めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年9月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<自分の解釈判断でみこころを行うのではなく、主が示されたみこころをキリストにしっかりつながって行なうことが大切>



★新約聖書 マタイによる福音書 7:21
   わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
   れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 5:71
   ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

●「みことばを行なう」ことについて」、一人の青年が「永遠のいのちを得るためには、何をした
らよいのか。(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)」とイエスのところに来た。 イエスは「戒め
を守りなさい。」
と言われた。 すると彼は、「みな、守っております。」と答えた。 戒め、神のこ
とばを行なっていると言い切っている。 イエスは言われた。 「あなたの持ち物をみな売り払
い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 しかし、この主のこと
ばを聞いた青年はイエスから離れて行った。 
 
また、当時、戒律を最も厳格に守っていた教派のパリサイ人。 その律法を教える専門家、律
法学者。 彼らは、自分たちこそ神に仕えている者、神のみことばを行なっている者であると思
い込んでいた。 だから、常識はずれもはなはだしい、神を冒涜するとんでもない輩は十字架
にかけられるのが当然と思っていたようである。 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡
したことに気づいていた
が、案外、彼らは、自分は神に仕えている特別な民族であるという彼
らの自信と思いの強さが、「ねたみ」という罪などを無意識に腹の底に押さえ込んで、気づかな
くなっていたのかもしれない。 もしくは、「ねたみ」に気づいていても、それを故意に押さえ込ん
で「偽善」を行なって繕うくらい心がかたくなになっていた可能性はある。 
 
このように「みことばを行なう」というのは、難しいものである。 「みことばを行なう」と言うとき、
そのみことばを自分で解釈して、行なう時も場所も自分で判断して「自分なりに」行なうというこ
との方が多いかもしれない。 実際は行なっていないのに、行なっていると思い込んでいること
も多いかもしれない。 イエスは「みこころを行なう」ということに注目されている。 イエスは天
の御国に入る条件は、「父のみこころを行なう者」と言われ、「父のみこころを行なう者」はイエ
スの兄弟、姉妹、母、つまりイエスの家族と言われた。(マタイ12:50)

聖書の中では「みことばを行なう」ということについては、新約聖書ヤコブ書に書かれてい
る。 「信仰だけでなく、行ない」ということに強調点を置いている。 ヤコブがいわんとすること
は、真の信仰なら、必ず主のみこころに沿った行ない、生きた証しがあるはずだ、ということだ
と思われる。 イエスは「みこころを行なう」ということに注目されている。 イエスは天の御国に
入る条件は、「父のみこころを行なう者」と言われ、「父のみこころを行なう者」はイエスの兄
弟、姉妹、母、つまりイエスの家族と言われた。(マタイ12:50)

「みこころ」とは、人間に向けられた神のご意志のことを指すが、神のみこころには二つの面が
ある。 一つは、「神の定められたみこころ」(神の意志、神の計画)。 人も環境も自然もどんな
ものも、それを妨害することはできない。 必ず、実現する神のご計画である。 そのご計画は
不可抗力で、予測不可能である。 神は、ご自身の思うままに、問答無用で行われる。 もう一
つは、「神の望まれたみこころ」(神の期待、願い、思い、気持ち)である。 神がご自身の子た
ちが神の子として存分に恵みを享受し、神の子としてふさわしく生きて欲しいと願っておられ
る。 この「みこころ」が成就されることは、人の意志表示、応答が必要である。 神が願ってく
ださっても、人が神のことばに答えないと成就されないということがあり得る。 

我々にとって「みこころを行なう」とは、後者の方である。 だから、神が我々に、その時その時
に願っておられることを知って、そのとおりに行なう、ということが、「みこころを行なう」ことであ
ると言えよう。 だから「みこころを行なう」ためには、「主のみこころは何であるか」を主に祈り
尋ねる必要がある。 そして、主のみことば、主のみこころを知る。 主は聖書や人、環境など
を用いてその人にわかるように教えてくださる。 みこころを主から教えられたなら、キリストに
しっかりつながってみこころを行なう。 たとえ失敗したとしても、その繰り返しをしているうち
に、主は我々をみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、完全な者と
してくだ
さるであろう。

約20年前、著者が以前の教会に所属していた当時、牧師命令で市内をトラクトを持って戸別
訪問伝道をしていたときのことがある。 ある団地を1軒1軒、訪問して留守宅にはトラクトを入
れた。 団地では、いろいろなセールス訪問が多いためか、ドアに「セールスお断り」というス
テッカーを貼っているところも多かった。 

今も、エホバの証人の戸別訪問は多いが、当時も多かった。 一人でも正しい、本物の救いを
受けて欲しい、エホバの証人に引っ掛からないでほしい、自分はセールスをしているのではな
い、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」
みことばを行なっているのだ、と思い伝道していた。 ある1軒のドアの前に立つと、そこも「セ
ールスお断り」と貼ってあった。 しかし、著者は玄関のチャイムを押した。 すると、ドアが開く
なり、「どあほ!おのれは、これが貼ってあるのが見えんのか。・・・・・・」とすごい剣幕でいろい
ろな言葉でののしられ、怒鳴られた。 著者は思わず「すみません。」と謝って立ち去った。

そのとき、心の中で「みことばを行なっていたのだから、それで攻められても仕方ない。右の頬
を打たれたら左の頬を出せ、迫害する者のために祈れ、・・・・あの人が救われますよう
に・・・・」などと思い巡らしていた。 しかし、心のどこかに引っ掛かりを感じた。 それで、主に
尋ね祈った。 

すると主が教えてくださったことは、著者は「みことば、みこころを行なっていた」と思い込んで
いたが、神から見られたら、実際は行なっていなかったということである。 「すべての造られた
者に、福音を宣べ伝えよ
」というみことばを行なうにも神のみこころの時、場所、詳細があると
いうことである。 すべての人も事も、詳細を主はご存知である。 そのお宅を、その日のその
時間に訪問することは、主のみこころではなかったということだ。 主のことばを、キリスト教会
の常識や自分の基準で解釈、判断して、行なうのではなく、主が示してくださることを知って、
示された通りに行なうことが、本当に主が願われる「みこころを行なう」ことであることを教えら
れた。 その後は、一つ一つ主のみこころを求めて祈り尋ねてから行動するようになった。 
 
いずれにしても、キリストにしっかりつながるために、日々絶えず、主イエス・キリストから目を
離さず、主の御前にへりくだって祈り、真剣に主のみこころを求めていきたいものである。 ま
すますキリストとの交わりを深くしっかりとしていき、新しい聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる
者になりたいものである

★旧約聖書 詩篇 143:10
   あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。・・・

★新約聖書 ヘブル人への手紙 13:21
  イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたが
  みこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者と
  してくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。




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