫んでも答えがなく悶絶するような苦しみであった。 ヨブは死を願ったが、決して自
殺は企てなかった。 神への信仰の中に踏みとどまっていたからであろう。 試練は過ぎ去っ
てヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見まし
た。(ヨブ記42:5)」
と神の前にへりくだり、前の半生よりあとの半生は、所有物はすべて二倍に
増され、前の半生ほどの年数を生き、親戚や旧友たちが戻って来て、またつきあいが再会さ
れ、子どもも最初と同様十人与えられるなど、もっと祝福されたという。 

さて、今回、考えてみたいのはヨブの子どもたちのことである。 ヨブ記では子どもたちの信仰
については触れていない。 兄弟姉妹、仲がよく行き来して、一緒に飲み食いするのを常として
いたとしか書かれていないが、本当に愛し合っている家族であったと思われる。 しかし、子ど
もたちが、信仰があったかどうかはわからない。 あったにしてもヨブほどではなかったと思わ
れる。 むしろ、ヨブの信仰によって、子どもたちは守られていたようにも受け取れる。 もし、
子どもたちが災いにあわず、そのまま地上で生きながらえていたとしたなら、子どもたちが信
仰を全うできたかどうかはわからない。 親が敬虔だから子どもも敬虔になるとは限らない。 
彼らのことは神が一番よくご存知である。 

ヨブは神から「無垢な正しい人」と言われるくらいの信仰の持ち主だった。 サタンは「ヨブはい
たずらに神を恐れましょうか。 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を
巡らしたではありませんか。・・しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってくださ
い。・・彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。(ヨブ記
1:9〜11、2:4、5)」
という提案(一種の賭け)をし、神はそれを受けられた。 神はサタンに、ヨ
ブの命には触れてはいけないが、何をしても良いと許可をした。 だから、ある意味子どもたち
は、ヨブによってこの地上の命が終わることになった。

試練の後、繁栄が回復され、新たに息子七人、娘三人が与えられたが、これで亡くなった子ど
もたちと同じ十人だからとすまされるものではない。 親にとって、どのような子であっても一人
一人 掛け買いのない存在である。 おそらくヨブは回復した後も、最初の十人の子どもたち
のことを忘れなかったであろう。 心深くに食い込んだ体験は到底忘れることはできないもので
ある。   

最初の十人の子どもたちは、あの時にこの地上の人生を終えることが神のご計画であったの
ではないだろうか。 そしてあの時だったからこそ、天の御国に入れたと言えるのかもしれな
い。 すべては神のみぞ知る、と言っても、少なからず自分の存在によって、子どもたちが地獄
へ行ってしまったなどということであれば、ヨブは立つことができなかったであろう。 子どもた
ちは地獄へ行ったのではなく、神にお返ししたのだと受け取っていたことが、「私は裸で母の胎
から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」ということばで伺える。 それでも子どもたちを
亡くして「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とはなかなか言えないもので
ある。 

しかし、ヨブは徹底的などん底の中で、自分の弱さ、無力さに気が付き、その激しい苦痛と絶
望を通して神に出会った。 神を見た。 神を見た後の半生のヨブの心は、明らかに違ってい
たと思われる。 だから、新たに与えられた子どもたちに対して与えた影響は大きかったと思
われる。 後の半生で与えられた十人の子どもたちは、ヨブが彼らの信仰を守るのではなく、
子どもたち自身一人一人が神を知る、神を見る信仰へと導かれ、子どもたちがそれぞれ自ら
信仰を守っていくようになったのではないだろうか。  

また、最初の十人の子どもたちについても、亡くなった時に悲しみ嘆きながらも気丈に「主は与
え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言ったと思われるが、神を見、神に出会った
後は、むしろ子どもたちは、神の前で生きていると確信を持ちつつ、人知ではとうてい測り知る
ことのできない神の平安
の中で思い出すことができたのではないだろうか。 すべて推測の域
ではあるが、そう思いたい。

神はただご自身の栄光のため、考え無しにサタンの賭けのことばに乗ったということはあり得
ない。 「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる
(Uペテロ3:9)」
神であられるから、人のすべての考えにまさる神の御考えがあったと思われ
る。 神は、ヨブのゆえに彼らの子どもたちひとりひとりをも見て、あわれみをかけてくださって
いたと思われる。 またヨブに関わる人たちをも神のあわれみのご計画の中に入れてくださっ
ていたのだと考えられる。 それは、ヨブが神に対して畏敬の念をもって、心から従おうとして
いたその姿を神は見ておられたからであろう。 

神は、ご自身が創造者であり、ご計画をされる方である。 神のご計画、経綸は人には理解で
きないことの方が多い。 それは、言い換えれば、神が責任を負ってくださっているということで
ある。 神は、人に徹底した信仰を求めるだけではなく、また信仰の浅い深いに関わらず、主
の御前にへりくだり、心から従おうとする者を心から愛し、すべてのことを益となるようにして下
さる御方である。 

日々、主の御前にへりくだって祈り、真剣に主のみこころを求めていきたいものである。 ま
すますキリストとの交わりを深くしっかりとしていき、主が定めておられる一人一人に示してくだ
さる道を歩んでいきたいものである。 新しい聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりた
いものである

★旧約聖書 詩篇  145:8、9
   主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 主はすべての  
   ものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。



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